属州がいっぱい02 第二章 プロヴァンスの航海王子

新しい時代

少し前の話である。まだ幼さが残る顔立ちに良い身なり。そんな少年が船乗りから海の話をちょくちょく聞きに来ていると、マルセイユの港では噂になっていた。話を聞きたけりゃワインを持ってきなという船乗りに、時には気前よく酒場で奢り、坊主坊主とかわいがられた。少年はそれからもちょくちょく港へあらわれては皆の話を楽しそうに聞き入っていた。
時折、少年をほかの子供たちが呼びに来て、話の続きを聞きたそうにしながらも、子供たちと一緒に駆けていくことがあった。

出典ウィィペディア

プロヴァンスは建国間もない小所帯だけあって支配者と民衆の距離が近い。建国のいきさつからして下級貴族と平民による下からの宮廷革命というべきものであったし、その折にアンジューやメーヌとのつながりが無くなったことで、よりローカルな政権としてプロヴァンスはひとつになろうとしていた。
今年13歳の若き王子ルイスはマルセイユの港町へよく出かけた。港で潮風を受けながら、時より船が通って作り出す小さな波が打ち寄せ岸壁にあたってはじける音を聞いているのも好きだったが、港よりも船よりも、船乗りの話を聞くのが好きだった。御供のシャル爺はルイスの隣で居眠りをしながら、寝言で小言を言うという特技を披露して見せた。
港町の子供たちが集まって何かしている様子もよく見かけたのだが、シャル爺が一緒の時は声をかけづらく仲間に入れてもらうことができなかった。でもルイスは他の国の王侯の子弟よりはよっぽど自由であった。

しかし、それも度々というわけにはいかなかったし、勝手に出かけたことが知られると、長いお説教を聞かなくてはならなかった。
ルイスは近くまた征旅につくという父王から、父の拡げた領地を上手に治める勉強をして父を手伝うように言われ、アヴィニヨンの大学へ行く予定だったのだが、父シャルル4世の近隣諸州への武力行使によって、アヴィニヨンも戦禍にさらされた。モンペリエとアルルにも大学はあるにはあったし、ピサにも有名な大学があったが、どこもいつ戦場になるかわからず、アヴィニヨンが安定するまでは大学をきらめざるを得なかった。おおよそ父のせいであるこの事態を抗議したルイスは、代りにその日まではマルセイユの港へ出かけることを父に認めさせていたのだった。

ルイスが以前シャル爺に連れられて来たことのある酒場「カモメ亭」へ向かったのは、晴れてマルセイユへの自由外出に許可が出てからすぐのことだった。カモメ亭は以前と変わりが無かった。トルバドゥールがいないことと、以前訪れたときに話しかけてきた店の娘のお腹が大きくなっていること以外には。
娘はマルセイユの漁師と結婚して数ヵ月後には出産するという。それまでの間はここで働いてお金をためるのだと笑った。

ルイスは店に来ていた船乗りたちの話に聞き耳を立てていたが、その大部分は金と女の話で、ルイスにはあまり興味のないことばかりだった。もっと異国の話を詳しく聞きたい。そう思うのだが、どう話しかけたらいいかわからなかった。
ふと一人の少年がルイスに話しかけてきた。
「船乗りの話が聞きたいのかい?」
そういうと少年はルイスの手を引き船乗りたちの輪に入って行った。船乗りたちには馴染みの少年であったらしく、二人に席をつくってくれた。
船乗りたちは少年に海の向こうの噂話や自分たちの航海の自慢話をするのが楽しみになっていたようだった。
「俺はジョルダン。君は?」新鮮な食材を使いながらも荒っぽい見かけのブイヤベースが運ばれて来た時に、思い出したように少年は名乗った。ルイスは船乗りに完全に打ち解け、大人と一緒になって話をしているこの屈託のない少年を羨ましくおもった。
楽しい時間が過ぎ、店を出るときになってジョルダンは右手を差し出し握手を求めた。
「お前面白いな。また遊びに来いよ。今度は舟で遊ぼう。」

マルセイユの町では近頃子供たちが元気だった。一番の流行りの遊びは、なんといってもボート競走だった。ボートとはいってもタライにのって板きれで漕ぐようなものだった。子供たちはそのタライの改造と、タライなりの操船術を競い合っていた。
ルイスはジョルダンたちとともにボート競走にも参加したし、他の子供たちと戦争ごっこのような喧嘩もした。カモメ亭の給仕娘の旦那の漁船に乗せてもらったこともあった。服を破いてきたりびしょぬれで帰ってくることは日常茶飯事であったが、外出は王の許可が出ているし自分たちの子供の時分を思い返せばこんなものだったかなと周りの者は次第にあきらめていった。

ジョルダンがある日を境に現れなくなった。戦争が終わろうとしているころのことだった。

1430年、足掛け6年続いたアヴィニヨン再征服戦争が、優勢だったプロヴァンスが負けた形をとったにせよ終結し、長く戦地に赴いていた兵士たちが故郷に復員した。彼らは、槍や弓を投網や鍬に持ち替えてすっかり痩せてしまった土地と家族のために生きて再び働けることを素直に喜んでいた。戦争後半はフランス領内でイングランド軍と占領競争となり被害も極端に少なかったのだが、やはり帰らぬ夫や息子それに恋人を想って悲嘆にくれる人々も多かった。古今東西戦争というものは権力者にとっては取引の材料でしかなく、兵士の命はチェスの駒よりも安価なものでしかなかった。それでも概ねの人たちにとって、戦争が終わったことは目出度いものとして受け入れられた。

エクサンプロヴァンスの周囲よりもやや大きめの館の住人は、その概ねの人たちには入っていなかった。
生誕祭を間近に控えた12月7日、プロヴァンス建国の元勲にして先の摂政卿シャルル・ド・リベルタが天寿を全うしようとしていた。
あまり親密ではなかった王の名代として、ルイスがシャル爺のもとへ病気見舞いへやってきた。ルイスはシャル爺を本当の祖父とも思っていたし、ルイスの少年時代に港町マルセイユを与えてくれたのもシャル爺であると思っていた。多くの人とふれあいその中で肉親の不幸にあった友達も見てきたルイスだったが、シャル爺の弱りきった姿を見ることはつらかったし、このまま天に召されるのを傍らで見届けることは耐えられそうもなかった。椅子に腰かけて何も考えられないでいるルイスは

「よう、船乗りの話が聞きたいのかい?」

そう後ろから声をかけられた。ルイスが振り返るとそこにはジョルダンがいた。

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1430年末のプロヴァンス新体制
妄想を働かせてしまいました

大航海時代の幕開け 1431~

プロヴァンスの建国の功臣シャルル・ド・リベルタは生誕祭を前に天に召された。リベルタ家の家督は、数ヶ月前に当主が養子としたジョルダン・ド・リベルタに継承させる旨、王が署名したのは年が明けてからのことであった。

ルイスとジョルダンの悪だくみは、マルセイユの町からエクサンプロヴァンスの王宮へと舞台を移すことになった。

1431年、ルイスは正式に若年ながら評議会に臨席する権利を得た。そしてジョルダンとともにかねてから温めていた計画を父王の前で廷臣らに提案した。すなわち海外への探検隊派遣事業であった。もちろんルイスは自分が探検に行きたかったのだが、この時はそうは言っていない。そんなことを口にすれば探検隊の派遣すらなくなってしまうことくらいは幼い王子にも分かっていた。

1415年にポルトガルのジョアン1世が3人の王子をアフリカに派遣し、エンリケ王子は西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けたという話は列席の大人たちも周知であったし、『金の山』はともかく、インドへの新航路発見が経済的にどのような効果を生むのかは容易に想像できた。しかし、プロヴァンスのような小さな国にとって探検事業はかなりの財政的な負担となるであろうことも、あまり豊富な想像力を必要としなかった。

シャルル4世は息子の大志をよしとした。探検隊の派遣が決定し、プロヴァンスは国策を新世界探索に変更した。国を挙げての大事業の開始である。

探検事業の責任者にルイスが父王から指名されたのは1431年の春のことだった。
幼い息子にあまり構わずにいた父を周囲の者が酷薄と陰で言っていたのを耳にしたことのあるルイスにとって、父王が「お前の船や地理の知識を活かしなさい」と言って探検事業をまかせてくれたことは、心底意外であったが同時に十数年の人生の中で最も嬉しいことでもあった。

探検事業には、長く厳しい航海に耐えうるような大型船、カラック/Carrackというのだそうだ、が必要だ。マルセイユではいまだ見たことのないような大きなものが。
わざわざカスティーリャから技師を呼んで建造された。かの国ではナオと呼ぶ大型の最新のデザインものだそうだ。ポルトガルが探検に用いているものはカラベルというのだそうだが、造船法は秘密だということで技師の招聘に失敗していた。

  • このゲームの船の分類に少々疑問があります。
    キャラック/Carrackとカラベル/Caravel。これは登場時代からするとほぼ同時期で、どちらも探検に用いられたのだから、キャラックを大型船/Bigship、カラベルを小型/Lightshipとして用途の違いで使うほうがよいと思います。
    現行のカラックの後継船種がカラベルのごとき誤解を招くような技術進化によって現れるものべきものではないと思う。おおざっぱに言うと、コグ+カラベル=カラックであって、カラックの3本マストと船首船尾の多層楼がその後の大型西欧船舶の主流となって行くのではなかったかと記憶しています。
    後にカラックが探検に用いられなくなっていったのは、巨大なカラックよりもカラベルのほうが小型高速で喫水も浅く、浅海や河川などの探検での座礁の恐れが少ないことと、運用人数が少なくて済むため経済的であったからだったと思います。
    下町の路地裏に配達するには軽トラックがいいが、高速道路を何百キロも走る長距離輸送にはコンボイのような大きなトラックがいい、そういう使い方ですね。
    でも、本家の西欧人が作ったゲームだしなぁ、どうなんでしょうね。
    船メインの「東インド会社/East India Company」の購入もこのあたりがどうなっているのか情報が入るまでは見合わせることにしようと思います。あっちはそれこそ船がメインでしょうし、ゲームは雰囲気とか気分が大事だと思いますから。
    ついでにキャラックもカラックとするか、カラベルをキャラベルとするか、英語(というか米語か)で読むのかラテン系の発音とするのか統一すべきだとも思います。
  • EX
    カラック船は遠洋航海を前提に開発された、ヨーロッパでは初の船種で、本格的な帆船「カラック船」は、1400年ごろ登場した。
    「カラック」という名はアラビア語で「商船」を意味する単語から来ているそうなので、またぞろイスラムが起源なのかもしれないと思われるかもしれないが、カラックは北欧の「ハンザコグ」の横帆と地中海の「カラヴェル」の平張り船体の双方の流れを受け継ぎ、15世紀にイベリアで誕生したのだそうだ。
    北欧の船と地中海の船の長所がとりいれられ、遠洋航海にもたえられる大型3本マストの「カラック船」が生まれ、これによって、大航海時代の幕が開いた。
    カラック船は、バイキング型の船と地中海の船(ラティーン・セール)の長所を取り入れたもの。後の蒸気機関の時代まで、この3本マストとこの帆装形式は使われ続けた。

出航

マルセイユの港にはインドへの新航路発見と未知の世界を探検するために新造された船が係留されていた。
「エクサンプロヴァンス号」全長30mを越える巨体に形の違う3本のマストをもつ。フォア、メインと呼ばれる前と真ん中のマストには横帆(スクゥエアセイル)と呼ばれるハンザ風の四角い帆が、ミズンと呼ばれる後ろのマストにはラテン風の三角形の帆(ラティーンセイル)が張られる。外洋航行を重視した選択だ。丸みを帯びた船体と特徴的な複層式の船首楼、船尾楼はずんぐりとしているが丈夫そうで、いかにも大量輸送に適した広い船倉を持っていそうに見える。これまでマルセイユの港では見かけなかった船型だ。北欧のゴグと地中海のカラヴェルの良いところをとりいれて作られたこのカラック船ならば、アトラスの門の外の荒波を越えてインドに到達することも可能だろうとルイスは思った。自分がこの船でどんな旅をすることになるのか、ルイスは出発式典へ参加するべく旗艦「エクサンプロヴァンス号」の係留されている埠頭へと急いだ。
埠頭にはもう大勢の人が集まってきていた。少々急がなければ。ルイスの足取りは早足から駆け足へと自然に早まって行った。

「遅刻ですか?王子様」不意に後ろから声をかけられたルイスが驚いて振り返るといつの間にかもう一人走る男がいた。
「ギレムさん?!」ギレム・ド・ラ・ペルス、プロヴァンス探検隊の提督である。軍人ではないがポルトガルのリスボンとイフニの航路で仕事をしたことのあるベテランの船長だ。父王には内緒だが、ギレムとはカモメ亭以来の知り合いであった。
「ギレムで結構。王子様が遅刻するとかあまり聞こえのいい話じゃないですぜ。」
「提督が遅刻するのもあんまり聞いたことないけど」
「私は遅刻しないように船乗りになったんですよ。職住接近ってやつです。」

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プロヴァンス初の探検隊の出発式典は、汗だくの王子が国王から指揮杖を与えられてつつがなく終了した。シャルル4世に汗だくの理由を聞かれたルイスが汗には種類があるのだと実感したと後に長い航海の間に船乗りたちに話たのはまた後の話。
探検隊には海兵隊が随伴する。海兵隊の隊長はエンリック・ド・シミアヌ卿。先のフランスとの戦争で行われたゼーラント上陸戦において戦死した将軍に替わって敗色濃厚なプロヴァンス軍を海上へ見事撤退させた人物だ。統率力と果断さに申し分はないと父王は言っていた。

祝砲に送られながら「エクサンプロヴァンス号」は式典を終えた探検隊を乗せてマルセイユを後にした。

探検隊はまずリスボンへ向かい、そこを起点にさらに西へ向かう。
探検隊はすでに知られている航路からアゾレス諸島を発見した。もともとこの島の存在は欧州にはしられており探検隊は上陸測量をした。この先の探検の基地とするため、アゾレス植民地を建設することにした。基地が完成するまでの間の守備隊として海兵隊を駐留させ、艦隊は一度リスボンへ戻って修理をする。

ポルトガルはアフリカ沿岸を南下しアフリカ周りの航路を探検中だと聞く。カスティーリャの探検隊はカナリア諸島やもっと南のアフリカ沿岸から西を目指しているらしいが、果たしてインドに到達するのはどこが先になるのだろうか。

1432年2隻目のカラック船「ラ・マルセイユ号」が完成した。アゾレス諸島から一旦リスボンへ戻った探検隊に加わるため、習熟航海をかねてマルセイユを発していった。
本番はこれからだった。第二回遠征ではさらに西を目指す。いよいよアゾレスから西へ西へと向かう冒険が始まろうとしていた。


順当に考えてプロヴァンス本土から新大陸に到達するには、初期の海軍レベルでは、カナリア諸島→カーボヴェルデ→南米東端というルートであろうから、カナリアの中核化に50年必要と考えたら、1430年代には入植していないと1482年の運命の年までに南米に到達はできないだろう。到達したところで中核プロヴィンスではないので、それまでに本国で追い詰められて、カナリア諸島に遷都という事態も考えられる。
新世界探索を取得していれば、アゾレス諸島への入植が可能になるはずなので、他国に先んじるためには大西洋を西へ進むほうが効率が良い。南米は西アフリカに足場があればすぐに届く距離にあるが、ライバルが多くその維持に国力と時間を費やすのはプロヴァンスにとっては致命傷になりかねない。
もう少し効率のよい方法もあるにはある。
すなわち、現地国家の征服である。中米マヤ、アステカ、サボテカは係争中であるので落としやすい。北米のチェロキー、クリークあたりも足場を作るのはたやすい。
だが、プロヴァンスで植民地を広げるのは少々苦労が必要そうだ。というのは、欧州である程度の国力を有していて、16世紀くらいの技術差があれば、それほど征服に時間はかからないが、15世紀中葉ころではこちらも基本的に弓と槍であるため、最初の接触時は良いが、現地部族が動員を完了するころには戦力差が大きくなって勝ち目が薄くなる。皇帝に悪夢を見せる術でもない限り、コルテスやピサロのようにはいくまい。
とりあえず、アゾレス→北米原住民の沿海プロヴィンスと進むとしよう。

15世紀初頭にエンリケ航海王子が探検に使用したのはカラベルを大型化したものであったし、コロンブスの探検艦隊も旗艦以外はカラベルであった。でもないものは仕方ないので、いささか妙な取り合わせではあるが、プロヴァンスの探検隊はカラックとコグを用いて艦隊を編成することにする。

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à suivre


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Last-modified: 2010-06-08 (火) 05:50:00