ハイサイ琉球

武寧天皇の治世(3-6-4)1395~1410

西欧以外でプレイすると元号が使われないのがしっくり来ないが、いちいち調べながらやるのも大変そうなので、一世一元の詔を4世紀早めだが採用。1399年を武寧五年とする。
まず、明国と友好関係を築いて、なんとか独立を保ちたい。極東の交易圏に琉球の地位を確立させようとか、もうそう次元じゃないのだ。何をするにもまずは金と人である、人口は8677人成長率10%なので、3年後には1万人を突破するであろう。
なんにしろ、海軍の増強と殖民を並立させうるだけの経済力が必要だ。
島国は海軍さえ強力であれば独立を保つのは可能だ。逆に上陸を許せばほぼおしまいである。
すでに十数回上陸を許して滅んだ経験を生かし、なんとか生き残りたいと思う。
宮廷の偉人を登用した。陳尚質という知謀家。+3は序盤ではまあまあ能力である。それでも最初の国策を選択できるようになるまでに32年必要だ。

武寧6(1400)年、後継者が誕生。しかし、尚巴志ではない。尚敬という。なんとなくどうなんだろうと思ったが、皇太子の名前が気に入らないくらいなんだ!尚巴志がいなくともすでに琉球は天皇の名の下に統一されているではないか。

武寧七(1401)年、日本、朝鮮、満州がなにやら争っている様子。こちらには関係ない、というか、大いにありだ。明国にがんがん貢ぎ、友好を勝ち取らなければ。
海軍の編成に成功し、海軍の戦訓を5.00得た。豪商を雇い入れられるので、人材登用。比呂尚永というものを雇い入れた。
これで琉球の競争力が4%増加した。

武寧八(1402)年11月に明国へ通行許可を申請。受理された。
人口調査を実施し戸籍の再編成を行う。

武寧九(1403)年2月、江蘇に商人を送り込もうと福建をクリックしてみたところ、明国が琉球の独立を保障していることが判明。見落としていたのか、しかしこれで一安心である。

武寧十(1404)年、土地改革を実施し土地の利用効率を向上させた。
しかし密輸が横行し、その取締りに10.3ダカットの費用を要し、過度な取締りで国内の治安は低下。
7月、満州が植民地征服を名目に宣戦。明国が満州に宣戦した。12月には明軍がヒンガンを占領し、満州に朝鮮との条約を破棄させて和睦。頼もしきかな大明。

摂政評議会の統治 1410~15

武寧帝崩御後、新帝として尚敬が皇位についたが、8歳という年齢のため、有力豪族である山本家の尚円親方の摂政政治が行われることになった。

6月13日摂政が玉座を簒奪!山本尚円親方が王を名乗り帝位を簒奪するが、支持者は少なく尚円親方は敗れ、鉱山送りとなった。

ryk1410-1.jpg
このイベント初めてでました

尚敬天皇の治世 1415~35

尚敬元(1415)年、元服した尚敬は親政を開始した。7-5-5というその能力に誰もが期待した。

尚敬二(1417)年1月、大明庇護のもと、中継貿易で国を建てることにした琉球は、商取引の合理化と商人の積極的支援を行っていくことに決した。(と交易技術が4に達し、合理的商慣行を政策に採用。)

この年、マラッカとの交易を開始、摂津の市場への商人の派遣を再開した。

尚敬四(1419)年7月、官僚制の拡大を採用。
尚敬七(1422)年、易断の推進を採用。
尚敬八(1423)年、ビジョンクエストの導入を採用。
尚敬九(1424)年、プラマプトラが合流。しかし維持不能と判断。アッサムへ譲渡。

ryk1424.jpg
どこにあるのか探してしまいました

後にシーサバンバと雲南が合流。どこにあるのかもわからないし、維持不可能なので周辺国ともめてしまう前に0ダカットで売却。

摂政政治 1435~43

尚元六(1441)年1月、日本が攻めてきた。明国が同盟を履行して、37隻ものガレーを繰り出してきた。天草沖で陸軍を登載中の日本海軍を(明軍が)急襲し壊滅させた。9月21日には日本から痛みわけの提案。

・台湾への殖民事業
琉球という名前が歴史書に登場したのは古く、流求という字で「隋書」に登場している。しかし、隋書のいう流求は台湾のことをさしていたようだ。
13世紀に現在の沖縄県地方が明に朝貢するようになると、琉球とは台湾、沖縄周辺の島嶼をさすようになり、朝貢した沖縄を「大琉球」台湾を「小琉球」と呼称した。
このゲームでは沖縄は1つのプロヴィンスなので、三山統一などはできるはずもないが、中国史書にある琉球の統一を果たすことは可能だ。
日本との戦争に負けなかった琉球は、統一事業に乗り出すことになる。

尚元天皇の治世 1443~52

尚元八(1443)年2月、羽賀尚敬(はがなおたか?)将軍に率いられた3000の琉球軍が台湾に上陸。現地人の弓と剣による手厚い歓迎をうけた。この戦いで半数を失った羽賀勢は海上の艦隊へ撤収。人的資源のない琉球は、戦力の回復まで数年を要することになる。
5月、敗戦の報は周辺各国に伝わった。朝鮮が、満州を同君連合として支配し、極東に覇をとなえんとする勢いのついで(苦笑)に琉球に宣戦。明国は琉球について参戦した。これなら楽勝(笑)
天草沖は日本、朝鮮にとっての鉄底湾となった。またしても明海軍の大軍が琉球への上陸部隊を乗せた艦隊を壊滅させたのだ。
大明万歳。
11月には朝鮮から和睦の使者が到着。痛み分けとした。

台湾の現地人の抵抗は強烈であった。その昔、日本や朝鮮の侵略軍を撃退した琉球軍が、今度はその屈辱を味わうことになったのである。
台湾への入植はいったん諦め、南洋の比較的抵抗の少なそうなスールーという島に中継貿易の基地を築いてはどうか。

しかし、スールーへの入植はブルネイの反感を買いかねないし、南洋で島を維持するには海軍が足らない。もしも同時に南北で侵略にあった場合、到底守りきれるものではない。
なにしろ琉球に宣戦するには「植民地征服」を大義名分にできるのだ。ここは近いところから着実にいくべきだ。
ここまで生き残っていること自体が奇跡なのだから。

尚元十一(1446)年10月、休戦協定を無視し、日本が宣戦。明国は琉球について参戦。

ryk1448-2.jpg
制海権を得た琉球は調子に乗って

尚元十三(1448)年4月11日、琉球軍は薩摩に上陸。九州北部と四国へも明軍とともに侵攻。これはもしや!とおもいきや、12月に朝鮮が宣戦。
日本とは九州四国を制圧した時点で痛みわけwで和睦。朝鮮には明国が宣戦していないので、単独ではとても勝てない。海軍を地道につぶして、痛みわけに持ち込むしかない。上陸するわけではないので、日本から撤収した傭兵部隊をつかって台湾へ。現地人との激しい戦いを繰り返した台湾派遣軍は、なんと、現地人を一人残らず皆殺しにしてしまう。
琉球は入植者を台湾へ送り(1451)、都市を再建しなくてはならなかった。
またビハールとの交易が開始されたのも朝鮮との戦争の期間中であった。
同年9月、朝鮮と休戦。

尚元十七(1452)年、王位僭称者「尚巴志」が蜂起。尚巴志というのは史実で琉球を統一した王である。向こうが正当な気がするが、撃破。
翌年、尚元天皇崩御。尚巴志の祟りか。


添付ファイル: fileryk1448-2.jpg 221件 [詳細] fileryk1424.jpg 253件 [詳細] fileryk1410-1.jpg 258件 [詳細]

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2010-05-27 (木) 19:16:46 (3339d)