属州がいっぱい01 第一章 シャルル・ド・リベルタ

まずは反省と・・・

開始時のセーブデータをロードして、プロヴァンスを選択して、宮廷顧問を雇用し、スライダーの調整をしてから、周辺を確認。その後食事をしつつプロヴァンスについて調べたり、他の方のAARを読んだりしていた。今日はまだ1日もゲーム内の時間が進んでいない。
だが、ここでしっかり国の大戦略を立てておかないと(たてていてもまたさくっと消えるかもですが)小国の命運はカンタンに尽きてしまう。

どうして滅んだのか

  • 人的同君連合の解体のシステムを理解していなかった。つまり、どうやったら自主的に独立できるのか知らなかったために、最後までナポリの御屋形様についていくことになってしまった。なんといっても理由はこれに尽きる。要するに勉強不足であった。
「同盟破棄」------>「宣戦布告」
たったこれだけの事だったとは・・・
  • もうひとつの理由はもっと簡単である。プロヴァンス攻略の大義名分をフランスが有していることである。こちらはどうしたものだろうか。

とりあえずどうしましょうか

  • 目標は1482年を迎えること。1482年は史実のプロヴァンスが滅亡した年だ。そのために全力を尽くす。というと何も考えなくても同じなのでもう少し考えてみよう。
  • アンジュー、メーヌはあきらめ、南仏を中心に生き残ることとする。維持などできようはずもないし、この二つのプロヴィンスを持っているからこそ、フランスはプロヴァンスに対して「再征服」を掲げて宣戦できるのだ。早い段階でいっそ無償で譲渡してしまおうか。
  • できるだけ早い段階でのナポリのクビキから脱出を図る。御屋形様は他所にいてはだめ。今回はゲーム開始直後を狙ってみる。
  • 国策「大陸軍」「国民皆兵制」「合理的商慣行」等を小国の利点である安定度の回復の早さを活かして柔軟に使いこなす。
  • それでも南仏中心では神聖ローマ皇帝にでもならない限り、欧州列強の陸軍に太刀打ちできなそうであるから、ポルトガルやカスティーリャ、イングランドに先駆けて新大陸に植民地を建設し、大戦力を維持できるように戦力扶養限界と人的資源を確保する。新大陸植民地があれば、最悪全てを捨てて新世界にお引越し(夜逃げ)できるんじゃ。(笑)
  • ということなら、国策「新世界探索」を早急に取得し新大陸にいち早く植民する。

・・・いかん、新大陸のことは当分先の話だ。まずは独立のことについて図らねばならない。そしていかにして新大陸進出まで生き延びるかだ。
それに、このままではまるっきりゲームが動かない。
というわけで、ではないですが、物語風AARチャレンジ開始です。

シャルル・ド・リベルタ/Charles de Libertad(知謀家、☆☆☆統治技術投資+9.00)

シャルル・ド・リベルタはプロヴァンス独自に政策を決定すべきだと決意した。今朝の夢はおそらくは、ナポリとの関係を断てという神の思し召しなのだろう。
プロヴァンスの人々からすれば、もともとナポリとは「文化的な違い」があり、かの国の領主がヴァロワ家のものであろうがなかろうが、彼らの振る舞いは我々オックの民よりもはるかに野蛮だ。ナポリだシチリアだというが、あの地に住むのはサラセン人ではないか!と。
ナポリ王プロヴァンス伯ルイ2世は私のとった政策に気分を害するだろうが、東は東、西は西だ。いずれこの時が来るはずだったのだ。

話を進める前に、プロヴァンスの行方を左右する彼についてもう少し知らねばなるまい。

現代のパレルモにリベルタ通りというのがある。彼の名はその出身地にちなんだものだとも、彼の名にちなんでその通りの名が決められたのだとも、もともと「自由通り」というだけだともいう。
イタリア語でリベルタ/libertaは自由を意味する。フランス語で自由はリベルタという発音でもないしつづりも違うのだが、ナポリからの独立を図る男の名が奇しくもリベルタであるというのも何かの因果であろう。

シャルル・ド・リベルタの一族はプロヴァンス伯領の縁者を頼って、13世紀の末にシチリアから移住してきた下級貴族であった。リベルタ/Libertadの姓はプロヴァンスに帰化したときにつけたものだと言われる。
シャルルの一族の出身地シチリアは中世初頭の大国であった。ノルマン人傭兵隊長によって建国されたシチリアは、ムスリムやギリシア系の住民に対して寛容であったころに、当時の西欧よりも進んだ統治制度や学問をとりいれて、ジェノヴァ、ヴェネチアなど北イタリア諸都市の勃興までは地中海の中継貿易で栄えた。ヨーロッパの諸王侯が王宮の維持費も出ずに領内を渡り鳥(イナゴか?)のようにして暮らしていたころに、立派な王宮をもち、官僚制度を整備していた。

シチリアの進んだ統治制度をや数学を学んだシャルルの曽祖父は縁者の紹介でエクサンプロヴァンスの役人となり、シャルルの父の代に当時家督争いの際に現地の役人として抜擢された。シャルルはプロヴァンス伯アンジュー=ヴァロワ家のプロヴァンス領内の裁量を任された父の後を継いで家宰となったが、一族がこの地へ渡る羽目になった「シチリアの晩祷(1282)」とその後のアンジュー=ヴァロワ家とアラゴン家によって分断された父祖の地のことをどう思っていたのか。
プロヴァンスの物語は、これからしばらく彼を中心に進んでいくこととなる。

1399年10月、ルイ2世がナポリからプロヴァンスを支配するようになると、シャルル・ド・リベルタは秘かに計画を実行させた。クーデターであった。
地元から登用された役人、下級貴族を掌握していた彼は、エクサンプロヴァンスとマルセイユの要地を短時日で制圧、シャンパーニュ伯の係累をブロワ家から迎える手はずを整え、ナポリとの同盟を破棄。(ナポリが宣戦布告する前に人的同君連合を脱するために)ナポリからは同盟関係を回復するよう求める使者がやって来たが、全て黙殺した。既に彼は独立戦争開始のタイミングをうかがっていたのだった。

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初っ端からの独立は果たして可能なのだろうか

シャルル3世 ド・ブロワ/Charles III de Blois(行政:8/軍事:3/外交:3)在位1399.11.17~

ナポリへの宣戦布告と同時にかねてから準備していたプロヴァンス伯として新たにシャルル3世をブロワ家から迎える計画を実行にうつした。ブロワ伯の家系はシャンパーニュ伯などを兼ね、イングランド王、ナバラ王、エルサレム王を輩出。ヴァロワ=アンジュー家と比べるとやや見劣りするが、名門貴族である。
フランス王の手前、伯と名乗らせたが、実質的にクーデターであり11世紀以来のプロヴァンス独自の王朝(?)である。

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ブロワ朝プロヴァンス成立の瞬間である
ルイ2世は死んでないんだけどね

ナポリ王ルイ2世とはもはや話し合う余地はない。戦って敗れれば今回蜂起した者全てにとって破滅である。シャルル・ド・リベルタに掛る重圧はいかほどのものであっただろうか。


独立戦争は大義名分にならず、-2された安定度も痛いが、何をおいても真っ先に行わなくてはならない外交案件があった。サボイへの通行許可の要請である。これは、全土を占領されても軍だけは逃げて、休戦協定には一切応じない「プロヴァンス戦術」を行ためにほかならない。

血縁外交はなにもせずとも次々に申し込まれた。フランスとアラゴンからの姻戚関係受諾。負けじとブルゴーニュも申し込んできたので、応諾。
友好度をあげて周辺の大国の宣戦布告の理由を少しづつ減らしていければと思っての処置だったのだが、新たな人的同君連合の種をまいただけのようにも思える・・・


国王というよりは、能吏といった印象のシャルル3世は見たままの能力の持ち主だった。自ら陣頭に立って軍を指揮するでも、社交的な華やかさや弁舌もなさそうだった。ただ、独創性はないが、シャルル・ド・リベルタが1を言えば8か9くらいは理解してしまう明晰さをもっていた。完全に御神輿のつもりで担ぎ出した君主の明晰さはシャルル・ド・リベルタにとって嬉しい誤算であった。

ナポリ王ルイ2世が自ら5000の兵を率いてコートダジュール沖に向かっているという報がエクサンプロヴァンスに届いたのは11月も末の頃だった。シャルル・ド・リベルタは急ぎ借入を命じて傭兵を雇用させた。傭兵連隊の編成がすべて終わったわけではないが、ナポリ王の軍がプロヴァンスに上陸したころには彼我の戦力比はこちらが有利になっていた。実際戦闘中にも傭兵は集められていたのだった。
マルセイユ南東のカシという村に上陸したナポリ王の軍勢を、プロヴァンス自警軍がマルセイユとの間にある丘陵地帯で迎撃した戦いはプロヴァンスの辛勝であった。決定的な勝利を得られぬまま洋上の艦隊へと撤収していく。
シャルル・ド・リベルタはマルティ・ド・バルシリ准将にプロヴァンス海軍をコート・ダ・ジュール沖へ出撃させるよう要請した。命令でなく要請なのは、准将はプロヴァンス伯に忠誠を誓う軍人であり、シャルル・ド・リベルタは宰相ではあったが、この時点ではまだ軍に対する法的な指揮権は有さなかったからだ。
マルティ・ド・バルシリ准将は有能な海軍軍人ではあったが、彼我の戦力差において到底勝ち目が無いことを説いた。実際ガレー3隻コグ2隻での奇襲なぞ地中海有数のナポリ海軍にいかほどのダメージを与えられるものでもなかった。しかし、「勝てぬまでもナポリ王を沖合の艦隊へ撤収させなければ、士気の崩壊したナポリ王の軍勢の退路を断ち一兵残らずカシで討ち取ることが可能でしょう。コートダジュール沖に遊弋するナポリ艦隊は強力だが、ようは、海岸からボートで沖合のコグ船に撤収できないように混乱させられればいいのです。」

プロヴァンス海軍は5日間だけナポリ海軍に混乱状態を作ってくれればいい。
ナポリ王の軍勢が海上に撤収するタイミングを見計らって出撃した。艦隊が最低限戦えば良いタイミングを見計らって出撃。都合5日間プロヴァンス海軍は任務をよく果たし、ガレーを2隻失ったが、ナポリ王が海に逃げることを阻止した。浜辺で追い詰められたナポリ軍はプロヴァンス傭兵によって切り刻まれた。残念ながらナポリ王ルイ2世は洋上へ逃れたが、プロヴァンスは最初の危機を乗り切ることができた。


元首を将軍に転身させてはいたのだが、ここでもしものことがあっては国が失われてしまう。プロヴァンス軍は司令官なしでよくやった。
しかし、サボイへいつでも逃げられるプロヴァンス軍の逃げ腰防衛戦から全く音沙汰が無いままナポリとの戦いは1年を迎えようとしている。傭兵の維持費で借入を繰り返している。残ったわずかばかりの金でイル・ド・フランスとリグーリアへ商人を派遣。市民の要求する「ノブゴロドへの参入」はこの二つが安定してからだ。


1400年も終わろうと言う頃、プロヴァンスにとって吉事が二つあった。
ひとつは太子シャルルの誕生である。これによって周辺諸国の王位継承権は消滅し、上がった友好度だけが残った(のかな?)。シャルル3世の喜びようは言うまでもないが、シャルル・ド・リベルタにとっても男児誕生の報に接した時に思わず破顔し飛び上るほど嬉しい出来事だった。
子のないシャルル・ド・リベルタにとっては誕生まもないプロヴァンスが自分の作品であり、これから育てていかねばならぬ我が子であった。シャルル3世の世子誕生は自分の作品とこの国の将来にとって良いことであることは動かしようのないことであった。

良いときには良いことが続くようで、スイスから同盟の提案があった。シャルル・ド・リベルタはもちろん快諾するようにシャルル3世に進言した。子供には良い友達が必要である。

しかし、数週間後に突如フランスが宣戦。エクサンプロヴァンスの廷臣はハチの巣をつついたような在り様となった。もう駄目だと国外へ脱出を図ろうとする者、フランス王に和を乞うために皆で金を出し合おうと説いてまわる者、果てにはナポリ王に仲介してもらってはどうかと言いだす者まで出る始末だった。
シャルル・ド・リベルタは動じていなかった。全くということはないのだが、たとえフランス王に敗れたところで、ナポリ王にさえ負けなければプロヴァンスが滅ぶことはない。醜態をさらすよりは、事態に対する策を講ずるべきであることは明白であった。
プロヴァンスは神聖ローマ帝国の一部である。皇帝は帝国構成国の保護の義務を負うている。シャルル・ド・リベルタはボヘミアへ早馬を出し、皇帝の助力を乞うた。
神聖ローマ皇帝にしてボヘミア王であるヴァーツラフ4世は援軍を約束してくれたが、アンジューとメーヌは救いようはないだろう。そのためにもぬけの空にしてあるのだし、無抵抗宣言をして開城するほうが市民に被害が及ぶこともない。

開戦後数カ月でアンジュー、メーヌに続いてついにプロヴァンスが陥落。戦わずしてサボイ領ピエモンテに逃げては、ボヘミア戦線へフランス軍が戻って行った隙にプロヴァンスを解囲しようと抵抗したのだが勝ち目がないのは分かり切っていた。20世紀にレジスタンス戦と呼ばれることになる「プロヴァンス戦術」を繰り返すうちに、同盟を主導する皇帝がフランスと和を講じた。プロヴァンスは、メーヌとアンジューを割譲、スイスとの同盟を破棄して6ダカットを支払い、フランスに屈した。
シャルル・ド・リベルタは2年前の悪夢で見た御屋形様が皇帝になっただけで何も変わらない気がした。果たして私はあの悪夢を現実のものとしないようにできるのだろうか。そう思わずにはいられなかった。

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シャルル・ド・リベルタのデジャヴュ

フランスとの和睦が成立し、ナポリ王の2度目の侵攻を撃退してようやくナポリが和平をうけいれた。
もっとも、プロヴァンスが負けを認めると言う体裁を取り繕って講和したのではあったのだが。
1402年4月1日、プロヴァンス独立戦争は2年5カ月ぶりに終結。プロヴァンスは独立を勝ち取った。

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プロヴァンス独立戦争はここに終結したのであった。

ナポリからの独立を果たしたものの、アンジューとメーヌを失い、スイスとの同盟も破棄されたプロヴァンスはチェックメイト寸前にあるかに思われた。いつの間にか「ノヴゴロドへの市場参入」を果たしたことは唯一明るい話ではあったものの、エクサンプロヴァンスではフランスの脅威にどう対処するか、答えの出ない課題を毎日繰り返し討議することになった。
次に戦争になれば終わりである。小国となった我が国はフランスの影響圏に取り込まれ、フランス以外の国からはほぼ安全となったが、フランスにしてみれば後は食べるだけという状態、まな板の上の鯉ならぬ、食卓の上のブイヤベースである。

フランスとの休戦協定は5年後の1406年まで有効である。その間、いかなフランスでも休戦協定を破棄してまで宣戦することはあるまい。ましてやアンジューとメーヌを手に入れたかの国に、プロヴァンスに対する大義名分などありはしない。少なくともあと5年は内政にいそしむことができそうである。
こと内政に関しては、シャルルシャルルは抜群の名コンビだった。天から与えられた5年の間に、プロヴァンスは国としての基礎を作り上げようとしていた。しかし・・・
1406年、敗戦と借入の繰り返しによって弱り切っていた財政がようやく立ち直ってきたところで、国内に王位僭称者が蜂起した(忘れていた政策スライダーを中央集権に動かして発生)。痛恨の一事だった。王位僭称者の軍2000に国軍3000が敗れこそしなかったが大きなダメージを被り、人的資源は枯渇。フランスとの休戦協定切れが迫っている中、急きょプロヴァンスで傭兵を雇ったのだが、傭兵の費用で国家が崩壊しそうだった。海軍の再建計画と商人の派遣は中止。プロヴァンス財政はほぼすべて立て直しとなった。

それでもシャルルシャルル(漫才ではない、たぶん)は抜群の名コンビぶりを発揮し、3年後の1408年に合理的商慣行を国策に採用し、貿易立国への道を進む。1412年には既知の交易中心地全てに商人を5人配し、租税1.5ダカット、生産0.5ダカットに対し、交易収入36.3。合計ならちょっとした中堅国家並みの予算を獲得した。
貿易立国であり続けるためには、周辺のみならず関係各国との友好関係の維持が不可欠である。同盟、保護などは戦争に巻き込まれる恐れがある。なるべく「非同盟中立」を維持していかなければならないが、動乱の欧州でそのようなことが可能だろうか。島国であれば海軍力によってそれも可能だろうが、プロヴァンスでは容易なことではないだろう。

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非同盟中立は果たして可能なのだろうか

そんな中、シャルル3世が急逝した。

摂政卿シャルル・ド・リベルタ/Charles de Libertad (知謀家、☆☆☆統治技術投資+9.00) 1412.12.19~

シャルル3世は逝去したとき、太子のシャルルはいまだ11歳であった。早すぎる伯の逝去はプロヴァンス国内に影を落とした。シャルル・ド・リベルタは、有力貴族からなる摂政評議会を招集し、新王成人のときまで国政を代行することとなった。
摂政評議会を代表して国政を司るシャルル・ド・リベルタを摂政卿と呼んだことから、摂政卿という呼び名は後に何度か招集された摂政評議会の代々の代表者に対する呼称となった。

摂政卿として周辺諸国との折衝にあたったシャルル・ド・リベルタにとって真に殺生な事態が起った。外交的には負けに等しいその事態とは、1414年に再開された英仏百年戦争にプロヴァンスが巻き込まれたことである。シャルル摂政卿はフランスとの友好関係を献納金だけで維持していくのは難しいとの判断から、軍の通行許可の特権やフランスに対する保護まで与えてしまっていたのだった。今回の英仏戦争再開に際しフランスからの援軍要請が届いた時には悔やんでももう遅かったのである。フランスとの関係を悪化させたくない一心で援軍を受諾、プロヴァンスは大きな戦争に巻き込まれてしまった。しかし、戦場は遥か北方である。放っておいても大丈夫だろう。彼にしては甘い見通しだった。
翌1415年、ミラノの対仏宣戦によって、プロヴァンスは窮地に追い込まれた。サボイを併合したミラノは国境を接している。ちゃんと戦わなくてはならない・・・
しかしこの戦争は簡単には終わらないだろう。参戦拒否を理由にフランスが宣戦してくることもなかろうとの判断から参戦を拒否した。もちろんフランスには贈り物と戦費の援助でご機嫌を取り繕う。
1416年、二つの戦争が終わったときには南ガリア(南仏)の地図はがらりと変わっていた。

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これはプロヴァンスにもチャンスが?
いや、どこに取り入ったらいいのだろう。

シャルル4世 ド・ブロワ/Charles Ⅳ de Blois(行政:3/軍事:6/外交:3)在位1416.10.3~

1417年10月3日、16歳の誕生日を間もなく迎えようとしていたシャルル4世は、国王となって臣民の父となって1年がたとうというこの日、生物学的にも父となった。シャルル4世より4歳年上の妃に抱かれた太子ルイスに対面することを許された摂政卿シャルル・ド・リベルタは、太子が無事に成人してくれることを神に祈ることはもとより、なお一層若き主君がその天寿を無事に全うできるよう祈ろうと思った。

しかし、シャルル4世は自らの舵取りによってプロヴァンスの「地に落ちた国威の回復」に力を尽くそうと誓うのだった。若い伯は彼を我が子とも思う摂政卿の思いとは裏腹に、摂政卿を早くも疎んじ始めていたのだった。シャルル4世は、国内から人材を進んで登用(文化的伝統を使って宮廷の偉人を採用)していったが、彼が登用した若者たちは摂政卿と同じ智謀家であった。もちろん統治技術への投資は小さなプロヴァンスにとっては負担であるから、人材でそれに変えようと言うのは間違いではないが、建国の元勲が日に日に遠ざけられていくのは、他の廷臣から見ても忍びなく思われ、若い主君の酷薄さが徐々に明らかにされていくように見えた。

シャルル4世の国威回復のための機会は7年後に訪れた。フランスがブルゴーニュに対して宣戦した折にイングランドが介入し、英仏戦争が再燃した。シャルル4世は、アヴィニヨン再征服戦争(1424~)の機会はこれを置いてないとばかりに、「教皇はローマに帰った。大シスマだなんだいうが、アヴィニヨンにいるのは教皇の僭称者にすぎない。プロヴァンスは教皇を僭称する悪魔に土地を貸しておくつもりはない。退去せぬというのであれば、悪魔の首を神にささげる戦いをするまでだ。」と廷臣を前に豪語した。廷臣たちもシャルル4世が言うことは信仰的にも3強国が争っている機会的にも正論ではあるのであえて反論はしなかった。

アヴィニヨンに宣戦布告したシャルル4世は、フランス、ヴェネチア、ブルターニュ、アルマニャックがアヴィニヨンの保護を宣していたことを知らないわけではなかった。
ミラノの伸長によってドーフィネ、リヨン、オーヴェルニュを失ったフランスはランドックが飛び地になっているため、アヴィニヨンに援軍が思うように送ることができないであろうし、それはブルターニュとヴェネチアにしても同じであった。さらにヴェネチアはアクイレイアと紛争を続けていたし、フランスはイングランドと百年戦争を継続中だった。戦争が終わったばかりのミラノはといえばオーストリアとの戦争中であった。まさに時は今をおいてないと言えた。
アヴィニヨンの保護を宣言していた各国はきれいに全てがプロヴァンスに宣戦布告してきた。しかし、シャルル4世の期待通りランドックのフランス軍さえ破ってしまえばあとはどうということはなかった。

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3世ってなってるけど2人目なので4世です!

1426年、アヴィニヨンは僭称者から解放され、プロヴァンスに戻った。バロワ朝プロヴァンスにして初の領土拡張であった。しかし、アヴィニヨンは戦争を指導する立場ではなかった。アヴィニヨン併合は戦争の終わりを意味しなかったのだ。
ヴェネチア、ブルターニュとは痛み分けで和睦が成立、アルマニャックは分不相応とは思いながらジェロー7世ド・モンフォールに伯を保障し(属国)休戦。
しかし、フランスは簡単には和平のテーブルには着かなかった。イングランド、ブルゴーニュと戦争を続けていたフランスの厭戦感情は8.45、戦況はランドックの占領で+24%もう少しだ。まだ痛み分けどころか、こちらが負けを認めるという申し出にすら応じないけれど・・・。

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これでもかと国威をあげよと神が・・・

結局フランスは1430年まで痛み分けすら受け付けなかった。最終的にこの戦争中にプロヴァンスが結んだ同盟のいくつかを破棄することで和を講じることに成功したのだった。リエージュ、トスカナとの同盟は破棄せざるを得なかったが、ブルゴーニュ、イングランドとの同盟の維持には成功。戦争ばかりしていそうなところや、そういう地域の国とはかかわらないことにしたつもりだったのだが、フランスの仕返し怖さに受諾してしまった同盟だったが、フランスとの和議に役立つ材料になるとは思ってもみなかった。

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1430年のプロヴァンス周辺の状況
一時はサボイを滅ぼしオーヴェルニュまで伸長したミラノはスイスとサボイの独立によって東西に分断されている。
フランスはイングランドに領土を大きく奪われている。
 

Marseille 1429

宮廷から遠ざけられたのか、自ら足が遠のいたのか、シャルル・ド・リベルタにはわからなくなっていた。すでにどうでも良いレベルの話であったのかもしれない。しかし、彼がプロヴァンスの宮廷と全く縁が無くなったわけではなかった。主君が彼に会おうとしなかっただけで、王妃や太子は彼と彼の妻と会う機会は多くなっていた。彼の主君は元来酷薄なたちなのか、それとも政治に忙しかったのか、それは分からない。しかし、太子をもうけてからのシャルル4世は全く自分の家庭というものを振り返ろうとはしなかった。王侯とは元来そう言ったものなのかもしれない。
シャルル・ド・リベルタが太子ルイスをマルセイユへ連れていくようになったのは、彼の先の主君にして盟友だったシャルル3世が息子にしてやれなかったことを、シャルル・ド・リベルタにとって孫のような次代の主君にあたる幼い子供にしてやろうと思っていたのかもしれない。地中海各地からガリアへと運ばれる荷を集めるマルセイユの港は活気にあふれていた。波止場にはラティーンセイルをたたんだカラベルが何隻も接岸し、荷を降ろしていたり、今まさに荷を積み込んでいる船もあった。カラベルに交じってコグが何隻か見えた。スクエアセイルと2層の船首楼が特徴的で、地中海の船とは一目で見分けがつく。その一々を訪ねる太子に、シャルル・ド・リベルタは何度でも丁寧に答えていった。この老人にはむしろその好奇心が頼もしく思えたのかもしれない。
少々歩き疲れたシャルル・ド・リベルタは庶民の行く酒場で休憩していくことにした。もちろん太子も一緒だった。王妃が知ったらどんな顔をするであろうか。
酒場とは言っても半分外のような店で、本来の店の壁からカンバス地の日よけを通りにつきだして、丈夫そうな棒で吊っていた。テーブルは王侯の彼らから見れば雑な作りであったし、椅子も本来は樽として使われるべきものであったが、オープンスペースの解放感もあって妙に自然な感じをこの高貴な二人に与えていた。彼らが席につくと注文を取りに来た若い娘が、じきにトロバイリッツが出てくるよと教えてくれた。
「ほう、それは珍しい。」シャルル・ド・リベルタが言うと、若い太子が問うた。「シャル爺、トロバイリッツってなに?」
トロバイリッツとは女性のトルバドゥールのことである。そのそもトルバドゥール/Troubadourとは中世のオック語抒情詩の詩人、作曲家、歌手のことで、リムーザン、ギュイエンヌもちろんここプロヴァンス、さらに、カタルーニャ、アラゴン王国、イタリアで活躍した。12世紀後半になると北フランスのトルヴェール/trouveresと、ドイツ側でミンネザングを歌うミンネゼンガーとして、拡散した。彼らの詩の多くは、騎士道と宮廷の愛をテーマにしたものであった。特に、結婚した恋人を想う真実の愛の歌が有名である。これらの中世叙情歌も騎士階級の没落とともに衰退することになった。有名なトルバドゥールが何人もいてセスティーナと呼ばれる6行6連詩を作ったとされるアルナウト・ダニエルは、イタリア北部の清新体派の詩に影響を与えた事をダンテは『神曲』の中で示唆しているし、第2回十字軍に参加したというジャウフレ・リュデルなどがいたのだが、15世紀の今となってはあまり見かけない存在だった。
シャルル・ド・リベルタが幼い太子に説明を終えるころに若い娘が飲み物を持って戻ってきて言った。「トロバイリッツって言ってもオック語で歌うわけじゃないからね。イベリアから流れてきた人たちみたい。」

派手な衣装を身にまとい、くるくると回りながら歌うトロバイリッツのフランス語の抒情詩は、「サラセン人の支配するイスラームの大陸の奥地に黄金の山を探して冒険する王子の冒険譚」であった。もちろん、シャルル・ド・リベルタにはその話のソースも分かっていたし、実際にはエンリケ航海王子は黄金の山など見つけてはいないのも知っていた。プレステ・ジョアンの伝説とエンリケ王子の西アフリカ探検をいかにも抒情詩的に結びつけた創作であることは明らかだったが、嘘か誠かわからない異国の王子の冒険譚はプロヴァンスの幼い王太子の心を鷲掴みにしたようだった。

 

à suivre


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Last-modified: 2010-06-10 (木) 03:23:11 (3326d)