同盟と帝国

「強力な中央集権機構が存在しないにもかかわらず、ドイツは繁栄を謳歌しています。それを支えているのは、北部ドイツの数百の都市によって構成されるハンザ同盟です。今、国内では学問が発展し、陸上貿易や海上貿易も盛んになっています。こうしたことがドイツを一層発展させ、豊かな工業国家への転換を後押ししているのです。」

ドイツ連邦の成立(1526年)

九十年戦争の間にハンザは領邦国家へと変質していた。ハンザの組織は中央集権化、ハンザ会議の権限は大幅に強化され、傭兵中心だった軍備は常備軍に改められた。1509年のオーストリアとの戦争で九十年戦争中唯一の敗戦を経験し、神聖ローマ皇帝の軍隊の破壊力を思い知らされたハンザは、さらなる変貌の時を迎えようとしていた。

1526年のハンザ会議において、シュッタットハルターのバルナバス・ゲヴァート・フォン・ハプスブルクは、対オーストリアのみならず、周辺列国の脅威に対するためのハンザのさらなる強化を訴えた。ハンザ同盟の関係強化はすなわち連邦制への移行であった。ハンザ加盟国は整理統合された「州」として管理され、連邦政府の指導のもと単一の国家として機能する。
メクレンブルク、ブランデンブルク、アルトマルク、リューネブルク、ブランズウィック、アンハルト、ドレスデン、ライプツィヒ、チューリンゲン、フランケンの各有力国代表の賛同を得て、「ドイツ連邦共和国」の成立を宣言した。
何やら21世紀でも通用しそうな国名であるが、それはおいても、本家のオーストリアでハプスブルグ家がヴェッテイン家に大公位を奪われているのに、初代連邦首相ともいうべき建国時のシュタットハルターがハプスブルグ家の者なのが皮肉であった。
見慣れた白と赤の紋章から黄色地に鷲の紋章に替わった。ドイツを成立させても神聖ローマ帝国構成国のままである。以後それ以前と区別するため、当国をドイツハンザと呼称する。

ドイツハンザは「加盟国(領有プロヴィンス)」「準加盟国(属国)」「通商同盟国」で構成されるものとし、ドイツハンザ領域の維持拡大のために国軍たるハンザ連邦軍の武力を行使することが決議された。

連邦の拡大

ドイツの成立によって、ハンザはドイツ文化圏内の中核プロヴィンスを得た。つまり、周辺諸国のほとんどに対して大義名分を有したことになる。
武力行使は、早速行われた。
1532年、度々同盟破棄宣戦を繰り返してきたヘッセンを武力で連邦に加盟(併合)させた。
1535年、オーストリアによってハンザより離脱させられたマイセンが独立。再加盟(再征服・併合)を求めて武力を行使。マイセンの再加盟に成功。

宗教的な混乱を獲得してから10年が経過した1537年、ドイツハンザ連邦は国教をプロテスタントに変更した。1537年ドイツハンザ連邦議会において、国内の混乱収拾のための会議がおこなわれた。連邦内の各州はカソリック5、改革派6、プロテスタント17の州が信奉しており、自由を標榜するドイツハンザとしては宗教的な弾圧を加えるのは政道から外れることになるが、各地で蜂起するキリスト教原理主義者のテロルによる混乱収拾のために連邦としては信奉州の多いプロテスタントを国教とすることに決し、宗教的なテロル撲滅を決議した。

1546年ハノーバーに連邦建国の記念碑が建設された。

1550年頃土地の囲い込み運動が促進された。マインツ、ブランズウィックに兵器工場が建設され、ドイツハンザの工業化が始まった。
1557年に宗教的な争いは終息を迎えた。混乱が収まると次は、経済圏の拡大を求める声があがった。
(神の思し召し「特権の拡大」目前の布地には、ドイツの封印が誇らしげについている。明日には商人たちがこの一級の交易品を持って旅立つことになっている。やがて彼らは金や銀を持ちかえり、国庫を潤してくれるだろう。)
しかし、商圏拡大は現状かなり厳しい。海外植民地を持たないドイツハンザは周辺諸国にそれを求めるよりないからだ。
外交的に全く可能性が無いのであれば戦争しかない。

1558年ミュンスターが同盟を拒否。属国関係を解消し戦争となった。アルザスとカスティーリャがミュンスター側について参戦してきたが、カスティーリャは遠く、ミュンスターとアルザスではドイツハンザの敵ではなかった。ミュンスターはヘルダーラントを独立させオスナブリュックの連邦加盟(割譲)を認め、アルザスとヘルダーラントは通商同盟に加盟した。

1562年にマウリッツ歩兵を採用し、連邦軍歩兵の火力化に成功した。
1563年にハンブルクの宗教がギリシャ正教になった。大主教、狼狽。私も笑った。
1570年に通貨改革を実行。
1574年スティリアの提案した「ラント平和令」が通過。 
1579年司法制度法可決。
1580年スティリアの提案した「帝位世襲制」を否決。

「第二次ボヘミア再征服戦争」(1582~83)

スデーティ、エルツ、オーバーラウジッツ、ニーダーラウジッツの領土問題が両国にはあった。かの地域のドイツ人保護を掲げて1577年に一度ドイツはボヘミアに攻め込んだのだが、手痛い反撃を食らい国境へと戻った。ボヘミアの動員力は侮れなかった。
1582年オスマンの北上が再開され、ボヘミアは軍をバルカン半島へ移した。この時とばかりボヘミア領内へ80000のドイツ兵がなだれ込んだ。戦いは半年で終わった。
いや終わらさねばオスマンと和睦したボヘミア全軍がこちらへ向かってきたなら、前回と同じことになりかねなかったからだ。それに、ボヘミアをあまり弱らせてしまっては、オーストリアとオスマンに食い殺されかねず、それは連邦にとってより大きな敵を作ることに他ならないからだ。

16世紀の終わりまでに、スモーランド、オスナブリュック、オーバーラウジッツ、バンベルク、シュヴァーベン、コンスタンツ、ヴュルテンブルク、アンスバッハ、マインツ、ヴュルツブルク、ミュンスター、スデーティ、ニーダーラウジッツ、エルツを連邦に加盟(併合)した。

周辺に複数の交易中心地が存在する以上、商圏の拡大=領土の拡大であった。
北中部ドイツを連邦に編入したドイツハンザには次なる課題が待っていた。

大ドイツ主義

16世紀の終わりごろ、北ドイツのドイツハンザでは民族国家建国に向けて議論が交わされていた。現状を南限としてオーストリアとの対決を避け、バルト海沿岸の交易圏を広げるべきだといういわゆる「小ドイツ主義」を主張する一派と、エルザス、チロル、ウィーンの交易中心地を併呑し、オーストリア領及びスティリア領内のドイツ文化圏を取り込んだ「大ドイツ主義」を主張する一派で議論が交わされた。

「小ドイツ主義」を選択した場合、オーストリアとの友好関係を構築しつつスウェーデン、ボヘミア、リガといった北方東方の大国と争うことになる。そのためにはモスクワ大公国と結び、遠交近攻策という形にあるのであろうが、むしろリガ、ボヘミアをバッファーゾーンにして、モスクワの脅威を直接受けるのを避けたい。
その場合は西か南かということになる。
西にはブルゴーニュ、フランスといった大国が待ち構えている。ブルゴーニュには少数民族として抑圧された同胞の解放という大義名分がある(再征服の大義名分)のでいずれは戦わねばならない。
ドイツ民族統一国家を目指すのであれば、当然ブルゴーニュ、オーストリア、スティリアと戦わねばならない。

結果、ボヘミアからドイツ人居留地域を奪ったときから、ボヘミアに対する大義名分を失っており、むしろボヘミアと結び西と南に対するべきだという意見の声が大きくなった。
北のスウェーデンに対しても友好的な関係を築くべきであるが、海軍力のバランスが崩れない限りは、スウェーデンにエーレスンドを渡ることはできない。

商圏の拡大が戦争をもってしか行えない昨今、「大ドイツ主義」をとって、大義名分のある戦争をするほうが連邦が拡大するうえでは容易に思う議員が次第に増え、ドイツハンザ連邦は南に進むことになった。
ボヘミアとの友好関係を構築しながら、南西ドイツの小国を併呑し、ついにオーストリアとの間に何者も存在しなくなったのが1599年のことであった。

ドイツ-オーストリア戦争(1600~01)

16世紀の終わりごろからドイツハンザに民族主義が生まれた。ドイツ語を話す文化圏のほぼ半分を連邦に組み込んだドイツハンザは、流行りの民族主義に乗っかって南下を決意した。

相手はオーストリアである。
オーストリアは神聖ローマ帝国皇帝でありドイツ文化圏の南半分を支配する欧州きっての陸軍を擁する強国。その両国は間にある小邦を巡り、銀河○雄伝説さながら、同盟と帝国が対峙する状況にあり、いつ果てるとも知れぬ小競り合いの中にあった。

しかし時は来た。1600年9月3日、オーストリアがオスマンとの戦争に戦力の大半を差し向けたとき、連邦軍は国境に集結した14万8千の軍を南下させた。

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オーストリア領へ侵攻するドイツハンザ軍

大半がオスマンとの戦いに行っているとはいえ、オーストリアの守備軍は4万を数えた。しかし戦力を集中させ、主力を追いながらも、半数の6万を3隊に分け、オーストリア国内を次々に攻略していったため、1601年7月14日にはオーストリア軍をほぼ壊滅させ、戦線はロンバルディアまで押していた。マムルーク朝がオーストリアと和睦したとはいえ、半数をこちらで失ったオーストリア軍がオスマンに大敗してもらっては困る。中核プロヴィンスであるニ―ダーバイエルン、ミュンヘン、チロル、ザルツブルク、オーバープファルツ、オストマルク、リンツ、ベルン、シュヴィーツを割譲させることで和睦することにした。
(最初はドキドキだったけど、始めてみたら結構楽に勝てた。)
軍を返して背後を狙ってきたスウェーデンと戦わねばならない。

スウェーデンはドイツハンザ主力が北へ向かうと一戦だけして痛み分けを申し入れてきた。

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17世紀初頭のハンザ

スティリア皇帝家

ところでスティリアはいつ建国されたのだろう。こちらのログには記録が無いので、プロヴィンスの歴史を見てみた。建国は1510年ころのようだ。主要プロヴィンスは、アクイレイア、オーストリア、ボヘミアによって繰り返し征服されていたようなので、この3カ国のうちどれかが敗れた際に建国されたものであろうが、それが皇帝にまでなるとは。
さて、ここで興味深い問題がある。
神聖ローマ帝国は先の帝位世襲制可決によって、スティリア王家が帝位を世襲することとなったのだが、構成国によってスティリアが滅ぼされた場合、帝位はどうなるのだろう。

答えは歴史の先にある。
第二次ブライスガウ再征服戦争(1603~01)から始まった一連の皇帝位はどうなるのか問題の解をさらなる戦争に求めることとした。

「第二次スイス再征服戦争」(1603~01)はスイス(とはいってもブライスガウ)に引導を渡すべく行われた。スティリアは皇帝の義務を果たそうと介入してきた。スイスは2カ月持たずに滅亡。もう何度となく行ったスティリア占領をくりかえした。今回は悪評覚悟で皇帝から、フリウリを奪った

クレーフェ、ケルンとカソリック系の準加盟国(属国)が相次いで同盟を破棄したため討伐をしてきた連邦だったが、プファルツは同じようにはいかなかった。連邦の西部国境に残る最後の非加盟国プファルツはブルゴーニュと同盟関係にあったため、オーストリアを攻めたときと同じ戦力をブルゴーニュとの国境に集めた。「プファルツ再征服戦争」(1614~16)はブルゴーニュとの初対戦となったが、ブルゴーニュはこのときカスティーリャと交戦中であったため、大きな戦いは起こらなかった。

オーストリア崩壊

トリアー征服戦争は大戦争になった。ブルゴーニュとオーストリアが(ついでにスティリアが)参戦したため、戦場はフランス東部からイタリア、バルカン半島にまで及んだ。
オーストリアはドイツ南部からイタリア半島のほぼ全域とバルカン半島小アジアに及ぶ地域を領する、神聖ローマ帝国などよりよっぽどローマ帝国っぽい大帝国である。
また、ブルゴーニュはフランスのほぼ7割を手中に納め、アラゴンを吸収してイベリア半島の東半分を領する、これまた大帝国である。
トリアーは開戦後まもなく屈服し連邦に編入(併合)されたが、ブルゴーニュ、オーストリアが数で押してくる。
ドイツ西部国境では兵力では互角だったが、ドイツハンザが優勢だった。開戦直前に北欧式編成(グスタフ式歩兵)を取り入れ火力で打ち負かしていた。
最初から数の少ないオーストリア戦線では国境突破を許しチロルからアンスバッハまでの領域を占領されてしまった。フリウリの駐屯軍2万がバルカン半島へと進んだが抵抗を受けない。さてはとバルカン半島南部を偵察すると、シリアまで国境を後退させていたオスマンがマルマラ海を渡りギリシアへ侵攻している。現状苦しい状況だが、これは好機である。ブルゴーニュとはロートリンゲン割譲で手を打ち(中核プロヴィンスを得ている)、全軍をオーストリアへ向けた。
オーストリアはすでに人的資源が枯渇していた。ドイツ領内で攻囲していた部隊を壊滅させると、もはやドイツハンザ軍を阻むものはいなかった。すべてのプロヴィンスを占領するのにさして時間は必要としなかった。
1630年1月、世界世論の批判は覚悟の上でウィーン、トレヴィザーノ、トレント、ブレシア、ロンバルディア、パルマを割譲させた。これでオーストリアはイタリア、バルカンの両半島に国土は分裂した。心置きなく皇帝を滅ぼすことができるだろう。
オーストリアとブルゴーニュには通商同盟も受け入れさせたので、ハンザは西ヨーロッパのほぼ全域とバルカン半島を通商同盟とすることに成功した。もっともすぐに破棄されるのだろうけども。

スティリア皇帝家の最期(ちゃんとパッチあててもらわないと。)

オーストリアが敗れ、皇帝の領土は丸裸となった。あとはどう料理するかではなく、いつ食べるかである。休戦協定が明けるのを待っていたら、あろうことか、皇帝はカスティーリャの属領になっていた。神聖ローマ帝国はカスティーリャ王国の一公爵を皇帝に頂いているのか。再征服を名目に宣戦しても講和は上位国と結ぶため、悪評を被ることは否めない。それより、天下のカスティーリャ様に勝てるのだろうか??戦力を比較してみると陸軍は互角、海軍は劣勢。しかし植民地帝国カスティーリャは海外に兵力のほとんどを割いているはず。

これならやれる。とばかり、宣戦布告。するとボヘミアまでもが参戦してきた。ボヘミアはカソリックの守護者だったのだ。
「第一次ケルンテン再征服戦争」はオーストリア戦に続いての3正面作戦となった。しかし、ブルゴーニュ、オーストリアに比べればちっとも痛くない。しかもカスティーリャは1個連隊での上陸作戦しかしてこなかった。それもドイツハンザの連邦海軍によって来るたびに壊滅させられていった。しかしこちらも上陸作戦をするしかないのか。戦いの転機はブルゴーニュが軍の通行許可を受諾したことだった。ドイツハンザ軍はイベリアへと続くレッドカーペットを西へ進んだ。本土に乗り込まれたカスティーリャは意外なほどもろく、またたく間に制圧されてしまった。この時の講和条件は、スティリアの属国からの解放。悪評を嫌っての処置だったのだが、これが失敗だった。休戦明けに宣戦しよとしたところ、再び属国になっていたのだ。
「第二次ケルンテン再征服戦争」は2度目ということもあって1年かからなかった。今回は開戦後すぐに「ブルゴーニュの赤いじゅうたん」を使って4万2千をイベリアへ向かわせた。
後の憂いを残さぬためにボヘミアは完全占領。改宗させて参戦してこないようにし、念のためハンガリーを建国して弱らせておいた。カスティーリャとの講和条件はケルンテン、リエンツの割譲と属国からの解放、そしてカスティーリャをプロテスタントに改宗させ・・・られればベストだったのだが、全部は無理だった。ここでまたしくじったのは、属国関係を解消させなかったことだ。捨てるべきものを誤った。ついさっきまで何に苦労していた?!
「シュタイアーマルク再征服戦争」には思惑通りボヘミアは参加しなかった。しようにもカソリックの守護者ではないのだ。かわりにアイルランドがカソリックの守護者として参戦。1個師団を上陸させて沈黙させた。今回もう一つ違ったことがある。それは、カスティーリャも「ブルゴーニュの赤いじゅうたん」を使ったことである。この回廊と呼ぶべき狭い一本道を両側から進めばはち合わせるというもの。編成したそばから五月雨式に東へ向かったカスティーリャ軍はドイツハンザ軍と鉢合わせたそばから消滅させられてしまった。(しかし、もうすっかり手なれた感がある。)
カスティーリャからはシュタイアーマルクの割譲と賠償金。カソリックの守護者アイルランドにはプロテスタントになっていただいた。

こうしてスティリア公爵家は滅亡したわけだが、結果として、
①帝国構成員に征服されても帝位の移譲とかはない。帝国が消滅しただけである。
②帝国は滅亡しても帝国統治院と帝位世襲制の外交官-1.0のペナルティは残ってしまう。
パッチあたるまでは、皇帝を滅ぼす前に神聖ローマ帝国から脱退するのをお勧めする。その後ものすごい苦労しました。
③元構成国に宣戦布告するときに、『△×は帝国の一部です。△×は「反乱軍マーク」によって守られています。』とでます。

これならカスティーリャに併合されようがなんだろうが同じであった。ただ15年無駄にした気がするが、結果が得られたのだからよしとする。

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18世紀初頭のハンザ

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Last-modified: 2010-05-15 (土) 16:33:31 (3267d)