ラ・アルメ・マルセイエーズ/La Armée Marseillaise

小ルイス 

ルイス2世となっていますが3世ですよ

ルイス3世・ド・ブロワ(行政:4/軍事:4/外交:8) 在位1476年6月6日~

小さなルイスは19歳になっていた。すでに小さなというのもおかしなものだが、彼の周りの人々は、彼を「小ルイス」と呼んでいた。彼にとっては不本意な呼び方を周りの人々が改めたのは、1476年6月6日。彼の父が主の御元へ召されたときからだった。

彼の父は若いころから探検隊を指揮し新大陸を発見するという偉業を成し遂げ、王となってからはフランスの片隅の小国であったプロヴァンスを国内で最有力の国へと押し上げた。
小ルイスは当然父の事業を引き継ぐことになる。ルイス2世は現フランス王家を潰すつもりでいた。その事業も9割は終わっていて、あとはゼーラントに逼塞するアンリ2世を膝まづかせ頭の上の物を譲渡させればよい。ただその事業の最後の最後でルイス2世は帰らぬ人となった。小ルイスがしたのは、父の死後の国の立て直しであって、フランス王との対決は、いまやひとつのちっぽけな領国を飲み込むだけのことでしかない。

小ルイスは、父をずるいと思った。
彼の父はフランス王に対抗するため王を名乗ったが、陛下という尊称で呼ぶことは禁じた。Monseigneur、我が君と呼ばせていた。この国にはまだ王がいて、法的には王ではなかったのだからその時まではと思っていたのだろう。小ルイスはこの呼び方を継承させた。彼もやはり法的には王ではなく伯であったし、父でさえ遠慮した尊称を使うのはためらわれた。
しかし、父の事業を引き継ぐのであればいずれはその尊称で呼ばれることになる。
動乱の八年を終わらせたとはいえ、高貴な尊称で呼ばれるにはあまりにも自らの実績が乏しいと感じずにはいられなかった。

山積する難題

小ルイスが即位した当時のプロヴァンスには、破綻した財政の再建、失墜した国威と治安の回復、周辺諸国との関係回復と難題が山積していた。父の生前の事業の継続と完成はブロワの家に生まれた者の義務であると周囲の者は小ルイスに事あるごとに言う。それが彼らなりの激励であることは理解できる。偉大な遺産を引き継ぐことは彼にとって重荷ではなかったが、彼に彼の父以上の業績を期待する人々の存在には肩が下がる思いだった。

小ルイスの閣僚は先代が戦死した戦争中に、しかも一度政府が崩壊していたので、周囲の軍人が中心であった。小ルイスには父のような心を許せる「優秀な」友達などいなかったし、これだけ広い領域に君臨する支配者の跡取りに気安く近づいてくるものも数が少なかった。父は幼いころにリベルタ卿の息子を小ルイスの近侍にと求めたことがあったが、リベルタ卿に諌められたそうだ。友誼は永遠と信じるが、特定の家系の者のみ取り立てては国の行く末は危うかろう、といったそうだ。それでも小ルイスは文官を閣僚として登用しなくてはならなかった。

最初に行ったのは、コンスタンティノープルが異教徒の支配する街となって、ヨーロッパ各地に散ったローマの遺産、アリストテレス、プラトン、ガレノスらの哲学書、ローマやギリシアの記録を携えた東ローマ難民を受け入れる旨を布告した。(文化的伝統+2.0、技術費用-5.0%)

また、長い年月をかけて準備されたプロヴァンスの諜報機関が正式に発足され、最初の任務を裁可したのも小ルイスだった。プロヴァンスにとって初めての密偵の任務は、トゥールーズの愛郷主義者ヴィクトル・ド・カストルボンに対する資金援助だった。トゥールーズを支配するイングランド王に対して武装蜂起を促した。

異次元

1480年にはいってもソッツィーニ派の異端とナポレオン某を名乗る自由の戦士はプロヴァンス領内に跋扈していた。小ルイスは先の戦役の後半をともに戦いぬいた将軍たちと共にこれにあたった。
6月14日には世継ぎシャルルが誕生した。ブロワ家もこれで安泰とエクスでは祝祭が催されたのもつかの間、ソッツィーニは遠くアゾレス諸島にも現れた。これには輸送船の建造から始めねばならず、鎮圧に苦労することになった。鎮圧後はアゾレスの守備隊を3000名に増強することとした。

フランスがいっぱい

叛徒を鎮圧していくうちに、パターンを発見した。ソッツィーニ派の異端はブルボンより南で発生、革命自由の戦士はベリーで発生するのが一番多く、次いでイル・ド・フランスで蜂起するのをよく見かけた。革命自由の戦士はユニット名の右側に三色の旗を付けていた。これがプロヴィンスを占領すると革命政府ができるのか?っと、みつけた。
1482年、ピカルディに革命フランス政権を発見。しかしこれは、フランス政府が2つあることになる。
8月26日、ジャン・コケレル将軍がナポレオン某に敗れ直後に横死。これは戦死か?これは早くもとを断たねばならない。しかし、8年もの戦争を続けた報い、厭戦感情はいまだに高く、次々に巻き起こる反乱。フランス王家と革命フランスがこれでもかとさらに反乱をあおる。

ソッツィーニ派の異端の蜂起はその二つのフランスが仕組んだ反乱を上回る勢いで発生していた。ソッツィーニ派とは、キリストは模範的人格であり、その他の属性はないとする一派でイタリアからの亡命者によってスイスで運動の基礎がつくられ、その後ポーランドにもたらされた。ヨーロッパ啓蒙思想の一つの源流と見なされる。
これも宗教改革ののろしなのだろうか。

フランス国旗の三色は1789年のフランス革命時の国民軍の帽章に由来する。赤と青は当時のパリ市の色で、白はブルボン王家の色であった。青は自由、白は平等、赤は博愛を表すというのは後付けである。このプレイで発生した革命軍の根拠地コーの主府であるルーアンの紋章は赤と青だったかー!でもブルボン朝はいまだ成立しておらず、この三色旗の根拠はない。ルソーもヴォルテールもあと200年は生まれてこない。
しかし、こんなものがこの時期に出てくるなんて少々プレイヤーのモチベーションダウンであった。

  • Soldat Révolutionnaire:出典:ウィキペディア
    少々?いや、少々なんてもんじゃない。羽柴秀吉が毛利攻めの途中で高杉晋作の奇兵隊に出くわしたとか、江戸開城の談判を西郷隆盛が石原慎太郎としていたとか、アメリカ独立戦争をジョージ・ワシントンではなくジョージ・ブッシュが指揮していたような、なんかそんな感じの嫌な気分である。この分じゃロシアに攻め込んだらヨシフ・スターリンが赤い旗を立てて待っているんじゃないかと不安である。
    これはバグじゃなくて仕様なのだろうか。仕様だとしたら改善を要求したい。
    いかん、文章が主観になってしまった。
    とりあえず気を取り直して革命政府はあまり見ないでプレイすることにしよう。

憂鬱

バルとの同盟を理由にブルゴーニュ-バル戦争に介入したのは1483年4月29日のことであった。イングランドとの休戦から4年近く経過したこのころ、プロヴァンスは国内の反乱勢力をほぼ駆逐し、マスコギー植民地の中核化にともない、新大陸東岸の植民を開始していた。
折角平穏を取り戻したフランス国内でバルを侵略したブルゴーニュ公を討伐するため、小ルイスは軍をブルゴーニュ公領へ差し向けた。この4年の間に将軍の顔ぶれもだいぶ変わっていた。動乱の八年以来の将はべネディット・ド・リベルタくらいだった。エクス解放戦という小ルイスにとっての初陣を一緒に戦ったべネディット・ド・リベルタは、小ルイスに何かと気遣ってくれるし、忠誠心も高い。今回の戦争では彼を主将として戦うことになるが、小ルイスは、彼には悪いと思いつつも、能力的には凡庸なリベルタ将軍を遣わすくらいなら自ら軍を率いたほうが戦に勝つ可能性は高いに違いないと考えていた。しかし、文武諸官は国王の出馬を許さなかった。先君の戦死以後プロヴァンス宮廷には誰が言うとでもなくそういった空気があった。

ブルゴーニュ-バル戦争は3カ月で終わった。もちろんバルを守り切り、ブルゴーニュに領有権の放棄と賠償金の支払いを約束させての勝利である。戦勝を報告に来たべネディット・ド・リベルタにねぎらいの言葉を与えながら、小ルイスはエクスに居座ったままでは一生父を越えることはできないのではないか、と栄誉を手にした家臣を心底羨ましく思ったことだった。

新大陸問題

1494年6月7日にカスティーリャとポルトガルの間で結ばれたトルデシラス条約は、当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めたものだった。
この条約によって西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。
当時既に新大陸に領土を獲得していたにも関わらず、プロヴァンスはその条約に参加していなかった。むしろ、その存在を否定したいがために結ばれた条約であるともいえた。

アメリゴ・ヴェスプッチはフィレンツェ出身でメディチ家に仕えた商人だったが、ポルトガル王のマヌエル1世の招待で、カブラルが、ポルトガル王の命によって喜望峰を超えてインドに向かう途上で、南緯16度52分の地点でブラジルを発見した。ポルトガルはトルデシラス条約によって、この領土を主張した。ポルトガル王は、発見された土地が単なる島なのか、あるいはプロヴァンス、カスティーリャが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望んだ。
1497年~1504年の間に、4度、新大陸へ航海。クリストファー・コロンブスを始めとするヨーロッパ人がアメリカ大陸を「東アジア」であると考えたのに対し、ヴェスプッチは「アジアとは別の大陸」(ヨーロッパから見て「新大陸」)であると主張した。

そしてこの事実が確認され、また、商人であり自己アピールに長けた彼は己のラテン語名Americus Vespuciusからこの新大陸に「アメリカ」という名前が付けるよう運動していた。
カスティーリャもまた、クリストバル・コロンの名をとり「コロンビア」と命名すべきだと主張していた。

新大陸の命名については、発見者であるルイス2世の後継者の自分に権利がある。小ルイスはそう主張し、自分ではなく父だと断りを付けてから、新大陸を「ルイジアナ」と呼ぶことを発表した。小ルイスにとっては赤面ものだったが、イタリア商人が後からのこのこ出てきて自分の名前を新大陸に命名しようという事態に対して早急に対応する必要があった。小ルイスは父の偉業を横取するような男の存在を許せなかった。
さらに、既に新大陸に領土を獲得して半世紀以上になるプロヴァンスは、トルデシラス条約は無効であるとし、新たな条約の締結を求めた。

  • 新大陸を「ルイジアナ」としましたが、ちょっと考えてしまっていました。
    このゲームではプロヴァンスに出現するプロヴァンスの最初の同君連合の君主はルイ2世。その後のブロワ家の三代目がルイス2世。日本語版での表記は明らかに違います。「現代オック語文法」によれば、オック語も語尾のsは強調された発音をされずに「ルイ」となるので同じスペルなら「ルイス」とは表記されないはず。ただ、オック語ではアクセントがルではなくイにあるので、ルイースとカタカナにしたほうが近いのかもとも思いましたが、別表記するほどのものでもないんじゃないか。
    なら違うスペルなのだろう思ったんですが、「ルイス」はスペイン語みたいに「Luis」なのではないか。「Lewis」は英語で語源も違うので除外です。
    そのあたりはどうなのでしょう。気になって仕方ないので、英語版で確認を取ってもらったところ、スペルは「Louis」でした。オック語に詳しいわけではないのでわかりませんが、プロヴァンス独自の王位継承者という扱いで和約をルイではなくルイスとしているのだとしたら、拍手喝采です。

麻疹

出典:ヴィキペディア

小ルイスはエクス郊外へ4歳になったシャルルを抱えて遠乗りするのがたまのたのしみであった。この日もいつものようにシャルルを抱え、数騎を従えてサントヴィクトワール山へ向けて馬を走らせていた。シャルルは剛淡なのか呑気なのか、小ルイスの腕の中で時々眠ってしまうことがあった。この日も少しだるそうにしていたシャルルは父の腕で眠っていた。いずれにしろ将来が楽しみでありますな、と世辞をいう供の騎士の言葉を真に受ける親ばかぶりを見せる小ルイスだった。
近在の村で用意させた食事を済ました一行は、ブドウ畑の奥に見えるサントヴィクトワール山を背景に夕刻までにエクスに戻った。
シャルルは次は山に登りたいと乞うたが、小ルイスは、あの山は馬では登れないから、もう少し大きくなるまで我慢するよう説いた。シャルルは次回の約束も乞うたが、そちらは快諾し、その日は別れた。

小ルイスはその足でエクスのマルシェを巡ってみた。いつ来ても色とりどりの野菜やマルセイユやエズから運ばれてくる魚介類、最近ではハンザの商人が運んでくるニシンの塩漬けも見かけることができた。食用ブドウを売っている女に今年のブドウはどうかと尋ねてみると、上々だという。父の在世中はこれほどのどかなエクスは見ることがなかった。小ルイスは、華々しい戦の履歴こそなかったが、領民にとっては好い支配者だったのかもしれない。

1494年10月9日、小ルイスはシャルルの寝室で愛息の手を握っていた。医師がいうのは麻疹だという。既に2日熱が下がらない。この時代の医学はもとより衛生面でも二次感染による合併症の可能性が高い。小ルイスは苦しそうに息をするシャルルの手をただ握っていてやることしかできなかった。

長子シャルルの死から半年後の1495年3月1日、小ルイスは1歳になる次子ルイスを立太子した。同時に、シャルルの冥福とルイスの無病息災を祈念してプロヴァンス領内すべての州に大聖堂を建立するよう発布した。
プロヴァンス領内で建設資材が売れるとヴェネチアやハンザの商人が活躍し、プロヴァンスは建築景気となった。領民は信心深い小ルイスが行った善行に対する神の祝福だといいあったが、そんなことで浮かばれる小ルイスではなかった。

Échec et mat

港の見える家

べネディット・ド・リベルタ将軍が職を辞したのは1498年6月のことだった。ベネディットが引退した後、リベルタ家はプロヴァンス交易中心地建設以来交易業を奨励する立場で関与し、ベネディットの兄弟たちも交易業を営んできたこともあって、親類はもちろん、彼の息子たちの中にも官職につくものはいなかった。
すっかり好々爺となったベネディットは、それに文句を言うでもなく、彼の父が建てたマルセイユ港を見下ろせるあまり大きくもない家で夏を過ごすつもりだった。彼の運命を決めた大ルイスとの出会いの場所であるこの家は、普段あまり一緒にいることのなかった父と生誕祭を過ごしたり、兄弟たちと小さな舟で漁師のまねごとをしたりと、楽しい思い出の詰まった場所だった。
もう20年以上前のこのくらいの時期だったな、とベネディットはふと思い出した。
大ルイスの死から20年、プロヴァンスの領域は大きくは広がっていなかった。一人の君主の死がこんなにも大きな影響を与えるものだとは当時は無論、つい今しがたまで思いもよらなかった。大ルイスが戦死しなかったら、ベネディクトは新王朝の将軍として活躍の場を得て今より充実した人生を送ることができたであろうか。息子たちも武官として主君に仕えたいと思ったであろうか。答えが出ることはなかったが、ベネディクトは空想の中で活躍する自分と鎖帷子を着た息子たちをヨーロッパ各地に転戦させていた。
7月1日の夕刻、ベネディットは空想の中から戻らぬまま神の御元へと召された。

怪文書

中世晩期のミデルブルフのイメージ

1498年9月、フランス王ルイ12世の王都となったゼーラントの主府ミデルビュルフのペテルゼンパウルスケルク(ペテロパウロ教会)の扉にフランス王と教会の罪を告発する文書が張りだされた。もちろんこれはプロヴァンスの諜報機関の仕業だったのだが、プロヴァンス伯の名でフランス国王に対してフランスの名誉のために国王を弾劾、パリで宗教裁判に出廷させるという内容の詰問状を送りつけた。
ルイ12世も、プロヴァンス伯にとってもはや理由などどうでもいい段階であり、どのような返答をしても彼らは攻め寄せてくるであろうことはわかっていた。ルイ12世は勝てぬまでも一矢報いてやろうとミデルビュルフとその周りの島の守りを固めた。
ゼーラントはジーランドとも呼ばれ、ニュージーランドの名前の由来となったとされている。州都のミデルビュルフとは真ん中の城塞という意味で、バイキングと戦うための城が起源とも言われる。現代の二重の濠をめぐらせた市街の姿は五稜郭を連想させるが、この時代のミデルビュルフは大砲の使用を想定した城塞都市ではない。ミデルビュルフのある ワルヘラン島はスヘルデ川河口にある。現代では埋め立て(海底に杭を打ったりとかして自然に土砂が堆積するような)陸続きとなっているが、この当時は島である。

ポルトガル領ホラントへ連隊を輸送

ブラバントとの関係が修復されていない状況ではフランス本土からの攻略はできない。本来なら上陸作戦を行うところだが、第一次海軍強化計画が完了し、さらに第二次海軍強化計画が進行中のプロヴァンス海軍であったが、大型戦闘艦中心の建艦計画であるためプロヴァンスの輸送船の数では数が足らず、上陸しても撃退される恐れが大きかった。プロヴァンス建国の際のナポリ軍、アゾレスで撃退されたスコットランド軍の例がそれを如実に示していた。そこで、新大陸探検のころにポルトガルの通行許可を取っておよそ70年ぶりにその権利を行使することにした。すなわち、開戦前にポルトガル領ホラント州へノルマンディから兵力を輸送しておこうと考えたわけである。
ルカ・ダクール提督は建軍以来初めて5隻以上の大型艦を指揮するプロヴァンス海軍提督だった。新大陸発見をいち早く成し遂げたプロヴァンスだったが、それから70年海軍の規模は拡大することはなく、戦争のたびに維持費すら削られて友好国の港で嵐が過ぎるのを待つという、軍隊としては真に不名誉な歴史を持っている。そんなプロヴァンス海軍に戦訓などあるはずもなく、海軍士官の養成も力がいれられることはなかった。ダクール提督にも戦闘経験は一切なかった。彼は今回の兵員輸送任務について、我が海軍向きの大作戦であると内心自嘲していた。

1499年1月1日、準備成ったプロヴァンスはフランス国王に裁判への出廷を求めて宣戦布告。
マルティ・デロン将軍率いる15000のプロヴァンス軍はホラント州からゼーラントに攻め込んだ。テルヌーゼン市から渡河を行わんとするプロヴァンス軍に、ルイ12世は反撃に出た。しかし、しかし、このことあるのを想定していたマルティ・デロン将軍に散々に打ちのめされてしまった。ルイ12世はたまらずブラバントへ逃走を図るが拒絶され、国境から戻りデロン将軍に最後の戦いを挑んだ。

ゼーラントの戦い

1499年5月15日、ついにフランス王家はの領土は消滅した。ミデルビュルフ陥落の後、パリで行われた裁判でルイ12世は怪文書にあった冒涜の罪を認めなかった。しかし教皇庁との友好関係の良好なプロヴァンス伯側の言い分のみ聞き入れられた出来レースでしかないこの裁判の結果、ルイ12世は破門を言い渡され王位を剥奪のうえ庶民に落された。
ヴァロワ朝はここに滅亡したのであった。しかし、革命フランス政権が北フランスのコーで成立しており、カレー、カンブレーとイングランド領を支配する暴徒を糾合しその領域を広げていた。フランスの正統政権は何故かその暴徒たちの手に渡った。小ルイスのフランス統一はいまだ成し遂げられていなかったのだった。

ヴァロア朝の最期
  • キャプチャー画像ではフランス王がルイ11世デ・レジナールとなっていますが、デってことはフランス人ではないのでしょうか。レジナールという姓も聞きません。パリ伯やエノー伯にそんな人がいましたが、姓ではなく名ですね。
    ルイ11世となっていますが、1423年生まれの11世だと75歳。史実だと83年にはなくなっています。おそらく12世じゃないかな、以前グルジアでプレイしたときに何百年もマリアテレジア1世と戦ったこともあるので、同じ名の君主が登場したのではないか?とおもって12世にしました。姓もヴァロワということにしてます。
    ルイ12世は1462年6月27日生まれ1515年1月1日没、在位は1498年~1515年。ヴァロワ朝フランス王国の第8代国王。オルレアン公シャルルの息子としてブロワ城で生まれ、ルイ11世の娘ジャンヌと王命により結婚したが、一時失脚。ブルターニュへの野心から、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公アンヌと結婚したことでも有名?それをネタにした本にもなっています。1498年に即位したルイ12世には男子がなかったため、サリカ法により従甥に当たるフランソワが王位継承者とされた。王太子時代にルイ12世と王妃アンヌとの間に生まれた又従妹のクロードと結婚してブルターニュ公となり、1532年ブルターニュ公国をフランスに併合した。クロードの死後、長男フランソワ、次いで次男アンリ2世が王太子(ドーファン)の称号とともにブルターニュ公位を受け継いだ。(参考:ウィキペディア)

16世紀初頭の概況

ヨーロッパ概況

ヨーロッパ概況

プロヴァンスの周囲では大きな戦争はこのところ起こっていない。
イタリアで王制を施いたミラノが息を吹き返し、スイスを征服、サボイを属国化し、フェラーラとトスカナを降してナポリと争っている。ナポリ王フィリッポ・マリアはアビス家出身。プロヴァンスのブロワ家とは長年対立してきたスコットランド、ポルトガル、ノルマンディ、モレアと同じ流れをくむ。ミラノがイタリアを統一した暁には、プロヴァンスにとって有力な敵性国家が増えることになるかもしれない。
ミラノの背後のオーストリアは西進の動きは見せていない。南東へぐいぐい突き進み、オスマンをあと一歩でバルカン半島から締め出そうとしていた。オーストリア大公はヴィッテルスバッハ家が継いでおり、かのハプスブルク家はミラノのスイス征服によって滅亡していた。ヴィッテルスバッハの総本山バイエルンは在位59年の長寿王アルブレヒト3世に跡取りが無かったため、1471年に彼が逝去するとバイエルンの貴族フェルディナント1世エマヌエル・フォン・プファルツ・ノイマルクがバイエルン大公となったが、皇帝選出選挙でノルウェー王エリック3世に選挙で敗れ皇帝位を失った。1500年の選挙でフェルディナントは帝位につきバイエルンは皇帝の地位を取り返した。
東方ではモスクワとプロシアの伸長が著しい。モスクワはノブゴロドを滅ぼすとインゲルマンランドから海路デンマークを攻略。次いでハンザを征服してバルト海一帯の交易を牛耳っていた。
そしてフランスから外国勢力が払しょくされたとおもったが、スコットランドがブルターニュの玉座を継承。フランスに新たな外国勢力の支配地域が生まれていた。

新大陸問題

1494年のトルデシラス条約は今や無効となりつつあった。ポルトガルはアカディア、ウナミ、マンハッタンに植民地を建設。一方のカスティーリャはアフリカ諸国を征服し始めていた。プロヴァンスがフランス王と対決している間に、探検、植民事業はカスティーリャとポルトガルに追いつき追い越されようとしていた。

アルフォンス・ド・シミアヌ

ルイジアナ駐留軍

シミアヌの家は新大陸によほど縁があるのか、アルフォンスはルイジアナ駐留軍の司令官として赴任するときに上官にそういわれたものだった。新大陸の話は祖父の自慢話のひとつで、アルフォンスは幼いころからずっと聞かされ続けてきた。しまいには話のほとんどを記憶してしまったほどだった。新大陸に赴任するなら、祖父が大ルイスとともに発見したアカディアと呼ばれる祖父が初めて上陸した土地に行ってみたいとおもっていた。
しかし、赴任してみると、アカイアはプロヴァンスがイングランドと戦争をしているうちにカスティーリャに占領されていた。
アルフォンスは、妻子を連れてこの地に来た。正確には赴任ではなく移民だった。
前世紀の末に小ルイスが移民を奨励し、マスコギー、カトゥーバの征服地以外にサンティ、バムリコ、ボーハタンの準州が入植地から昇格していた。アルフォンスはその全てを守るために新大陸騎兵隊6個連隊を任されていた。
最初の仕事はマスコギーの南ティムクアとという土地に敗走した先住民がいつの間にか多数集結しているのを解散させることだった。相手は13000余と聞く。6000の騎兵隊でそれを追い散らすわけだ。教化されていないとはいえ、ろくな武器も持たない人間を馬で追い回すという仕事はあまり愉快ではなかった。

ルカ・ダクール

ダクールはダ・クールではない。ダクール/Dacourtである。今世紀に入って出没するようになった新大陸ルイジアナ沿岸の海賊を退治するために5隻のカラックを率いて赴任した。プロヴァンスは第二次海軍強化計画(②計画)が完了しようとしている1503年3月の時点で27隻のカラックを保有している。計画立案時の最大保有限界として算出されたものだが、去年改②計画の予算が承認され、新たに3隻が新造されることになった。
大艦隊の建設は時間と金があればできるが、プロヴァンスには艦隊運用の実績が1430年代以降ほとんどなかった。最大規模の運用は先のゼーラント戦役のときだが、その時も輸送任務のみであった。ダクールに果たされた任務は海賊退治で戦訓を集め、プロヴァンス海軍の将来に役立てることが第一であった。

カスティーリャの征服事業

カスティーリャのクリーク征服

1504年9月、イングランドとの戦争の終った1480年台にクリーク征服を怠った小ルイスの失策のひとつに数えられる事件が発生した。

カスティーリャ軍がペンサコーラに上陸。一年でクリーク族を一挙に征服した。餅は餅屋かとばかり感心してもいられない。新大陸に大きな脅威が突如発生したのだった。

カスティーリャは新大陸に二万の軍勢を駐留させた。本来なら砦を築く前に、今すぐ叩くべきであった。しかし欧州最大の陸軍兵力と第2位の海軍を擁するカスティーリャを相手取るにはプロヴァンスはいまだ非力であった。
小ルイスはカスティーリャに対する憤りを抑え、ルイジアナ駐留軍に静観を命じ、軽挙妄動は慎むように念を押す書簡を送った。

宗教問題(ゲームの話ですからね!)

一時は強盛をほこったソッツィーニ派の異端はなりを潜めていた。代わりにぽつぽつではあったが、ボゴミール派の異端者が蜂起しはじめていた。
モスクワの成長によって、ユトランド半島はギリシャ正教に帰依していたが、1509年1月19日に起った新しい主張に比べればソッツィーニ派の跋扈やユトランドのギリシャ正教化などかすんで見えた。

マルティン・ルターの新しい教義は、歴史的に巨大な意義を持つ出来事だった。ルネサンスが一部の知識人を中心とした小さな範囲、特権的なものにとどまったのに対し、宗教改革は民衆を巻き込み、広範な、そして巨大なうねりとなってヨーロッパ社会を変革していくことになる。欧州の精神史上の大転換点といえるだろうし、史家のいう中世の終わりが始まったともいうことができるだろう。ルターの改革の意義は、既成の教会秩序を覆すことによって、中世的共同体組織の精神的な支柱を破壊、民衆を教会を通じてではなく、直接神と向き合わせることによって、脱共同体的な自立した個人というものを作り出すきっかけを作った。また、禁欲的な労働こそ是とされたことで、後に、当時勃興しつつあった初期資本主義と結びつき脱中世を加速させたとも言われる。
しかし、ルター自身、そのような問題意識が明確にあったわけではないし、ましてや革命を望んでいたわけでもない。彼が後にカソリック教会と対立するのも、カソリックの教義が自分の信仰と相容れないと感じたからにすぎない。

にもかかわらず、ルターの新しい教義に賛同する諸侯が現れ、歴史は動き始めた。
アンハルトのヘルムフリート・クレフティングは、現在のカソリック教会の腐敗と堕落を指摘し、今ある教義と物欲主義を批判したルターの教義に賛同、国をあげて支持することにした。後に言う「プロテスタント革命」が発生した。ルターに賛同するキリスト教徒を「プロテスタント」の名で呼ぶようになったのは、皇帝マクシミリアン1世エマヌエルに対してヘルムフリート・クレフティングが「抗議書(プロテスタティオ)」を送った時からであり、この派は以後「抗議者(プロテスタント)」と呼ばれるようになる。

プロテスタントの主張には共感するものも多く、カソリック諸国は大きく動揺した。
プロヴァンスもその例外ではなく、この後まもなく新大陸モナカンにもプロテスタントは伝わっている。

未回収のフランス

父ほどの華が無かったがために「小ルイス」と呼ばれた、ルイス3世の在位もすでに24年。プロヴァンスとイングランドの戦争を終わらせたのみならず、いわゆる百年戦争に終止符を打ち、フランス王家に引導を渡し、植民事業を再開し、世界でも五指に入る陸海軍を作り上げた立派な君主である。彼の後を継ぐべきルイス4世は16世紀を迎えた時点で4歳。ブロワ家の子が成人まで生き残る確率はこれまで20%程度、この子も2人目の世継ぎであった。小ルイスはこの子とブロワの血統のために山積する諸問題に今後も取り組んでいかなければならなかった。

軍拡と内需

1501年1月3日、スコットランドがブルターニュの玉座を継承。再びブリテン島の勢力がフランスに足がかりを作った。1504年には新大陸でカスティーリャがクリークを征服し、新大陸植民地が脅かされていた。重大事態であった。
国内では「ライバル国に対する要求」と称して、ポルトガルの領するルーション、ミラノの支配するニース、ブラバントの有するブラバンの返還を要求する声が大きくなりつつあった。(中核プロヴィンスを獲得、オーストリアの国威が10.00上昇というイベント)
ルーション、ニースは以前から欲していた土地であったし、ブラバントはフランス統一戦争で得たゼーラントの地続きで、取得した暁にはアントウェルペンを包囲する形となる要地である。ゼーラントと陸路で行き来するためには、革命フランス政権も早めに対処しなくてはならない。また、教会は神の思し召しは「ガスコーニュを征服!」にあると主張している。かの地は沿海プロヴィンスであり、征服すれば艦隊の建設速度が増すことにもなる。

1504年8月、小ルイスはマテュー・デロン陸軍卿の新たに22個連隊を増設するという提案を認可した。これでプロヴァンス陸軍は常備連隊が66となり、オーストリアに次いで世界第6位の規模の陸軍を保有することになる。

財政的な裏打ちは、先ごろ採用した「統一的交易方針」による交易効率で+10%が見込まれていること、また交易も国家が管理する「輸入法」を可決したこと。保護貿易的重商主義政策を採用したことが今後どう結果を出すかはまだ分からないが、国内2か所の交易中心地以外に派遣している商人が現時点で一人もおらず、商人の対外派遣へのペナルティは考える必要が無かった。プロヴァンスは国内産業の保護と独占を目指すことにした。

陸軍の大増強と海軍の改②計画が終了したのは1507年。悪評を示す文字が緑色に替わるのを待って、小ルイスが最初に着手したのは、ニースの帰属問題である。
ニースの領有を主張するのはプロヴァンスのほかに、現在領有するミラノ、隣接するリグーリア、サボイの都合4カ国。後手にまわるとややこしい同盟関係のためにせっかくの機会を失する恐れがあった。

Chanter La Armée Marseillaise

  • 打ち震えるがいい、暴君共そして反逆者等よ
    恥ずべき者共よ
    打ち震えるがいい、恩知らずの企みは
    報いを受ける最後を迎えよう
    国民すべてがお前達を迎え撃つ兵士となり
    たとえ我等の若き戦士が倒れようとも
    大地が再び戦士等を生み出すだろう
    戦いの準備は整った
  • 武器を取るのだ、我が市民よ!
    隊列を整えよ!
    進め!進め!
    敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
     

第2次ミラノ戦役(ニース再征服戦争)1510年~

ニース戦役

1510年7月1日、ニースの返還を求め、小ルイスはミラノ王(王制になっています)に宣戦した。プロヴァンス軍はスイス(ベルン)とニースの二か所へ攻め入った。各翼の軍とも騎兵、歩兵、砲兵のコンバインドアームズ。今回から青銅砲連隊を採用してみたのだが、軍の進軍速度が低下したがその分火力は圧倒的である。兵数でも圧倒していたプロヴァンス軍はベルンを6日で、ニースも10日で陥落せしめた。8月半ばにはロンバルディアも占領。このまま勢いに乗ってミラノを完全制圧しようという矢先、またしても革命フランスのテロリストがベリーで蜂起したとの報が入った。200年タイムスリップしたあの国は目障りで仕方ない。大義名分なしでも攻め滅ぼしてくれようか、とまでは小ルイスは思わなかったが、国内に残る1万の兵力はこの時のための物であった。しかし将軍は出払っている。小ルイスは自ら兵を率いて鎮圧に向かった。またしてもナポレオン某というものが率いていた。ファーストネームがナポレオン~なので家族というわけでもあるまい。
1511年9月24日、ロマーニャでの一敗もあったがミラノからニースを割譲させ、サボイとの属国関係を解消、スイスの主権回復を承認させて休戦とした。

ギュイエンヌ戦役(ガスコーニュ征服戦争)1512年~

ガスコーニュに侵攻するプロヴァンス軍

ルーション、ブラバンはそれぞれポルトガル、ブラバントの支配する州であった。小ルイスはフランスのほとんどを手中にしているとはいえこの2カ国に手出しするのはためらわれた。
となると次の目標はギュイエンヌの支配するガスコーニュ。
ガスコーニュはオック語圏に属する地域である。プロヴァンスを含めた南仏一帯をオクシタニア、ガスコーニュ周辺の地域をアクイタニアと命名し支配したのはローマ人である。
1512年10月2日、ガスコーニュ征服戦争開始。ギュイエンヌの首都ガスコーニュへ進軍するのはエンリック・ド・ベルモン将軍。11月8日にはガスコーニュを占領、そのままガスコーニュをプロヴァンスに編入し、ギュイエンヌはイングランドからの独立後数十年で滅亡した。

革命政権消滅の瞬間

しかし、この戦争はここでは終わらない。
革命フランスがガスコーニュに立って宣戦。同盟の盟主となっていた。レイモン・ベレンガー・ダベル将軍が率いる二万を向かわせたが、プロヴァンスの忠実な僕と化したロレーヌ、バルが将軍の到着前に革命フランス軍を壊滅させていた。将軍はカンブレー、カレーの攻城戦を行っただけだった。革命フランス政権の首都ピカルディ州のアミアンはエノー大司教に占領された。
当然和平提案がされたのだが、何故か交渉は「フランス王国」から。しかもゼーラントに国があるかのような内容。でもアイコンは革命フランス。この和平案の表示の際にはフランス王国の紋章が表示されたり、トリコロールのフランス国旗が表示されたりと、明らかなエラー。壊れたんじゃないだろうか?モチベーションが著しく低下してきた。
どの道一度の戦争では革命政権を滅ぼせないので、カレー、カンブレーの割譲で休戦し一旦セーブして再起動しようと思った直後、の1513年3月18日、エノーが革命政権を完全併合。
革命フランス政権はマップから消滅した。(累積悪評16.8)

かくして、ラ・マルセイエーズを歌いながら北へ征服を続けたプロヴァンスは177年続いた百年戦争に終止符を打ち、ヴァロワ朝フランス王家を打倒し、自由と博愛の精神と誇り高き革命の理念を掲げた革命政府とナポレオン某を滅ぼした。ラ・アルメ・マルセイエーズによってあるべき時代にお帰りいただいた未来の革命戦士よ、さようなら。18世紀にまた会おう。

さよなら、18世紀にまた会おう
  • 我々は進み行く 先人達の地へ
    彼等の亡骸と美徳が残る地へ
    延命は本意にあらず
    願わくは彼等と棺を共にせん
    取らずや先人の仇、さもなくば後を追わん
    これぞ我々の崇高なる誇りなり
  • 武器を取るのだ、我が市民よ!
    隊列を整えよ!
    進め!進め!
    敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!

本文中に物騒な詩が挿入してあります。お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、革命軍の歌であり現在のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」です。、もとは「ラ・アルメ・マルセイエーズ/La Armée Marseillaise」マルセイユ軍という意味のタイトルです。これはプロヴァンスにこそふさわしく、カレー周辺を占拠する叛徒には何かほかの歌を歌っていただくことにして、これまで本文中に挿入してきました。ちょっと気に入っています。
アンシャン・レジーム打倒と反革命を成し遂げたプロヴァンスはこの先どうなって行くのか。物語はどう進んでいくのかはともかく、プレイヤーのモチベーションは三色の旗が16世紀の欧州から消えたことで回復に向かいつつあります。西郷隆盛も勝海舟に遭えたほうが満足でしょう。

話ついでにもう少しだけ。日本語に意訳した歌詞を見ると皆素晴らしい出来栄えなのです。「血染めの旗が翻る」とか「血ぬられた旗が」とか訳されている
L'étendard sanglant est levé!
をGoogle翻訳に訳させたところ、21世紀の若人向けにわかりやすくしてあるのでしょうか。「流血のフラグが発生です!」と。

革命フランス政権の消滅がうれしくてつい話が妙な方向にいってしまいました。
フランス王家と革命フランスが手を携えてプロヴァンスのフランス統一を阻もうとしている構図をどうやって物語風AARにするかが最も大きな課題でした。
「百年戦争中のフランスに200年の時を越えて現れた救世主ナポレオン。彼の率いる革命フランス軍は、古きフランクの流れをくむ国王軍と共にプロヴァンスの叛徒どもから愛すべき祖国を取り戻し、戦争と内乱によって荒れ果てた国土とフランス人民の心に平和と安寧をもたらせるのだろうか。さあ進め、革命の理念とアンシャンレジュームの合作の前にはもはや敵などないのだ!」などという物語には残念ながらできません。

散々悩んだんですけど、結局物語を作れず、さらっと流す方向でやってしまいました。アイデアがあればすっ飛ばした部分を書き加えるつもりはありますが、事態が事態なので難しいかもしれないです。同様に宗教関連のお話もイメージがつかめるくらいには書くつもりですが、何が正しいとか真理はどこにあるとか、解釈が云々については語るつもりどころか触れる気もありません。

革命フランスは滅亡直前にフランス王国になり、マップから消えていきました。バグの可能性は大なんでしょうかね?フランス王家はとっくに滅んでいるのに二度手間でした。悪名も国一つ多く滅ぼしている分たかいです。いずれにしてもこれにより、フランス統一国家の建設が可能になりましたが、その場合問題が二つあります。
①国号が「フランス」になる。これは困る。「プロヴァンスがいっぱい」じゃなくなる。
②首都がイル・ド・フランスになる。これも困る。「プロヴァンスがいっぱい」じゃなくなる。
つまり、AAR連載の危機であります。革命フランス政権とフランス王家が並立し、「フランスがいっぱい」になったあたりからモチベーションが下がってきているうえに、プロヴァンスがフランス王国に変化してしまっては・・・・

ここでプレイヤーの選択肢は4つ。
①プロヴァンスのままプレイ続行。
②フランス統一国家としてプレイを続ける。
③1445年のガスコーニュ戦あたりのセーブデータからやり直す。
④プレイを打ち切りしばらくは悔い改めて家族サービスに専念する。

答えは次の投稿にある(やるんじゃん・・・)

 

à suivre


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Last-modified: 2010-07-02 (金) 15:34:02 (3218d)