パックス・ジャポニカ

 
 

「この一つの城の陥落によって、いわゆる戦国時代が始まったという事です」

                                      ―ある歴史家

 

西暦1401年(応永8年) 4月 九州、肥後国矢部 岩尾城本丸

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参考資料肥後国(Wikipediaより)

「一体、何故…」

 男は、呟いた。それは純粋な好奇心からの言葉というよりは、怒り、驚き、哀しみ、といった類の感情の混ざったものであった。やりきれない、と言った方が正しいかもしれない。
その顔には、およそ戦乱の時代を生き抜いてきた者に特有の、凄味が備わっていた。その上に、苦労に満ちた人生を窺わせるかのように、何本もの皺が刻み込まれている。
その両眼には、今にも陥落寸前の山城が映っていた。本丸以外は全て焼け落ち、数百数千の敵兵が城内、城外を埋め尽くしている。四半時もしない内にこの城館まで迫ることだろう。
 最後の砦たるこの本丸では数十名の手勢が弓持ち刀持ち、絶望的な抵抗を繰り広げていたのである。

「惟政(これまさ)、ここまで堕ちたか…!」

 男は、攻め寄せてきた、彼の甥であり政敵の名前を吠えた。簡単にいえば、この男の一族は分裂していた。ほんの数年前に終結した南北の宮方と武家方の争い ―要するに中央の主導権争い― の余波はこの九州にも伝わった。この男の一族も、どちら側に付くかで揉め、それこそ血で血を洗う抗争を経て、完全に分かれてしまったのだ。男も、実父が宮方にも関わらず、養父と共に武家方として、先の戦乱に加担していた。
 ただ、これまでに一度だけ、一族統合の機会があった。まず武家方であった男の養父がこの男に家督を譲った。そして宮方に付き「勇将」の名を馳せたはずの実親が、家の分裂を憂慮してか、同様にこの男に家督を譲ったのだ。
 …しかし当時の情勢は、宮方が一時大宰府を攻略し息巻いていただけあって、宮方はこれを認めず、彼らはこの男の弟・惟武(これたけ)を「正式な」後継者としたのだった。
 ここから男の受難の人生が始まった。
まず、宮方からは実権なき後継者と言われ、相手にされなかった。そしてようやく武家方が九州で勢力を盛り返した後も、男の父親が宮方の「勇将」であったため、その時の恨みを根に持った武家方の役人から悉く疎まれたのだ。
 …しかし、兎にも角にも肥後の地の回復に成功し、南北朝の統一後も家督の統一を良しとしなかった相手方の後継者 ―惟武は既に討死し、その息子・惟政が後継していた― の勢力も宮方の後ろ盾を失ったために衰微する一方であった。あとは腰を据えてじっくり家の統合を進めていけばいい…。そう思い、男は安堵していた。

 そう、今日、この日までは。

 あの大馬鹿者が!自分が死ぬのはいい。だが、"外部勢力"を引きいれてしまったら、元も子も無いではないか!
家の将来に大きな禍根を残すであろう選択をした、甥の愚かさを内心で罵った。
その内に、甲高い音を立てながら飛んできた火矢が自分の周囲にも刺さり始めた。
こうして周辺に事が及んでから初めて、もうどうしようも無い事を今更ながらに悟る。

かくなる上は、潔く戦い、散るしかない。

そう脳裏を過った瞬間、本丸の正門が慌ただしくなった。突破されたのだ。
喊声と共に敵兵が門からなだれ込んでくる。背負うその旗から敵兵が"外部勢力"のものであると確認する。
手勢が応戦するが圧倒的な数の前に一人一人と討ち取られていく。息子の惟郷も果敢に挑むが分が悪いようだ。
敵手の顔を確認した所で、違和感を覚えた。なりは至って普通だが、肌が浅黒すぎる。彼らは土地の者ではない…?しかし、詳細に確認する間もない。
敵が自身の周囲まで迫った瞬間、大音声をあげた。

「我こそは、肥後国守護の阿蘇大宮司惟村である!討ち取って大将の目にかけよ!」

―1401年(応永8年) 4月17日 肥後国守護、阿蘇惟村はその本拠、岩尾城にて果てた。数人の兵を道連れにした大往生だったという―

 

西暦1401年(応永8年) 5月 九州、筑前国早良郡 姪浜城(別名:探題館)

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参考資料筑前国(Wikipediaより)
島津・肥後侵攻経路

 九州探題(幕府の九州出先機関)・渋川満頼は城館でその報告を聞いて仰天した。
島津が、阿蘇氏の守護する所である肥後国を、旧南朝方の大宮司・惟政の手引きにより武力占領したというのだ!
そして厚顔にも、その事を認めるように、との書状すら島津、阿蘇の連名で出されている。
それを聞いた時、満頼は最近薄くなってきた頭髪を、さらに掻き毟って何本か落してしまった。
これ以上懸案を持ってきてくれるな、という風に特徴のない顔が捻じ曲がる。
ただでさえ彼の前任者、今川了俊が残してくれた「懸案事項」の処理に頭を抱えているというのに…。

 前任者、了俊は確かに有能であった。彼のおかげで九州の南朝勢力は排除された。
だが彼は…物事を要領よく解決する、という事は苦手であった。

 筑前守護の少弐氏との関係が険悪(というか反幕)になったのも了俊の「ちょっとした暗殺」が原因であったし、
その出来事により九州中の守護(味方にすらも)から九州探題が白い目で見られているし、日向国では強固な同盟関係にあった
国人(豪族)同士が、了俊が九州平定のため両者に競争原理を導入した事が原因で今は反目し合ってしまっている。
 そもそも、了俊が九州探題を解任されたのも九州で半ば独立国のように勢力を拡大し、それが室町殿に警戒されたからであった。

 満頼にしてみればこの阿蘇家の騒動も同様に「困った問題」であった。

 別に阿蘇氏の事は良い。惟村は所詮南朝方の息子であるし ―南朝への対抗上、支持していたにすぎない― 惟政に至っては不倶戴天の敵だ。
問題は島津氏である。彼らが最初に日向の北半分、半ば独立国然としていた地域を平定したまでは良かった。そもそも島津氏は日向の守護なのだ。
だが、その返す刀で阿蘇氏の旧南朝方後継者を支援したこと…これはいただけない。

 惟村が岩尾城戦で討たれ、旧南朝方の惟政が阿蘇の実権を(島津の傀儡であっても)握った事。これは、我が武家方に対する重大な挑戦である。
いくら惟政が正統性を自称しても、旧南朝方である惟政を軽々しく認めるわけにはいかない。
しかし…惟村の後継者、一族郎党もろとも、岩尾城で消滅している。武家方としても、いくら苦々しく思っても、「正統な」後継者が消滅してしまった以上、現状を追認する他ない。

 それに、もしこれを認めなければ、必ず後ろ盾である島津との抗争になる。現在中央でのゴタゴタが続く武家方としては、これ以上面倒を増やすのはよろしくない。
また、九州も安全とは言い難く、大内氏は衰微寸前、いつ仇敵・少弐氏が襲いかかって来てもおかしくはないのだ。

 満頼はこれらの事を勘案し、苦渋ながらも、室町殿に報告し、島津氏並びに阿蘇氏に現状の追認する旨の使者を出す事を決意した。
もちろん島津に釘を刺しておく事も忘れない。つまり、これ以上許可なく北上すれば全面戦争になるという事だ。

 島津も、流石にそこまでは望んではいまい…。

 今回の事は、単なる守護の「ちょっとした」領土的野心に過ぎない…。そういった事件は、ここでなくとも年がら年中起こっているのだ。
そう考えることで満頼はこの問題をひとまず頭の隅へと押しやった。これ以外にも、厄介な問題は多くあるのだ。
 だが、頭の奥に押し込む際、残滓が数瞬、脳内に残った。なぜ、島津はあえて火中の栗を拾うかの如く、孤立劣勢の惟政の側に付いたのだろう…と。

 

西暦1401年(応永8年) 6月 九州、肥後国矢部 岩尾城、浜の館

 岩尾城は細々と再建されつつあった。
それは岩尾城の居館であり、あれから真っ先に再建された浜の館からも確認できた。

 居館とは、その山城の普段の仕事場所…といった建物である。
山城そのものは軍事的機能が優先されているため、書類仕事といった類の日常業務には不向きなのだ。
そのため、機能的に分離した居館が次第にその麓などに作られるようになっていった。

 人々が山城の残骸を撤去し、新たに木壁を打ち据える…。その様子を尻目に、「肥後国守護」阿蘇惟政は奥部屋で憮然とした様子で唸っていた。

 こんなはずでは無かった。

 誰かが自分の顔を見たならば、そう書いてある、と即座に解っただろう。確かに、岩尾城は再建されつつある。探題に自分達こそが後継だとも認めさせた。
それに、頭痛のタネだった「惟村派」はもう存在しない。だが…

島津・肥後占領統治

 実権だけが無かった。
あったとしても影響力はこの「居館」の中だけであろう。冗談ではなくそうなのだ。
まず、この奥部屋のすぐ控えの間では島津方の奉公が控えている。無論監視役である。
そして、館の随所に配置された島津の兵 ―表向きは臣従の姿勢を見せている― は、我々惟政派の行動に目を光らせている。
極めつけは、館の周辺にて警戒する、100人程の島津家の部隊である。
表向きの理由は「惟村派残党」の「正統後継者暗殺」への警戒であるが、そんな事を信じる輩は居ない。

 言ってしまえば体の良い「監禁」なのである。
その事に惟政が気付いた時には…時すでに遅かった。

激怒し、各方面へのシンパに檄文(島津を討てと言った内容)を出した事もあった。
あるいは、室町方への島津への懲罰要請を出した事もあった。
かくなる上は、自分と館の手勢で蜂起しようと考えた事さえあった。

 しかし、その試みの悉くが失敗した。
まず書簡は殆どが届く前に没収されていた。届いたとしても南九州の覇者である島津に歯向かう者など無かっただろう。
室町方にしても、南朝の流れを汲む惟政になど付くはずがない。
蜂起は準備段階で断念した。不穏な空気を感じ取った島津側に警戒が強化されてしまったからだ。

 つまり自分は、ある程度の正統性を主張するためだけの駒に過ぎないのだ。
後継者対立の解消は長年の悲願ではあったが、こんな操り人形の状態も望んではいなかった。

 あんな甘言に乗らなければよかった。つまるところ武力介入の大義名分に使われただけだったのだ。
藁をもすがる気分の俺に話を持ちかけたのも、勢いのある「惟村派」が肥後に他勢力を介入させる訳が無いからだ。

 しかし、「奴」とは一度だけ顔を合わせたに過ぎないが、あれは…何かやる男だ。
もしかしたら、肥後だけじゃ済まないんじゃないのか?九州平定?

 いや、それだけではない。何かもっと大きな…

 

西暦1401年(応永8年) 6月 九州、薩摩国鹿児島 清水城

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参考資料薩摩国(Wikipediaより)

「探題平定軍だ」

 その言葉を聴いた時、島津久豊は耳を疑った。
何しろ、今しがた来た探題からの返答 ―肥後の現状への追認― を主君に報告した応答がその言葉だったのだ。
頭を下げながら、その言葉の意味を理解した。つまり、今すぐ筑前の探題を攻めよ、と。
…何を言っている?顔中から嫌な汗が吹き出した。
最近の兄上はどうされました…。喉まで来たその言葉を抑え込みながら、やっと口を開いた。

「畏れながら…追認が出た以上、領地の平定に尽力すべきかと…」

 もういいのではないですか?これ以上は地方領主の分を超えております。
近年の主君の豹変ぶりを間近で見ているからこそ、そんな軽々しい事は口にはできない。
ヘマをして首でも刎ねられようものなら目も当てられない。二年前のあの惨劇が昨日の事のようである。

「お前は今まで何をやってきた?」

 頭上から凍るような言葉が掛かった。頭が悲鳴が出そうなほど回転する。生死がかかっているとなれば尚更だ。
つまりこう言っているのだ。肥後は名目上阿蘇なのだし、反対派(惟村派)は城と共に皆殺しにしたのだから今更平定もないだろう。
だいいちそれを実行してきたのはお前ではないか。

「…しかし、"正統"後継者である惟政の、我が家への謀反の意思は未だ強く」

「くどいわ」

 心臓がひっくり返るようだった。これ以上の反駁は危険だ。
つまり、今の所の優先順位が外征の方が内政より高いということだ。そのような些事は捨て置け、何をおいても探題を攻略せよ、と。
何故にそれほどに急ぐのか。

「…兵の準備を致します」

「よい。下がれ」

 どういった心境の変化か二年前からこの国は大変革を迎えていた。
粛清、南方平定、新兵制。そして日向、肥後平定。間髪入れずの筑前・探題平定。
疑念は山ほどある。だがそれを顔に出す事などはしない。静かに退出した。

 ここにきての、室町方への反逆に等しい行為…明らかに元久様は指向されておられる。
前々から、薄々と気がついてはいたのだ。

 あのお方は…天下を獲るつもりだ。

 
 
序章 ある愛蘭人の手記次回 鋭意製作中
 
 
※九州の白地図につきましては テクノコ白地図イラスト様 より使わせていただきました。ありがとうございます。

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Last-modified: 2010-06-27 (日) 18:11:17 (3223d)