ブルターニュ戦役

1442年末の欧州概況

1442年12月17日の概況

1430年代はプロヴァンスの拡張が始まった時期であった。新大陸に西欧初の領土を得、欧州では領土が北へ北へと伸長した。対外関係も悪評5.1と成長の割には低めで、カスティーリャ、ポルトガル、アルマニャック、ヌヴェール、ロートリンゲン、サボイと同盟関係にあり、スイス、ヌヴェール、ロートリンゲンには保護を与えていた。
また、サボイ王カルロ1世が死んだ場合、今のままだと、オーストリアとの間にサボイ継承戦争が発生する可能性がある。
そのオーストリアはオスマンと戦争中。東欧ではオーストリアとオスマンの戦争の隙をついてポーランドが黒海に到達、ワラキアをその領土に加えるまでに成長していた。
イベリアではポルトガルがアラゴンの王位を継承カスティーリャのイベリア統一にまったをかけている。
イタリアではトスカナがシチリアにイタリアの主座を譲り滅亡のカウントダウンか。
そして、プロヴァンスに次いでイングランドにも敗戦したフランスがこの度はブルターニュにも敗退。その国土を大きく失っていた。

Aix en Provence 1442

エクサンプロヴァンス俯瞰

マルセイユの北約30km、サント・ヴィクトワール山/Montagne Sainte-Victoireの西のアルク川とトルス川によってつくられた盆地にある都市、エクサンプロヴァンス/Aix en Provenceはプロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄したこの地方の政治文化の中心地だった。
後世この地で生まれ、「近代画家の父」と称される画家ポール・セザンヌは、サント・ヴィクトワール山などエクス郊外の美しい自然をモチーフとして数多くの作品を残すことになる。
紀元前123年にローマのコンスル、ガイウス・セクスティウス・カルウィヌス/Gaius extius Calvinusによって、この地が「アクアエ・セクスティアエ/Aquæ Sextiæ」セクスティウスの水と名づけられた。アクアエが転訛してエクスとなったのが現在のエクスの起源である。エクスは「千の噴水の街」と言われ、街のあちこちに噴水が設置されているのもそのあたりに由来するのだろうか。
紀元前102年には、エクス一帯はガイウス・マリウス指揮下のローマ軍がチュートン人たちを撃破した「アクアエ・セクスティアエの戦い」の舞台となった。
4世紀にはラングドック地方とプロヴァンス地方を区域とするローマ帝国属州のガリア・ナルボネンシス/Gallia Narbonensisの首都となったが、477年にはローマ帝国の衰退により西ゴート族によって占領されれ、その後も、フランク、ロンバルドらの侵攻を相次いで受け、731年にはサラセン人に侵略された。12世紀になると、アンジュー家やアラゴン家の下でこの地方の文化的な中心地となった。
エクスは1401年にブロワ家の統治に代わっても首府でありつづけ、ブロワ王家のもとエクスは黄金期を迎えようとしていた。街の活気は30キロ南のマルセイユには及ばないが、辻々にある広場ではマルシェと呼ばれる市が毎日見かけられ、色とりどりの野菜や果物がまぶしい。

サン・ソーヴール大聖堂内

サン・ソーヴール大聖堂。エクスを代表するロマネスク様式建築物で5世紀以来この地にあってプロヴァンス芸術の結晶とも言われる。その荘厳な礼拝堂でいましも洗礼を受ける赤ん坊がいた。この国で最も大事な赤ん坊の名はルイス。一昨年病死した長子シャルルに代わってこの国の次代を背負う王となるべき、国王ルイス2世の息子であった。

ルイス王がシャルルの死を報されたのは第二次ドーフィネ戦役の終盤、ナンシー包囲戦が始まってすぐのことであった。事の重大さにエクスの廷臣たちは書簡で国王に伝えるのではなく、重臣が直接言上するべきだと結論したが、皆この訃報を国王に伝える役目をやりたがろうとはしなかった。結局兵站担当相としてエクスの宮廷で最も忙しいジョルダン・ド・リベルタがその役目を負うこととなり、ジョルダンはエクスをあとにした。二人だけでいるときは今でも俺お前で呼び合う幼馴染で親友でもあるジョルダンにしても、この役目は気が重かったが、宮廷をあまり留守にするわけにもいかず馬を懸命に走らせてルイスのもとへとはせ参じたのだった。
ルイスに目通りしたジョルダンは、シャルル王子の病死を王である友人に伝えた。椅子に腰かけていなければその場に崩れたであろうほど顔色を失ったルイスにかける言葉が見つからなかった。

小さなルイスの洗礼は無事に終わった。ルイス2世はその場で立太子を宣言し、小さなルイスは王太子となった。その場に立ち会った重臣たちから上がった歓声が荘厳な教会に響き渡った。その声に驚いた小さなルイスが泣き出し、あわてた国王が赤ん坊を抱きあやし始めた。その様をみて重臣たちから笑いが漏れだすのを、ジョルダンは戦争、シャルル王子の死と塞ぎこみがちだったプロヴァンスがようやくこの国らしくなってきたと感じていた。

  • この物語(AAR)ではルイスを「王子」と表記してきましたが、正確には「伯/Comte」の子が爵位を継承するまでの間は「副伯/Vise-comte」と呼称するのが正しい。「副伯」は後に「子爵」になります。でもピンとこないので王子としてきました。前話でルイスが王を名乗りましたから、小さなルイスからは間違いなく王子で、王太子/Dauphinなのでご安心ください(笑)

ユグ・ド・ベルモンとジョルダン・ド・リベルタ

借金返済と悪評の低下を目指しつつ、周辺国との関係改善をするために、ジョルダンは周辺国に特権を与えていった。金が無いので通行許可、保護など近隣諸国に安心を与えていく方針だ。
新大陸の探検事業も度重なる戦争とその戦争債務を返済しないことには進めようがなかった。新大陸には先の戦争の際に解雇されずに新大陸に派遣されたユグ・ド・ベルモン卿が新大陸派遣軍傭兵3個連隊を擁して配置されていた。ベルモン卿はこの兵力をもって新大陸深部への調査事業を行わせてほしいと本国に何度か連絡をしていたが、良い返事は得られなかった。財政再建を最優先課題とするジョルダンには傭兵3個連隊は真っ先に解散させるべき無駄にしか映らなかった。それでも正規軍の派遣をするには、まだ本国の兵力の補充がすんでいなかったので、それまでの間マスコギーを先住民から守るために必要と判断して残しておいたものだった。その防衛戦力を探検に使って消耗させることは、「今となっては新大陸は負担でしかない」と考えるジョルダンには受け入れがたいことだった。

12月17日、ベルモン卿は本国の裁可を待たずにマスコギーを発しマスコギー南西の調査に出発した。ティムクアから西へ向かい、クリークの支配するアラバマを発見。しかし、その間にクリークの愛郷主義者がマスコギーで蜂起。建設中のマスコギー砦は破壊されてしまった。あわてて軍を返してマスコギーから叛徒を追い出したベルモン卿だったが、叱責は免れず、征服者としての彼の本来の任務には当分許可が得られなくなってしまった。
ジョルダンはベルモン卿の解雇と新大陸傭兵のマスコギーからの移動禁止を求めたが、新大陸探検事業にいまだ一方ならぬ熱意と愛を有していたルイスはベルモン卿の謹慎というきわめて軽い処分をとることにした。

少し後の話になるのだが、謹慎中のユグ・ド・ベルモンが失意のうちに病死してしまう。これでプロヴァンスに探検事業を行える人材はいなくなってしまった。もっとも今のプロヴァンスに新大陸に構っていられる余裕など全くなかった。1444年9月10日のことであった。

ブルターニュ戦役 1443~

プロヴァンス軍の進撃

1443年7月2日、ブルターニュがヌヴェールに宣戦布告したとの報告がはいった。
ヌヴェールはプロヴァンスと同盟関係にある。すぐさま援軍要請にこたえるべきであったが、問題があった。先の戦争以来ブルゴーニュとの関係修復は後回しとされ、ヌヴェールを救出に向かうにはブルゴーニュに通行許可を求めねばならなかった。が、ブルターニュは、ブルゴーニュ、カスティーリャ、スコットランドと同盟関係にあり、ブルゴーニュの帰趨がはっきりしないうちは、兵を動かしづらい状況でもあった。
7月3日、ブルターニュの同盟国はどこも動かないことが判明すると、ルイスは軍を動かした。国内には厭戦感情がいまだ高い。今度の戦争は防衛戦争であるとはいえ、直接プロヴァンスが攻撃を受けたわけではなかった。この時間をかけるわけにはいかない。

新大陸の傭兵連隊を2つ解散し、本国で3個連隊を雇用。ルイスは傭兵連隊の編成を待たずに8000の常備兵を率いてリヨンからブルゴーニュに入りヌヴェールに向かった。

マニクールの会戦

ヌヴェールのイメージ

ヌヴェール/Neversは古名をノウィオドゥヌム/Noviodunumといい、後にはこれがネビルヌムと変化した。5世紀にはキリスト教の司教座がおかれ、11世紀にはロマネスク様式のサン=テチエンヌ教会が建設された。14世紀にいったん大学が設けられたが、この大学は後にオルレアンに移された。特産品であるファイヤンス陶器が有名になるのはもう1世紀またねばならない。ロワール川とニエーヴル川の合流点に近い、ロワール川右岸の丘陵にある市街は21世紀の今日でも中規模の地方都市といった規模でしかない。

開戦から1カ月、ヌヴェールを包囲するブルターニュのジャン5世は南からプロヴァンス軍が接近することを知って決戦を決意した。場所はヌヴェールから南へ10数キロマニクールという村のあたりの田園地帯。現代では2008年までF1フランスグランプリが開催されたヌヴェール・マニクール・サーキット/Circuit de Nevers Magny-Coursのある場所である。2002年にはフェラーリのミハエル・シューマッハがここで行われたフランスGPで、F1史上最速の17戦中11戦目でドライバーズ・チャンピオン獲得を確定させたことをご記憶されている方もいるだろうか。
戦いを控えた15世紀のマニクールにはF1の甲高い排気音は聞こえない。ただ田園を吹き抜ける風が麦畑を撫でる音が聞こえるだけだった。

マニクールの会戦

8月17日、両軍はヌヴェールの南の田園地帯で対峙した。プロヴァンス王ルイス2世は騎兵3000、歩兵5000。対するブルターニュ公ジャン5世は騎兵2701、歩兵4000。戦力的には互角。農地と平原と森しかない騎兵の運用に向いたこの地でなら、策を弄する必要もない。正面からぶつかって歴戦のプロヴァンス軍の強さを見せつけてやるとばかりに、対峙するブルターニュ軍へむけて前進を命じた。500年後のF1グランプリ開催時のにぎわいを彷彿させる人数がひしめきあい、観客の歓声のかわりに剣戟が、排気音のかわりに野獣と化したかのような兵の咆哮が響いた。

8月19日からは追撃戦だった。ヌーヴェルの戦いでジャン5世のブルターニュ軍を撃破したプロヴァンス軍はベリーの追撃戦でブルターニュ軍を壊滅させた。11月7日にはブルターニュの全ての街を攻囲。オルレアネ、メーヌで散発的な反撃を受けたが、大勢に影響を与えることはできず、12月にはベリーが陥落した。
突撃による開城を行えばもう少し早かったのかもしれないが、兵の損耗を最低限に抑えたかったのだ。
しかし、この戦争によって戦費返済期限の延長をせざるを得ず、ジョルダン・ド・リベルタは戦地からの朗報を聞いても胃の痛みは日に日に増していくばかりだった。

マロレ一揆

1444年1月に蜂起したオルレアネの一揆の指導者チボー・ド・マロレは優秀な男だった。メーヌで反撃を試みたブルゴーニュ軍がオルレアネに敗走、そこでオルレアネの攻囲をしていたプロヴァンス軍2000と戦闘しているところに乱入、両軍を撃破してしまった。オルレアネに動きがあったときにヴァンデを攻囲していたルイスは兵を向けたのだが間に合わなかった。
マロレの一揆軍を討伐するために、本国で2000のメンアットアームズと傭兵三個連隊を急きょ編成することになったジョルダンの胃は本格的に痛みだしてきた。
12月には兵力を整え、ルイスはマロレを討伐すべくオルレアネに兵を進めた。

ルイスのブロワ伯家は百年戦争初期において、「ブルターニュ継承戦争」を戦ったことがある。戦争はイングランド王、フランス王が介入し、両者の代理戦争の様相を示した。イングランドの支援を受けて1364年のオーレの戦いで勝利したジャン4世がフランスの支援を受けたシャルル・ド・ブロワを破って最終的に公位についたが、フランス王シャルル5世と和解し、封臣として封建的臣従の礼を取った。独立を望むブルターニュはその後も秘かにイングランド王と結んで争い、1381年に和解が成立し、第2次ゲランド条約によりジャン4世が復位した。
ブロワ家はその後、シャルル3世の代にプロヴァンスのシャルル・ド・リベルタに招かれて1399年にプロヴァンス伯となり、現在に至っている。オルレアネ南西部は、ルイスの一族がかつて支配したブロワ伯領でいわば故地であるといえるのだが、ルイスは全く懐かしさなど感じなかった。ブロワ家の故地にいる王の心情に興味をもった貴族の問いにも、ああそうなのか、と応えただけだった。

勝てる準備を整えて戦ったオルレアン近郊の戦いは、プロヴァンス軍の圧勝だった。
一揆の首謀者チボー・ド・マロレは捕らえられ、ルイスの前に固縛されて放り出された。戦いに敗れたとはいえ、王侯貴族や正規の将軍であればこのような扱いを受けることはないだろうマルセイユで平民と共に過ごしたルイスには抵抗のある光景であった。
ルイスはマロレの戒めを解かせると、一揆の首謀者に問うた。
「なぜあなたは私たちと戦おうと思ったんですか?」と。後世伝えられるような高圧的な詰問口調ではない。ルイスは王となってからも高圧的な口調で臣下に話したことなど一度もなかった。
一揆の首謀者は、地面に座ったまま、瞬きもせずにルイスを睨んだまま言った。
「オクシタニアの王よ、あんたがフランス王と戦うのはなぜだい?」

マロレの一揆のあと、ルイスはオルレアネとアンジューを強襲で攻略し、明けた1445年3月23日にはブルターニュ全域を制圧した。

休戦協定

ブルターニュとの休戦協定は、アンジュー、ベリーの割譲とアーマー、モルビアン、フィステールに対する領有権の放棄を取り下げ、オルレアンを独立させるという要求をブルターニュに飲ませる形で締結された。プロヴァンスの圧勝と言ってよい。オルレアンの独立を認めたのは、一揆の指導者マロレに対する温情だったのかもしれない。ジョルダンはブルターニュからの賠償金を期待していたのだが、ブルターニュ公家の金庫はすでに空で、プロヴァンスの国庫を預かる身としてはさらに胃が痛みだすのを覚えたのだった。

1445年3月24日の概況

講和条件を決める前、プロヴァンスの貴族の中にはアンジューだけでなくメーヌも割譲させるべきだとの意見があった。両州とも本来はプロヴァンスの領地だというのだ。
確かにプロヴァンスに領有権はあるが、それはナポリ王となったヴァロワ家のもので、オック人の土地ではない。では何故オック人の土地ではないアンジューとベリーを割譲させたのか。しかも飛び地である。ルイスは、その貴族たちに説明せねばならなかった。
「要するにアピールなんだ。」
今回の戦争は防衛戦争であって新領土の獲得は本来の目的ではない。しかし、この戦争で疲弊したブルターニュがフランスやイングランドの攻勢に耐えうるものとは到底考えられない。その場合、折角分断したフランス王の土地がひとつながりになってしまう可能性、ブルターニュ半島を制したイングランドが南下しガスコーニュでアクイタニアのイングランド領とつながってしまう可能性もフランスの可能性よりは低いがある。中間の諸国は同盟、保護の宣言などでプロヴァンスは防衛を義務とすることを主張しておく。
しかし、援軍が間に合わずに先に降伏してしまう可能性はある。
「つまり、王は・・・」ルイスの意図を察し驚愕を隠せない貴族たちはどよめいた。
「アピールはしておくつもりだよ。」


Heir to the Throne。面白いです。が、少々文句があります。
このゲームはいまだにルイスをルイス・ド・ブロワ、ブロワ伯だと表記しています。この先もずっとでしょう。フランクの伯は基本的にド・領地です。王でも公でも伯でもド~なんで、ややこしいですね。なので、アンジューヴァロワ家の領地プロヴァンスを勝手に占有している人たちの代表者ですから、本来はルイス・ド・プロヴァンスです。フランス王から封ぜられたのなら、アンジュー・ブロワ・プロヴァンス伯とかいうのかもしれませんけど。西洋のプレイヤーは違和感を感じないのでしょうかね。日本で言うなら、「三河守家康」が幕府を開きました、幕府は後世「三河守幕府」とよばれましたって感じですよね。どうなんでしょうね。

バロワ伯、シャティヨン家の紋章

プロヴァンスの紋章もアンジューヴァロワのまま。ブロワ伯は赤地に3本のヴェアの縦帯と金色のチーフです。ド~=領地って解釈ではなく姓だというなら、ブロワ伯領を治めたシャティヨンを姓としてつかえばいいのにともおもっちゃいます。この紋章もシャティヨン家のものだとか。
が、こだわりというならば、1391年にシャティヨン家はお家断絶御取りつぶしで、伯領はオルレアン公ルイ4世が獲得します。のちに彼の孫ルイ5世がルイ12世としてフランス王に即位したため、ブロワ伯領は王室領に編入されました。つまり、1399年10月にプロヴァンスにやってきたシャルル3世・ド・ブロワなんて、じつはどこの馬の骨かわからない人だったりしてしまうので、この話はここまでにします(笑)

あ、プロヴァンス伯になった時点でシャルル3世はシャルル1世だったのかも・・・

Heir to the Throne。改良の余地はあると思いますが、とても楽しいです。

 

à suivre


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Last-modified: 2010-07-08 (木) 01:08:42 (3214d)