九十年戦争(1429~1518)

厭戦感情と悪評

厭戦感情と悪評のシステムはかなり良くできたシステムだとおもう。
国の規模が大きくなり、周囲に敵がいない状態でも厭戦感情によって戦争が難しくなる。
悪評が高くなると周辺国はおろか、全く関係のない国とまで条約が結べなくなる。
ほかにも多くのペナルティがこれでもかとプレイヤーを縛り付けてくる。
そのくらいでないとプレイヤーのみならずAIも戦争を繰り返して信長の○望のごとく世界はすぐにカオスに陥ってしまう。

10年で6つのプロヴィンスを得たハンザは15年かけてその悪評を、厭戦感情と戦いながら下げていくことになった。

退屈王、退屈王、慎重王と三代にわたってシュタットハルターに称号をいただいたハンザは無為に時を過ごしてきたわけではなかった。
通商同盟の維持がハンザの課題であるはずとの判断から、悪評の増加で離脱していく小国や、自国内に交易中心地を建設して離脱していく領邦国家まで、金をつぎ込んでとどまらせたり同盟に引き戻したりと多忙であったのだ。しかし、金を使って通商同盟を維持することに疑問を感じた、時のシュタットハルター、ヘルベルト・アッカーマンはハンザの外交方針を大転換した。

九十年戦争序盤

「ケルン交易戦争(1429~31)」に端を発する一連のハンザとドイツ諸侯の戦いを総称して九十年戦争と呼ぶ。
ケルンの通商同盟離脱に対するヘルベルト・アッカーマンの返答は言葉でも文章でも金でもなく、剣と矢と馬によるケルン蹂躙であった。この戦争でハンザはケルンをハンザに加盟(属国)させることに成功した。トリアーをはじめ数カ国との友好関係を犠牲にしながらも通商同盟は拡大した。
同時期に「ブランデンブルク-ヘッセン戦争(1430~31)」にも介入し、ヴェストファーレンを同盟に加え(割譲)た。

九十年戦争の期間中、対ハンザだけでなく戦争で疲弊した国をそれまで中立であった国が襲ったり、昨日までの同盟国が戦争を始めるなど混乱を極めた。
しかし、ドイツ史において重要なのは、この戦争によって、それまで緩やかな都市同盟であったハンザの変質に敏感に反応した周辺諸侯が結託してハンザ領域へ攻め入ったために、ハンザが否応なくさらに強固な領邦国家へと変質したことであろう。

劇的な変化を迎えたのはブルクハルト・アッカーマン長期政権(1433~50)の時だった。
ブルクハルト・アッカーマンはアッカーマン家からの二人目のシュタットハルターだったが、ヘルベルトのときに政務担当補佐官だった彼は、兄ヘルベルトの緩い講和条約が次の戦争を生んでいくのを目の当たりにしていた。ブルクハルトは戦争を否定するわけではなかった。むしろ戦争自体には肯定的であったが、ハンザが目指すべきは外交的にもつれたら戦争をするような、場当たり的に繰り返すだけの戦争ではなく、固い結束をもつハンザの形成を目指した戦争であり、武力による商圏の維持及び拡大であると信じていた。

「チューリンゲン-アンハルト名誉戦争(1433~39)」は中部ドイツの最初の大きな戦いとなった戦争だった。そのさなかに前任者の戦死をうけて就任したブルクハルトは、神に愛されたその才能をいかんなく発揮した。戦争中彼の指導で1436年には「帝国統治院」への投票が行われ、もちろんハンザは否決したのだが、この法案は通過してしまった。1439年、都合437ダカットを使ってスウェーデンとの関係を修復。通商同盟、軍事同盟を結び、ハンザ側に引き込むことに成功した。ハンザの行った最後の金銭での外交とも言える同盟樹立によって、北の脅威はこれでひとまずなくなったと言えた。

北への対処を済ませた彼はドイツ中部の戦いに本腰をいれた。
周辺諸侯連合軍は、にわか仕立ての同盟軍であったため連携が乏しく、反ハンザ同盟は各個に撃破された。あるものは併合され、あるいは属国とされていった。
途中からハンザに宣戦したブランデンブルクは「リューネブルクの戦い」で早々に主力を撃破されて脱落。ボヘミアはポーランドに背後を襲われ痛み分けで和睦。
「アンハルトの戦い」でチューリンゲン軍を破ったブルクハルト・アッカーマンは勢いに乗ってチューリンゲン領全土の占領に成功した。
戦後彼の提示した各国との講和条件が今までのハンザとは違っていた。通商同盟への復帰はもちろんのこと、戦争中にチューリンゲンに併合されたアンハルトを含めた大規模な領土割譲が盛り込まれていたのだった。(ブランズウィック、チューリンゲン、フランケンの割譲。チューリンゲンはその直後にマイセンに攻撃されて滅亡)

「リューネブルク交易戦争(1440~41)」はリューネブルクが通商同盟を破棄、翌月同盟を破棄してきたことで始まった、中部ドイツで2度目の大規模な戦争だった。ハンザ軍の主力をヴェストファーレンからハノーバーへ移動し宣戦布告。ボヘミアがハンザとの軍事同盟を不履行。リューネブルクにはミュンスター、チュートン騎士団が参戦してきたが、リューネブルクをリューネブルク軍のハンブルク攻略よりも早く占領することに成功しリューネブルクと単独和平。同国を併合した。すかさずチュートン騎士団とは痛み分けとし、ミュンスターを討った。ミュンスターには通商条約を強制したうえでハンザの忠実な加盟国(属国)とした。

(ちなみに1442年にオーストリアのマリアテレジアが破門された。南ドイツがきな臭くなってきた。ってしかし、このマリアテレジアはあのマリアテレジアなのだろうか。)

九十年戦争中盤(1453~1507)

3つの戦争に勝利したハンザは19の州(プロヴィンス)をもつ北ドイツ最大の領邦国家となったが、中核州はわずかにリューベックとハンブルクの二つのみ。悪評は40を超えた。周辺諸国はハンザの急成長を快く思っていなかった。次々に懲罰を理由に宣戦布告、ハンザに攻め込んできた。さらに過剰拡大のペナルティを受け、諸外国からの干渉と内乱に対処せねばならなかった。
1458年にはローマ教皇から破門を言い渡され、ハンザは外交的に危機的状況に陥っていた。
しかし、ハンザはこの時期を乗り切ることに成功した。人的資源は底をついていたが、傭兵主体のハンザ軍は数の確保がある程度可能であったため、干渉軍に各個に対処し、領土の割譲で相手の人的資源を削り、属国化で同盟国を増やしていくことによって、次第に数的優位を確立していった。

1453年「ポメラニアーハンザ懲罰戦争」ポーランドから独立を果たしたポメラニアがボヘミアとともに宣戦。前ポメルンを割譲させ属国とした。
1457年「ブランデンブルク交易戦争」ルッピンを割譲させた。
1458年「オルデンブルク-ハンザ破門戦争」
1459年「スウェーデン-ハンザ破門戦争」
1460年「バイエルン-ハンザ破門戦争」ポツダムを割譲させた。
1462年「ボヘミア-ハンザ破門戦争」
1463年「第二次オルデンブルク-ハンザ破門戦争」
1471年「ヘッセン-ハンザ懲罰戦争」「ノルウェー-ハンザ懲罰戦争」
1472年「ブランデンブルク-ハンザ懲罰戦争」「オルデンブルク-ハンザ懲罰戦争」「リガ-ハンザ懲罰戦争」「モロッコ-ハンザ懲罰戦争」「第二次ボヘミア-ハンザ懲罰戦争」
1473年「シレジア-ハンザ懲罰戦争」
1474年「第二次ハンザ-ブランデンブルク交易戦争」ブランデンブルク征服。
1475年「第三次オルデンブルク-ハンザ破門戦争」オルデンブルク征服。
1477年「シレジア-ハンザ破門戦争」「ポーランド-ハンザ破門戦争」
1479年「フリースラント-ハンザ破門戦争」
1480年「リガ-ハンザ破門戦争」
1481年「オランダ-ハンザ破門戦争」
1482年「スウェーデン-ハンザ懲罰戦争」
1484年「フリースラント-ハンザ懲罰戦争」
1486年「第二次ヘッセン-ハンザ懲罰戦争」カッセルを割譲させた。
1488年「第二次フリースラント-ハンザ懲罰戦争」
1489年「第三次ヘッセン-ハンザ懲罰戦争」
1490年「第二次スウェーデン-ハンザ懲罰戦争」
1497年「第三次スウェーデン-ハンザ懲罰戦争」「オランダ-ハンザ懲罰戦争」「第二次リガ-ハンザ懲罰戦争」
1500年「第三次フリースラント-ハンザ懲罰戦争」
1501年「第四次ヘッセン-ハンザ懲罰戦争」
1502年「第二次シレジア-ハンザ懲罰戦争」
1503年「ポーランド-ハンザ懲罰戦争」「第二次ノルウェー-ハンザ懲罰戦争」
1507年「第二次シレジア-ハンザ懲罰戦争」

16世紀初頭の概況

15世紀の中部ヨーロッパは領域拡大を続ける通商同盟ハンザに対する危機感から、ハンザを攻撃し、ハンザを緩やかな同盟から強固な連邦国家へと変質させ、それを屈服させる戦争で荒れに荒れた。多くの国は国庫と人的資源を使い果たし戦争などする力も残っていないのだが、なぜか戦おうとする。人の性とはかくも戦いを欲するものなのか。その土地も人心も荒廃した神聖ローマ帝国に宗教改革ののろしが上がった。フリースラントの住民とヨハン・ヴィレム1世を虜にしたプロテスタントの教えは、時の皇帝であり信仰の守護者であるオーストリア大公フェルディナント1世ヴェンツェルンには気に入らなかったらしい。執拗に改宗を求め、ついにヨハン・ヴィレムは国教をカソリックに戻した。
しかし、プロテツタントリズムは帝国内で急速に広まりを見せており、皇帝対プロテスタントの対決は今後新しい流れを作りそうだ。

その皇帝のオーストリアはオスマンとの聖戦とイタリア征服に忙しい。
ブルゴーニュはアラゴンを人的同君連合を形成していたが、ここにきて王位を継承しフランスを包囲する形で成長していた。ポルトガルは跡形もなく消え、イベリアはカスティーリャがブルゴーニュと対決する形だ。イングランドはアイルランド全島の統一目前。東はというと、リガがリトアニアに取って代わっていた。リガの大成長によってロシアの平原の覇権はいまだ定まらない様子。中央アジアにはティムールがいまだ健在。ハンザ、リガ、オーストリア、ブルゴーニュが異常な成長を見せているのが目立っている。

九十年戦争終盤(1508~18)

宗教改革の嵐は欧州を吹き荒れている。
1508年ハンザにも宗教的内戦が発生。「異端を根絶やし」などという選択肢もあるが、自由の国ハンザでそんなことはしない。
各国手を焼いているようだが、ハンザはむしろ楽になった。宗教的混乱が続くのは確かに痛いのだが、そのかわり複数国から同時に攻め込まれることがここ数年ないのだ。周りから袋叩きにあうよりはよっぽどましであった。
コンラート・ローゼンバウムはハンザの同盟内での宗教的自由を保障したシュタットハルターだった。神聖ローマ帝国構成各国は、皇帝からカソリックへの改宗を強要されているようだが、ハンザには全く音沙汰なしだった。ローゼンバウムにはそれが逆に不安だった。

皇帝=オーストリア大公はイタリア征服にご執心で、すでに北イタリア諸都市はオーストリアの支配下にあり、今はナポリと戦っていた。しかし、国力の差は明らかであり、ナポリの敗北は必至であった。いずれ皇帝の矛先は北を向くであろう。

歴代のシュタットハルターは、戦火の中で徐々に商圏を拡大してきた。正式に同盟首都と定められたリューベックの交易額も、領邦国家が次々にハンザとの通商同盟を破棄する以前のレベルにまで回復していた。ローゼンバウムが始動した「第五次ヘッセン-ハンザ懲罰戦争」「第四次スウェーデン-ハンザ懲罰戦争」を含め、ここ数年の小規模な戦争のおかげで人的資源も回復しつつあった。
九十年戦争初期のハンザは主に傭兵で各国軍に対したが、領邦の広がりとともに常備軍を整備し、都市の名を冠した常備師団が2つ編成を完了しつつあった。
ハンザの常備師団は騎兵5個連隊、歩兵15個連隊、砲兵1個連隊。21000人の大型師団であった。
現在最初の常備師団「リューベック」がスウェーデンとの戦争を有利に進めていた。「ハッランドの戦い」で23000ものスウェーデン軍を撃破した「リューベック」師団は近くストックホルムを陥落させ、スウェーデンを通商同盟に復帰させる条約をさらに有利に締結できるようにするだろう。

1509年、恐れていたことが起きた。
イタリアを征服した皇帝が、懲罰を理由に宣戦布告してきたのだ。「リューベック師団」がスウェーデンに出払った隙の凶事であり、定数に足らない「ハンブルク師団」を補うために傭兵を限度いっぱい雇用するが、皇帝の軍隊は6日でフランケンを攻略し北上しつつあった。衛星国各国も急きょ領内で連隊を編成しつつあったが、とても間に合わない。各個撃破されていく。
皇帝の軍は30000人規模のものが3隊マイセン方面、ブラウンシュバイク方面、ミュンスター方面から北上してきた。傭兵の数がそろい次第反撃を加えたいところだが、数的には皇帝軍のひとつと同じ程度でしかない。スウェーデンから「リューベック」の帰還を急がせてはいるが、このままではその前に全土が占領されてしまいかねない。
「マインツの戦い」で大敗を喫したミュンスターのフェルディナンド1世がオーストリアに併合されることを同意、衛星国が失われていく。

海軍を総動員して世界最高の司令官と名高いディーデリック・ハインリッヒとリューベック師団を輸送。アルトマルクで皇帝軍を迎え撃つ。これで敗れたらおしまいである。

1512年11月に戦われた「アルトマルクの戦い」は歴史家によって15世紀初頭における最大規模の戦いと呼ばれている。皇帝の軍隊がアルトマルクに進軍中であるとの情報を得たディーデリック・ハインリッヒは騎兵10000を先に送りこみ地の利をハンザ軍にもたらし、逐次歩兵、砲兵を追加した。兵力の逐次投入は兵法の忌むべきところだが、今回はこれが功を奏した。皇帝の軍隊は各地を休みなく転戦し、戦いを前に合流を果たしていたものの、五月雨式にアルトマルクに到着したからだ。
11月半ばに両軍合わせて10万を超す兵力(ハンザ同盟軍58331人と皇帝軍48874人)のぶつかり合いの決着はついた。地形効果と指揮官の能力のおかげであろうか、ハンザ同盟軍は皇帝軍を撃退したのだ。
好機であった。軍の一部を被占領地の解放に回し、騎兵と歩兵による追撃を行った。
アンハルト、ライプチヒと追撃を重ねついに皇帝の軍隊は消滅した。

決戦に勝利したとの報告を受けたローゼンバウムは狂喜していた。しかしそれは長くは続かなかった。
先の「アルトマルクの戦い」と同規模の兵力がイタリアから北上しつつあり、現在マントヴァまで来ているというのだった。

1513年3月、「アルトマルクの戦い」の大勝利によって和平のきっかけを得たハンザは皇帝と休戦条約を締結した。国庫を空にするほどの賠償金とマイセンの割譲。それはハンザにとって初めてのプロヴィンス失陥であった。

九十年戦争の終わり

九十年戦争がいつ終ったのかは、歴史家の解釈は様々だが、最大規模の戦争であった「オーストリア-ハンザ懲罰戦争」終結時か、懲罰戦争のなくなった1518年の「第六次ヘッセン-ハンザ懲罰戦争」後というのが主流を占めているようだ。

「オーストリア-ハンザ懲罰戦争」後、ハンザは軍拡の道を突き進む。外的圧力は国家の結束力と武力を大きくするのは古今東西同じである。
1517年の第五次スウェーデン-ハンザ懲罰戦争のころにはハンザ陸軍は63000を定数とし、21000の師団(リューベック、ハンブルク、ブレーメン)を3つ常備するようになっていた。これは帝国内第2位の軍事力であり、皇帝の軍隊以外には、ブルゴーニュ、フランス、カスティーリャが同程度の軍備を所持するだけであり、トリアー、ミュンスター、ヴュルツブルク、ケルン、クレーフェ、ブレーメン、ポメラニアといったハンザ衛星国の軍を合わせるなら、帝国内の敵対諸侯が各個に戦っては勝てる相手ではなくなっていた。

そしてハンザはさらなる変貌を遂げようとしていた。

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16世紀初頭のハンザ

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Last-modified: 2010-05-15 (土) 16:37:39 (3266d)