オスマン帝国でのファーストプレイをAARにして纏めたいと思います。

開始:1453年
選択国:オスマン帝国

現在は1514年まで進んでいるのでその間はゲームを終わらせた時に出てくる歴史書と記憶を参考に記述したいと思います。

なお妄想である程度補完しながら書いた方が面白いと思うのでその点御容赦ください。

三日月の旗の下に2
三日月の旗の下に3
1514年のオスマン帝国の領土

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メフメト二世の時代(1451年2月3日~1464年2月24日)

コンスタンチノープルを陥落させたメフメト1世陛下であったが、1451年にセルビア、ハンガリー、トランシルヴァニアと戦争に踏み切られた。
戦争は敵の巧妙な戦略により(私が下手なだけ)5年にわたったが、セルビアの併合、トランシルヴァニアからバナト地方を奪い取った。ハンガリーに対しては寛大な陛下は白紙和平に応じられた。

その後陛下は返す刀でアテネ・アルバニアに侵攻。両地方ともにオスマン帝国の版図となったのである。

メフメト1世陛下の晩年はハンガリーとの戦いに明け暮れることとなった。バラント地方で激しい戦いが何度も行われたが、我が軍が有利であった。しかしながら陛下は、戦陣にて病に倒れられて崩御された。

後代の人々は彼のことを栄光者と呼ぶ

摂政時代(1464年2月24日~1467年12月22日)

栄光者メフメト1世が崩御された後、後継者であるアーメド王子はまだ未成年であった。そこで臣下が陛下の成人まで会議で政治が執り行われることとなった。

長年の戦争に疲弊したハンガリーからの和平交渉を受け入れわが国はようやく平和を取り戻したのである。
(ちなみに摂政が国政を見ている間はこちらから戦争を仕掛けられません)

アーメド1世の時代(1467年12月22日~1475年5月3日)
成人されたアーメド1世陛下であったが、父陛下とは似ず国政を引き続き大臣に任せ自らは後宮で飲んで暮らす生活であったと言う。
8年間の平和な時代であり、新たな領土を含めて内政が整備されていき徐々に帝国は繁栄と向かう時代であった。斜陽の時代に生まれれば暗君として恨まれたアーメド1世陛下であったが、帝国は力をつけ次の時代へと向かうこととなった。

セリム1世の時代(1475年5月3日~1482年11月4日)

セリム一世に関して後代では屈辱の時代と言われる。彼はチャンダル候国に嫁いだメフメト1世の娘の子供であり帝君主であった。その結果オスマン帝国は一時的にチャンダル候国の従属化におかれることとなったのである(同君連合)。

しかしながら冷静に歴史を振り返ることが出来る学者の中では彼の業績に対する評価は高い。後のつながることとなるギリシア地方へのイスラムの布教活動が始まったのである。

戦争面においてもモレア地方、オルテリア地方、ワラキア地方に版図を広げることとなった。

マフムド1世の時代(1482年11月4日~1494年9月30日)

反チャンダル派の廷臣たちが次のスルタンに選んだのはメフメト1世の甥の息子に当たるマフマド1世陛下であった。反チャンダル派はその勢いをもってチャンダルに攻め込んだのである。

チャンダルと同盟を組んでいたクリミア候国との戦争となったが、トルコ軍の連戦連勝によりチャンダルよりシノペ地方を、クリミアよりトランシルヴァニア地方を奪い去った。

また長年従属国としていたカラマンを平和裏に併合することに成功する。この時代になって長年支配下においていたギリシア人も我が帝国の一員として自覚することになり地方官吏などに積極的に登用されることとなった。

後代では名君と謳われるのはチャンダルからの支配を断ち切ったことおよび復讐を果たしたことであろう。

この時代ハンガリーはポーランドによって外交的に併合されてしまう。これにより帝国西方はオーストリアおよびポーランドという強力な敵を迎えることとなった。

シャーハーンシャー1世の時代(1494年9月30日~1505年2月8日)

先代のスルタンは息子に対しイラン風の名前をお付けになった。シャーハンシャー 王の中の王という名前である。この命名にたいしトルコ族の廷臣は反対したが結局のところ認められることとなった。

彼の治世もチャンダルとの最終戦争で幕をあけた。チャンダルはついに滅亡。王は復讐のために捕らえられ目をくりぬかれて追放されたという。またチャンダルと同盟を組んでいたクリミアに対してもベッサラビア地方およびチェルソン地方を奪うことに成功した。

この時代にイタリアではカトリックの教えに疑問を抱いたイタリア人によりプロテスタントと呼ばれる宗派が生まれることとなった。教皇のお膝元であるローマでもプロテスタントに改宗するものが増えたのである。

アブドゥルハミド1世の時代【内政5外交7軍事7】(1505年2月8日~1533年3月16日)

彼の時代はギリシアへのイスラム布教が再開されたことで記憶される。ギリシアを中心に宣教師が派遣され徐々にイスラムの教えを信じるギリシア人が増えた。

1514年の帝国の宗教状態

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1516年10月に帝国は思いもかけず領土を広げることとなった。クリミアからザポロチア地方が反旗をひるがえし帝国の元に参集したのである

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ここでヨーロッパに目を向けてみる。帝国の周りにはポーランド・オーストリア・リトアニアが囲んでいる状態であった。この三カ国は同盟を長年結んでおり手出しできない状況である。

ドイツ方面ではフランスがその領土を拡大していた。現在の申請ローマ帝国皇帝はスウェーデン王。
しかし帝国内で群雄割拠していた諸侯も数が減り申請ローマ帝国も滅亡の時が近づきあったといえるであろう。

1521年戦いの太鼓が打ち鳴らされた。マムルークと雌雄を決する時が来たのである。スルタン自ら率いる3万の部隊は三方にわかれてマムルーク領になだれ込んだ。

序盤はオスマン軍有利に戦況が進んだが1523年にはマムルークが反撃を開始。何とかしのいだもののこれ以上の進撃は出来ずアダナ、ムスのトルコ民族が住む土地を割譲させて戦争は終わった。

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この大義なき戦争に民衆の不満は高まり当分は外征は出来ない状態となったのである。

1532年わが国は領土問題が原因でリトアニアに宣戦を布告した。リトアニアの同盟国ポーランドもこれに呼応して戦争状態となったのである。

スルタンアブドゥルハミド1世の命も尽きようとしていた。彼もまた名君メフメト1世のように戦陣で病死した。

三日月の旗の下に2


ご意見、ご感想がありましたらどうぞ

  • 一番乗りで威信+150ですぞ! -- 2007-01-24 (水) 11:18:27
  • 画像圧縮綺麗に出来ないかな。文字潰れて見られないのは惜しい -- 2007-01-24 (水) 21:11:32
  • EU3の君主って全部仮想なのか? -- 2007-01-24 (水) 22:42:41
  • どうでもいいけど、メフメト1世じゃなくて2世だよ -- 2007-01-30 (火) 20:48:01
  • 更新きぼんぬ・・・ -- 2007-02-02 (金) 19:40:46
  • あ。。eu3は日本でひとがやりますか!私はいかなる国家を感じて始まってすべてをアメリカを打ちなければなりません。マヤ,イジャ、アズアイケ3国の金山を植民します! -- さん 2008-07-23 (水) 22:38:43
  • 外人さんかな? 全体へのコメントは、左上の目次にある「連絡・コメント・雑談」でどうぞ。アメリカ金山確保はdefaultですね。 -- 2008-07-25 (金) 01:36:22
  • 申請ローマではなく神聖ローマ -- 2011-07-08 (金) 20:26:07
  • 続きが気になる。 -- 2017-05-31 (水) 16:59:21


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Last-modified: 2017-05-31 (水) 16:59:21 (560d)