動乱の八年

1460年代の概況

開戦前の勢力図

1460年代初頭のプロヴァンス伯によるフランス王追放は周辺諸国に衝撃を与えた。

フランスヴァロワ王家はカペー朝第10代国王フィリップ3世の子シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世が諸侯の推挙により即位し、興った。

これが百年戦争の原因となる。当時のイングランド王エドワード3世もフランス王家の血を引く人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が勃発した。

名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒が原因で44歳の若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂には王国存続の危機にまで立たされた。

そのような中で勃興したプロヴァンス伯はイングランド王によるフランス王即位を阻止すべく北上。フランス王の支配する領域を次々に併合し、ついにはヴァロワ王家をゼーラントに追放する。カスティーリャとの戦争でプロヴァンス伯の攻囲に何の干渉もできなかったイングランド女王メアリーは、60年代後半から次第に圧力をかけ始めた。

1467年1月13日、プロヴァンスはクリークに宣戦。6月9日、マスコギーの領有権を放棄させ175ダカットを支払わせて和平。新大陸での火種を摘みにかかった。
1469年9月25日、イングランドがプロヴァンスに対して交易禁止令を発布。
10月1日、プロヴァンスがイングランドの玉座を要求。メアリー1世が死んだ場合、いまのままならオーストリアと継承戦争が発生する。外交的な見事なカウンターであった。
1470年5月19日、ポワトゥー併合(「オーヴェルニュをマップから排除する」ポワトゥーの中核と悪評-2.0、これはうまい。)プロヴァンス伯は既成事実を固めてしまおうと周辺諸侯の併呑を続けた。結果両国の間の溝は深くなるばかりであった。
1471年1月、イングランドがプロヴァンスに対し侵略行為の停止を求め、警告。
2月1日、「ブザンソンの忙殺事件」フランシュコンテでブルゴーニュの愛郷主義者蜂起。ユグ・ド・リベルタ死亡。
同日、プロヴァンスはブルゴーニュに対し、卑劣な行為を非難し、かの国を影響圏下に加えその行動を制限しようと企てた。
翌3月1日レイモン・べレンガー・ド・グリニャン将軍謎の横死。

動乱の八年の幕開け

1471年3月1日、イングランドがブルゴーニュに対する影響圏の侵害を大義名分に宣戦布告してきた。来るべき時が来たという印象をルイスは受けた。イングランドから失地を回復しない限りは自分は王位僭称者でしかないのだ、いかに相手が強大であれ、ここで引くわけにはいかなかった。

3月14日ブルゴーニュがフランシュコンテの再征服を理由に宣戦。ブルゴーニュを通行中のプロヴァンス軍が奇襲を受けた。プロヴァンス軍を率いるルイスは、奇襲してきたブルゴーニュ公フランソワ1世を破り、そのままブルゴーニュを攻囲。5月10日に占領。しかしブルゴーニュはヌヴェールを併合、ルイスはフランシュコンテの一揆を後回しにしてヌヴェールへ向かった。交戦国をひとつづつ減らしていかなければこの戦争は絶対に勝てない。

8月7日、ヌヴェール攻囲戦終了。ブルゴーニュからヌヴェール割譲と全ての領有権放棄で和睦。ブルゴーニュとの和睦で交戦国はイングランドだけとなった。
ルイスはイングランド軍へと矛先を変え、オーヴェルニュ付近のイングランド軍を壊滅させ、アルマニャックを解放せんとルエルグへ向かったのが1472年6月1日のことだった。

1472年6月23日クリーク族が宣戦してきたという。しかし今は新大陸に回す兵はない。(12月1日に和睦)。7月7日、「オスナブリュック議会」でバイエルン案が可決された。

同日、トリアー大司教カール・ヨーゼフがプファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルム(ノイブルク公ではないですよ)に攻められていると、援軍を要請してきた。ルイスはトリアー大司教の援軍要請を受諾。しかしこれがバイエルン大公を微妙な立場に追いやってしまった。バイエルンはイングランドのプロヴァンス侵攻に対して皇帝として防衛の義務を果たしているところであったが、プファルツの同盟国であり、そのトリアー侵攻には同盟国として参戦していた。トリアーの戦争ではバイエルンはプロヴァンスの敵になるのだ。

1473年11月、ルエルグの攻囲戦を終えたプロヴァンス軍主力が次に目指したのは反乱軍が攻囲するエクスだった。バイエルン軍もここを目指しているようなので、スムーズに解囲できるだろう。到着はバイエルン軍が先だった。バイエルン軍の方が足が早いのは、さすが世界最強の司令官オットー・ヒューゲンポエトというべきか。実にうらやましい。だが、そんなことを言ってられない事態が発生した。
1473年12月、エクスに到着したプロヴァンス軍は先に到着したバイエルン軍とともに反乱軍を討伐するつもりだった。しかし、バイエルン軍は到着したばかりのプロヴァンス軍に襲いかかった。プロヴァンス軍は混乱した。ルイスも軍を退却させるよう命じるのが精いっぱいであった。サボイ領へ退却し得た兵力はわずかに2500。何があったのかさえ分からなかった。

  • 違うエリアにいる分には全く普通の同盟国軍なのだが、同一エリアに入ると交戦状態になる。恐ろしい仕様だ。

1474年9月1日、放置していたフランシュコンテがブルゴーニュに帰属を宣言。「プロヴィンスの離脱」

北方の残存戦力を率いたルイス・フェレ・ド・ラ・グランジュ将軍は、同盟諸国とともにプファルツ選帝侯領を占領。11月24日プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムは降伏文書に署名。プファルツ選帝侯ヴィッテルスバッハ家はプロヴァンスの属国となった。バイエルンの微妙な立場は解消され今後の戦闘はとてもシンプルになったが、ヴィッテルスバッハの血統的には微妙な結果となった。

再起

  • 復仇を導き支えるのは神聖なる愛国心なり
    自由よ、愛しき自由よ
    汝を守る者と共にいざ戦わん
    御旗の下、勝利は我々の手に
    敵は苦しみの中、我々の勝利と栄光を
    目の当たりにするだろう
     
     
存亡の危機か

1475年中にほとんどの州がイングランドに占領されてしまう。プファルツを陥としたルイス・フェレ・ド・ラ・グランジュもイングランドの主力軍に敗れ壊滅。バイエルン軍に壊滅的打撃を受けたプロヴァンス主力はエクスで戦力回復をおこなっていたが、そこをイングランド軍に急襲され、エクス陥落の直前、ルイスは小ルイスを伴いサボイ伯の現在の首府トリノへと落ちのびた。従うものはわずか数騎でしかなかったという。
サボイはルイスの最初の妻の母国とはいえ、元のサボイ伯の孫にあたるシャルルはもうすでに亡くなっていたし、今の副伯はバーデン=ザウセンベルク辺境伯レオポルト・ヴィルムヘルムの姉との子であって、サボイとは全く関係はなかった。現サボイ伯は十数年前に簒奪でサボイ伯となったアゴスティノ・ドッタイアーノという男で、今回の戦争でもイングランドと単独講和した男だった。現サボイ伯のもとでは、落ちぶれたプロヴァンス伯家の一行がそれほど安心していられそうもなかった。

リグーリアはこの戦争初期にプロヴァンスが占領して現在も1個連隊が守備をしている。ルイスは、リグーリアを守るべくジェノヴァに駐屯するベネディット・ド・リベルタ連隊長を頼ってさらに落ちることにした。
ジェノヴァに駐屯するプロヴァンス第13連隊を預かるベネディット・ド・リベルタはジョルダン・ド・リベルタの次男で、この戦争のきっかけとも言えるブザンソンの忙殺事件で亡くなった先の次席外務卿ユグ・ド・リベルタの甥にあたる。一族の中では初めての軍人輩出で、よろこぶ者もいれば、異端とも言える彼をさげすむ者もいたが、当の本人はプロヴァンスの軍神、国王ルイス2世に軍人として仕えることができることこそ一族の誉れであると信じていた。
そんなベネディットを頼って、敗残の身とはいえルイス2世がやってきた。ベネディットは伯の家族にBenvenuti a Genovaといって笑いかけ、ご家族には一流の宿舎を用意いたします、と、イングランドの支配から解放されたドージェを紹介し、ドージェに伯の家族の世話を頼んだ。

家族が退席するのを見送ったルイスは、師団の再編と人員の補充を行ったらエクスを取り返す、と友人の息子である連隊長に手はずを命じた。ベネディットは再会の言葉を期待していたので少しだけ残念だったが、敬愛する主君が微塵も覇気を失っていないことに喜びを感じていた。

各地に散っていたプロヴァンス兵がルイスの健在を知って、一人、二人、時には1個中隊とジェノヴァに集まって来た。
各連隊の定数の半数にも満たないが、約8000の兵力にまで回復したプロヴァンス唯一の師団(20000人定数なのでこのころなら軍団規模かもですが)を率い、ルイス2世はジェノヴァを出立、ミラノ領となっているニースを経て母国プロヴァンスに逆侵攻した。
戦力の完全回復を待たなかったのは、数日前にイングランド女王メアリー1世が逝去し、イングランドは摂政評議会を招集したが、王位僭称者が蜂起し、プロヴァンスとの戦闘から兵力が抽出されつつあるとの情報が入ったためである。もちろん、万全を期すべき戦いではあったが、戦機は今をおいてほかにないと判断したのだった。
傍らには15歳になった副伯(太子)の小ルイスと、第13連隊長べネディット・ド・リベルタ、ジェノヴァ傭兵連隊を率いるジャン・コケレル。
プロヴァンスの反撃が始まろうとしていた。
時に1475年9月1日、青い海と青い空は故国へと続いている。

プロヴァンス伯が反撃を開始したころ、プロヴァンス領はほとんどがイングランドに占領されていた。収入と人的資源の多くを失ったプロヴァンスはこの反撃に失敗したら後はなかった。700年前にサラセン人がやって来た時と同じように山岳部に砦を築いて逼塞して生きていくしかなくなってしまう。
だが希望もある。イングランドの海外領地は長引く戦争でことごとく反乱が発生しており、ギュイエンヌ、フォア、ランドックなどのナショナリストが跋扈していた。北部のイングランド領地では、王位僭称者が蜂起してイングランド軍を攻撃していた。プロヴァンスの領内では、プファルツとの和睦で関係がすっきりとしたバイエルン大公となぜかフランス王が、イングランド軍と対峙しており、イングランド占領下のプロヴァンスの街を解放していた。どちらもルイスにとっては胸に何か閊える相手ではあったが、今のプロヴァンスの劣勢を挽回するには味方してくれるものなら猫でも悪魔でもいいから手を貸してもらいたいところだった。

エクスにとどまる4000のイングランド軍に攻撃をかけ、エクスを逆包囲したのを皮切りにドーフィネ、アヴィニヨンと軍を進めた。
ルエルグを支配していたオックの自由の戦士がルエルグのプロヴァンス帰属を申し出たのもこのころだった。南西のイングランド領は放っておいても自壊する、そう判断したルイスは軍を北へ向けた。イングランドは思った以上に疲弊していたのか、1個連隊規模での包囲をしているばかりで、大きな反撃はなかった。

衝撃

プロヴァンス軽騎兵?

1476年4月、ランドックを支配したソッツィーニ派の異端がエクスに侵入。ルイスはブルボンの攻囲軍を分離し、エクス救援に向かった。攻囲軍を分離してもすでに9000の兵力を保ちえるまでに回復していた。5月11日にエクスの攻囲を解きランドックへの追撃戦に移行した。この地方で最大の敵対勢力は、すでにイングランドではなくソッツィーニ派の異端だった。ルイスは熱心な信者ではなかったが、既にかの異端者たちは掠奪者と化して村々を奪い荒らしまわっていたのだから、その報いは当然受けるべきであったし、その者たちに罰を与えるのは自分の役目であると信じていた。

1476年6月6日、ルイスは乱戦の中にあった。
エクスからランドックへ逃走した異端者たちよりも先にランドックに到着したプロヴァンス軍は、ローム川を渡河するソッツィーニ派の異端者たちを急襲する算段でいた。川の対岸を見据える兵士たちは、ふと後方からの物音に気付いた。指揮官である騎士爵をもつものたちも気がついたらしく、しきりに後ろを振り返る者もいた。物音が戦場のそれであることがはっきりとするまで数分しかなかった。プロヴァンス軍の背後から、ランドックのナショナリストの大軍が襲いかかったのは、物音の正体がはっきりとわかったさらに数分後でしかなかった。
プロヴァンス軍は態勢を立て直しランドックの一揆軍と戦闘を開始した。既に乱戦であった。しかし、戦闘のプロフェッショナルと一揆軍とでは戦闘力に雲泥の差があった。勝負は着いたかに思えたとき、ローム川を渡り異端者の群れがプロヴァンス軍に襲いかかった。

ルイスは旗本(っていうのかな、西洋でも)数騎を従え戦場を大声を上げながら駆け巡っていた。このままでは2年前と同じことになる。ルイスは声をからしてプロヴァンス軍の統制を取り戻そうとしていたのだとも、自らを囮にしたのだとも言われるが、大声で総大将はここだと宣伝しているのだから、当然味方だけでなく敵も集まってくる。ルイスを囲む騎士たちは一人、また一人と落後していった。
ルイスの声に反応した連隊長たちは、指揮下の兵を集めてルイスのもとへ向かった。戦力の再結集に成功しつつあるプロヴァンス軍は大損害を出しながらもこの戦いに勝ちつつあった。

夕刻、ローム川の岸辺は無数の赤い糸を紡いだ血の絨毯のように見えた。辛くも勝ちを得たプロヴァンス軍だったが、失われた命は多かった、多すぎた。そしてその失われた命の中のひとつ、死は等しいが命には重さがあるのだと生き残ったプロヴァンス軍の人々に思い知らせた命はこの日の乱戦の中に失われていた。

ブールジュの攻囲戦を指揮するジャン・コケレル将軍4-5-3-0に同行していた小ルイスにももちろんルイス2世の訃報はとどいていた。西欧で五指に入る名将コケレル将軍にその武勇を認められた小ルイスでさえその場に崩れるほどの衝撃的な報せはこのあともプロヴァンス国内はもとより周辺各国へと駆け巡るであろう。この国を再統一すべく神に選ばれたとプロヴァンス人ならだれしもが信じていた、ルイス2世の戦死にプロヴァンス軍はこの日、動きを止めた。

動乱の8年の終わり

戦後の勢力図

ルイス2世の戦死にプロヴァンスの民心は大地震を起こし、各地に王位僭称者やナショナリストそれに革命自由の戦士が蜂起した。大地震は1476年6月30日に二次災害を発生させた。かねてから危機的状況にあった財政が破綻したのだった。ここでイングランドへ和平を持ちかけてもおかしくない状況であったが、小ルイスの幕僚にはそんな事を言い出す者は一人もいなかった。口々に異端と叛徒共を皆殺しにして先君の仇を返そうと、中には涙を流すものまであったという。

1476年7月、全てを作り直さねばならない状況にあったルイス3世は、父から引き継いだ武官たちの進言を要れ、国内の叛徒の鎮圧を優先することとした。
イングランドとの休戦は、相手も条件は同じであるから当分考えないこととした。
1476年から79年の3年間はイングランドとの戦争というよりはプロヴァンスの内乱鎮圧と言ったほうがいいような状態だった。叛徒の中でも北部を中心に蜂起したナポレオンというものが手ごわく、常に1万人規模の反乱を繰り返し起こした。プロヴァンス軍が同数で戦っても敗れることがあったほどだった。
南西部はフォアが独立した(1479年5月)こともあって、比較的スムーズに反乱地域を縮小することができたが、プロヴァンス軍はこの方面の叛徒にたいしては必要以上に残虐な仕打ちをしたと言われ、フォアがプロヴァンスに帰属しなかったのもそれが原因であったとも言われる。

1479年7月12日、大陸にあるすべてのイングランド領は反乱軍かプロヴァンス軍の手に落ちた。潮時と判断したルイス3世とその幕僚はイングランドとの休戦交渉をおこなった。イングランドは疲れ切っており、ランドックの割譲と賠償金25ダカットの支払いという条件をすんなり受諾した。小ルイスは父から受け継いだ領地を失うことなく戦争を終わらせることに成功したのだった。


この戦争、動乱の八年は、ある意味長寿世界一は誰だ!だったのです。

  • バイエルン大公アルブレヒト3世1428年10月28日~ 在位43年後継者なし
  • イングランド女王メアリー1世1430年8月1日~ 在位41年後継者なし
  • プロヴァンス伯ルイス2世1438年3月3日~ 在位33年後継者2回死亡現在ルイスが11歳

果たして生き残るのは誰だ・・・と。
戦争中にメアリー女王は亡くなりますが、戦争じゃなかったらオーストリアと本当に継承戦争になったのかもしれません。その場合、イングランドとオーストリアの両大国と戦う羽目に陥ってしまったかも。そうはならずにすんだわけですが。
ルイスはもう一息で王となれるところだったのですが、残念です。こんなAAR書きながらなので、ルイス2世にはかなり妄想の入った感情移入していたので、続きを書くのがなんとなくめんどくさくなってしまっていたりします。

国王の戦死などというほとんど敗戦みたいな勝ち方でしたが、とにもかくにも、これでイングランドの脅威はほぼなくなったと言えるでしょう。強敵はあえてプロヴィンスを奪わずに支配下の国家を独立させて、その独立国をじわじわ蚕食したほうがいいみたいですね。

さて、次回からは5人目のルイス(ルイス2世と表示されていますがルイス3世です)の物語になります。どうか新王が長生きしますように。

 

à suivre


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Last-modified: 2010-06-21 (月) 07:41:03 (3229d)