シチリアの思い出2 16世紀

シチリア飛躍の世紀

殆どを待機で過ごした15世紀とうってかわって16世紀は飛躍の時代であった。
オスマンを倒しイタリア~ギリシャ~アナトリアに跨る大国を築きあげたのがこの時代である。

1504年

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ピサを外交併合した。
この時点でシチリアはマンパワー33858、月初収入32.8ダカット、陸軍扶養限界34、海軍扶養限界45となった。
しかし規模的にはいまだボヘミアにも劣る水準でしかないことには違いなかった。
シチリアにはさらなる拡張が求められるのだが……。

1511年

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かねてより対立関係にあったオーストリアとボヘミアがついに開戦、ボヘミアは完膚無き敗北を期した。
中欧にオーストリア一強の時代が到来したのであった。

1537年 シチリア vs オスマン

チャンスは突然やってきた。
カフカースをはさんで睨みあっていたオスマンとモスクワがついに戦端を開いたのだ。
この時元首にはある考えが浮かんだ……シチリア海軍をもってマルマラ海を封鎖し、バルカンからオスマン勢力を一掃するのだ。

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戦いは短時間で決した。
戦力のほとんどを対モスクワ戦に投入している上、厭戦感情が高まりつつあったオスマンにとって
バルカンの大半を明け渡すよりほかはなかった。
シチリアはフム、コソボ、アルバニア、ジャニナ、ラリッサ、マケドニア、アテネ、ブルガス、ブルガリア、エディルネを得た。

マンパワー60159、月初収入77.7、陸軍扶養限界57、海軍扶養限界48となった。
シチリアの活路は東方にあり、と考えるようになった。

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一方その頃のヨーロッパ勢力図。
ブルゴーニュがオーストリアとの小競り合いの末領土を一部失っていた。

1542年 シチリア vs オスマン

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シチリアとオスマンの間でふたたび戦端が開かれた。
オスマンはバルカンを奪回すべくワラキア方面に50000~60000以上の大軍を待機させていた。

当時のシチリア陸軍が総勢60000程度であったから数的にはほぼ互角であり、
接戦が予想されたが結局オスマン軍はシチリア軍にほとんど打撃を与えることなく壊滅の憂き目に会ってしまう。
しかし楽勝ムードに浮かれているさなかにポルトガル・アラゴン同盟が突如シチリアに宣戦してきた。
残念ながらオスマン戦は早々に打ち切る羽目に。

シチリアはオスマンからボスニア、セルビア、ワラキア、オルテニア、シリストラを、
ポルトガルからアンコーナを、アラゴンからコルシカ、サルディニアを得た。

この戦いで戦力を殆ど失ったオスマンに対してジェノバ他幾つかの国がオスマンに宣戦した。

1544年 シチリア vs オスマン

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予想に反してオスマンの崩壊が急速に進んでいく。
東方への領土拡大を重要視していたシチリアにとって他国によるオスマン分割はできる限り避けたいところであった。
元首は休戦協定を破棄しての開戦に踏み切った。

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ブルサ、ビチュニア、アナトリア、カタモヌム、シノーペ、アンゴラ、シワス、アイディンを得た。
一方国内には社会不安が広がり以後十数年にわたって反乱が頻発する事態となった。

マンパワー83228、月初収入86.9、陸軍扶養限界89、海軍扶養限界54となった(安定度-2の状態)。

1545~1569年

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悪評を消化しつつアナトリアの制圧を進めていった。
また1541年からポルトガルが神聖ローマ皇帝の位についていたため余裕とみてトスカナを攻撃、
3プロヴィンスを得た(属国化狙いだったが必要戦勝点が100を超えたため断念)。

ついでにエルサレムを奪回した。
エルサレム巡礼行路を独占したシチリア商人はたいそう儲けたという。


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Last-modified: 2010-11-07 (日) 23:28:44 (3091d)