ブロワ朝成立

Héritier du Trône

ブロワの語源は不明である。19世紀の作家によれば、ブロワとはブルトン=ケルト語のブレイズ(bleiz、オオカミ)から派生したとする。その狼の名を持つ町ブロワを領したことからブロワ伯となり、ブロワ家が興った。ブロワ家は百年戦争のさなかのブルゴーニュ継承戦争で一時途絶えるが、14世紀の終わりにプロヴァンス伯としてエクサンプロヴァンスにむかえられた。ルイス3世の曽祖父シャルル3世の時のことである。
話のついでに、この物語の現在の主人公である小ルイス、ルイス3世の「ルイス/Louis」とは古高地ドイツ語の「hluodowig」を起源とされる。「名高い」という語と「戦い」という語を組み合わせたもので「高名な戦士」という意味で、戦いと勝利の神オーディンに由来するものと考えられるとしている。

その名を継ぐルイス3世・ド・ブロワは、1570年台のイングランドとの戦争には勝利したものの、戦死した父の後を継いで、国庫の破綻、安定度の崩壊、反乱の跋扈を解決する間に20年余りを費やし、フランス国王と革命政府を滅ぼすまでにさらに十数年を使っていた。

皇帝との確執

フランス国内にはすでにプロヴァンス伯に従わないまでも歯向かおうと思う者は少なかった。力による王朝交代劇はすでに終盤に差し掛かっていた。

しかし、帝国という視点、つまり現皇帝バイエルン大公家の視点で眺めた場合、プロヴァンスは辺境で拡大しつつある目ざわりな一勢力で、同時期に勃興したプロイセンとともに、東西の新たな脅威として早いうちにその勢力を削ぐか、丸めこんで味方に引き入れるかする必要があると考えられていた。後から思えば、皇帝マクシミリアン1世・エマヌエルとルイス3世・ド・ブロワの長い長い闘争はこの頃から始まっていたのだろう。

1515年3月も終わろうという頃、プファルツ選帝侯から侮辱を受けた。かの国が何故そんな事をするのか、ルイス3世は理解に苦んだ。しかしプロヴァンスももはや大国である。いわれのない侮辱を受けて放置しては国の威信にかかわる。いきり立つルイス3世にルネ・コケレルは、プファルツ選帝侯の陰には皇帝がおり、プロヴァンスが餌に食いつくのを待っていると注意を促したが、ルイス3世はプファルツを討つと宣言。
4月14日、プロヴァンスは正式にプファルツに対し宣戦。スイスとロレーヌが同盟の義務を果たし、プロヴァンス軍の露払いを務めた。両国の軍はプファルツ選帝侯の軍をかの国の領内で撃滅する。しかしオーストリア領を通過した皇帝軍はスイスを占領。スイスは皇帝に屈して降伏。プファルツに到着したプロヴァンス軍は、スイス軍の占領したエルザスを再度強襲で占領。1516年5月20日にはプファルツ全土を占領し、選帝侯は降伏。ルイス3世は領土割譲も考えないではなかったが、飛び地を領することになるので、プファルツ、ヴォルムス、エルザスを安堵し公爵(属国)として封じた。6月には皇帝に対する反撃が開始され、バイエルン公国領内へ4万のプロヴァンス勢が侵入した。9月10日にはバイエルン全土を制圧、皇帝は全ての条約と領有権を破棄させられるという屈辱を受け入れるしかなかった。

皇帝が敗れた。この報は帝国中に知れ渡るだろう。皇帝は窮地にたたされていた。このまま放置しては皇帝と大公家は諸侯から見放されてしまうだろう。別の選択肢でプロヴァンスに当たらなければならない。皇帝位を失えばバイエルンは中規模の諸侯でしかないのだ。オーストリアに三方を囲まれたバイエルンの将来は、皇位の維持継承なくして考えられなかった。

1518年プロヴァンスはプロテスタントの武装蜂起に対して「対抗宗教改革」を採用。さらに「礼拝統一法」可決して対決姿勢を明確にした。プロテスタントとの対決はすなわち皇帝と教皇との関係修復つながった。プロヴァンスに対する破門と武力闘争をたくらんでいた皇帝に対するルイス3世の外交的勝利といえるだろう。

卵を割らなければ、オムレツは作れない

フランスに王者が君臨しなくなって6年になる。
ヴァロワ朝と革命政権を滅ぼした小ルイスはすぐにフランス王位につくであろうと、小ルイス本人以外のすべての人々が考えていた。
しかし、小ルイスはそうはしなかった。恐れていたのだ。父の用意した舞台で演目を終えてしまったら、そのあとどうすればいいのだろう。いい歳を過ぎた男の言う台詞ではない。
「人生は、私たちが人生とは何かを知る前にもう半分過ぎている。」とは19世紀末英国の詩人ウイリアム・アーネスト・ヘンリーの言葉だが、1461年生まれの小ルイスはこの年既に59歳。これまでの人生、小ルイスには目的というものが無かった。フランス王家を打倒するというのは彼自身が目的としたものではなかった。フランス王家から圧力を受け続け、そこから脱するために邁進してきたプロヴァンス伯ブロワ家に生まれた彼の血統故の義務であった。
もちろんそれを人生の目的として生きることもできたであろうし、この時代の多くの人々は代々受け継がれてきた仕事を何の疑問もなく引き継ぎ、毎日を精いっぱい生きることを人生の目的としていた。
しかし、小ルイスはそうはしなかった。できなかった。小ルイスは封建君主としての義務は果たしてきたし、父から受け継いだ領地を広げてもいた。ブロワ家にさえ生まれてこなければ、後世の歴史家にそれなりの評価を受けるにたる実績を残してきたと言えるだろう。いや、むしろ義務の遂行こそ彼の人生の目的とあきらめていたのかもしれない。それゆえ、小ルイスは恐れていた。その恐れこそが、他人に彼を小ルイスと言わしめるゆえんであって、彼が40年の在位中ずっと抱えてきたコンプレックスの原因ですらあったということに気がつかない彼ではなかったが、やはり恐れていた。小ルイスは生涯「偉大な魂」を持ちえないのであろう、自らそう思い6年間最期の一歩を踏み出すことができなかった。戴冠を最後の義務として遂行してしまうことを恐れつづけた。

暦が1519年2月になったころ、東から使者がやってきた。

皇帝推戴状況1419年3月

神聖ローマ帝国の選帝侯に推戴された小ルイスは、正直意外であった。数百年前から帝国の一部であったプロヴァンスの支配者であり、帝国内でオーストリアに次ぐ勢力をもつに至ったプロヴァンス伯に声がかかることは不思議ではないのだが、近年の皇帝との戦争は記憶に新しい。さらにルイス3世はフランス王となる準備をしている、とヨーロッパ中で知らぬ者はいないはずだった。小ルイス本人を除いては。
使者への返答は後刻として、使者をねぎらわせ、小ルイスは退席した。
一人になると小ルイスは考えた。フランスに王が不在であるうちに、つまりプロヴァンス伯がフランス王になる前に帝国に取り込み、あわよくばフランスという王国を未来永劫再生させないことで、帝国の優位をヨーロッパに示すことを欲しての今回の選帝侯位推戴であろうことは理解できるが、何かが引っ掛かっていた。神聖ローマ帝国の諸侯であって、フランス国王とならんとする己の立場。父ならどうするであろうか。偉大なオックの英雄大ルイスならば。一も二もなく飛びついただろうか。どうだろう。父はプロヴァンスを守るため、オックの文化を守るために、そうそれを目的として戦い続けてきた。父はオックの王たらんとしてフランス王に対抗し王を名乗ったのではなかったか。選帝侯位など考えたことがないだろう。
小ルイスはふと、気がついた。そうか、そうだ、そうなのだ。

1519年2月、聖ウァレンティヌスの殉教の日にルイス3世・ド・ブロワは神聖ローマ帝国選帝侯に即位した。小ルイスの周りの者は、選帝侯におなり遊ばされてから若く成られたようだ、と噂した。そう言われるほど小ルイスは覇気に満ちていたのだろう。19歳で家督を継いで以来、生まれながらにして背負ってきた義務を遂行するために生きてきた彼が、還暦(とは西洋では言わないな)を前にして初めてふっ切ることができた。自分がしたいことをしようと思うことができたのだ。
成人さえすれば長命なブロワ家の人間といえどもこの後どれだけ生きられるかわからない。しかし、その残りの人生を彼は目的のために邁進するつもりだった。
まずは、父から受け継いだ扉のカギを使う決意をした。

  • 他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、それは恥ではない。 しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは立派な恥だ。ラポック(探検家)

ブロワ朝フランス王国の成立

成聖式

ランスのノートルダム大聖堂:出典ウィキペディア

1519年12月25日、生誕祭のランスは厳かな雰囲気とは言い難い状況だった。オック人というものはこうも騒がしいものなのか。ランスの住人達は、先王朝のときの儀式の前日と現在を比べてそう思った。
成聖式はフランク王クロヴィスの洗礼の地であり、歴代フランス王がその王権の根拠をその場所に保管された聖油に求めた地、ランスのノートルダム大聖堂とした。
現大聖堂は、1210年に火災で消失した教会の代わりとして、1211年5月6日に最初の石が置かれ、内陣のある東側部分から着工された。1233年から1236年には、建造資金源として課された重税に苦しんだランス市民によって、大聖堂の工事を率いる高位聖職者に対する反乱が起こされたが、内陣は13世紀半ばに完成され、13世紀末には西側部分以外の大部分が完成した。その後、百年戦争中の1359年から1360年の間に英国によって包囲されるなど、一時作業が中断したが、14世紀には未完成だった西側も完成した。ただし、ファサード部は建設が遅れ、二つの鐘塔は南側が1445年、北側が1475年にようやく完成を見た。(ウィキペディア)

聖別式の行われた大聖堂内

高僧が新王の頭に聖油を注ぎ、神への奉仕を誓わせる儀式が主体となる。このため、イギリスでは聖別式(consecration)、フランスでは成聖式(sacre あるいは sacre de roi)といわれた。成聖式(聖別式)の起源は、『旧約聖書』の「列王紀下」に記された故事にある。同書には、ソロモン王が王冠を受けたことが記され、また、イスラエルとユダヤの諸王が成聖式を行ったことが記されている。「油塗られた者」(ヘブライ語の「マスィアッハ」)は「王」の婉曲的表現となり、後には救世主(ラテン語の「メシア」)を指すようになる。(ウィキペディア)
フランスではイングランドにこのランスが征服されて以来その慣習は途絶えていたが、ランスを支配下に置くルイス3世はランスでの成聖式を復活させた。
ルイス3世は居並ぶ諸侯や高僧らの前で、教皇の代理人ドーフィネ枢機卿ド・ロシュモルから聖油を受けた。ブロワ朝フランス王国が法的に成立した瞬間であった。

小ルイスは副伯シャルルをプロヴァンス公とし、次いでフランス王太子とした。このため、その後ブロワ朝では王太子をプロヴァンス公と呼ぶことになる。

フランス統一へ

皇帝推戴状況1419年12月

国王となった小ルイスは多忙だった。彼の目的は彼の人生の晩年、残りの人生で果たすことが可能なのだろうか。大ルイスが行ったことを越える、その方法が分かったのだ。
フランス王になるのは父の事業の完成であり、ここからが小ルイスの出発点だったのだ。そのことに気がついたのがいささか遅かったのが、今となっては彼のただ一つの後悔であり不安要素だった。彼に残された時間はあまり多くなかった。まずは真の意味での再統一を目指すことになる。

フランス王となったことで、国内の未回収地域問題についてのめどが立った。つまり、トゥールーズ伯、ノルマンディ公、バル大司教の割拠する州の領有権を国王として主張する権利を得たのだ。ロレーヌ公爵(属国)はブロワ朝に対して臣従を誓っていたが、ロレーヌの領有権もブロワ王家は所持している。ルーションとブラバンに対しても領有権をもっていた。エノー伯、ブルゴーニュ公、フォア伯さらに外国勢力であるスコットランドが支配するブルターニュ半島に対しての領有権の法的根拠はいまだ確立していないが、いずれ更に中央集権化し王権を強化する過程で処理できるであろう。
まずは、今ある問題を解決しなければならない。

マテュー・デロンの軍制改革

15世紀中葉のベール・ド・ヴァルヴェルの軍制改革以来いわゆるメントアットアームズと呼ばれる戦士階級をを中心とした歩兵部隊を使用してきたプロヴァンス=フランス軍であったが、陸軍改革論者マテュー・デロンはパイクを使った方陣戦術にすることによって、歩兵部隊の攻防力を飛躍的に強化することに成功した。帝国でいうランクツネヒト制である。合わせて、カルヴァアリン砲を採用。従来の青銅砲を射程で圧倒、アウトレンジして一方的に砲撃を加えることを期待された。
デロンの陸軍改革によって統一への道はまた一歩前進したと言えるだろう。

第一次統一戦争

1520年1月22日、ノルマンディ、トゥールーズ、バルに対する大義名分「再征服」をえた。
領有権を持っているところからひとつづつ潰していかねばならない。
バルに対する大義名分「再征服」を行使するとトリアー選帝侯が同盟を履行し参戦してくる可能性がある。しかし、トリアー選帝侯大神官ヨーハン6世は小ルイスが国王となった途端に皇帝推戴を取り消したような曲者である。
ルイス3世は選帝侯、皇帝を力でねじ伏せる決意をした。

1520年の戦役

1月末に兵力の移動を完了したフランス軍は満を持してバルに対し攻撃を開始しようとしていた。しかし、エノー伯とブラバント公に先を越されバルの領する再征服の対象地域をことごとく先に占領されてしまったのだ。
ルイス3世は矛先をノルマンディに変更。2月1日に対ノルマンディ宣戦をするが、今度はバルにコーを占領され、ノルマンディは完全併合されてしまう。
3月3日にノルマンディは滅んでしまったのにエノーとブラバントとは戦争状態となっている。フランス北部諸州の所有者は目まぐるしく変わっていた。現状、エノー及びブラバントとの戦争は不毛であり大義名分もない。このまま戦争を続ければ両国からの領土割譲も不可能ではないが、悪評の急増を嫌ったルイス3世は9月20日に講和。フランスとの領有権の重複はこの機会に取り除かれたが、国内の貴族らの不満は増大していった。北フランスでのフランスが領有権を持つ地域がバル一国に絞られた結果、次なる戦争が発生するのは必然であった。

1521年の戦役

1521年の戦役

1月7日、フランス北部での紛争が小休止に入ったところで、ルイス3世はバル大神官ニコラ1世に宣戦。コー、ピカルディー、カンブレーの返還を要求。
1月8日皇帝とトリアー選帝侯がバル防衛を宣言し宣戦。
3月20日プファルツの戦いでマルティ・ディロン将軍がバイエルン大公の至宝マクシミリアン・モラヴィツキー将軍を壊滅。
4月30日、全土を占領された大神官ニコラ1世はフランスとの単独和平に応じ、カンブレー、ピカルディー、コーの割譲と賠償金1050ダカットの支払いを求めた休戦文書に署名した。

トリアー大司教ヤーコブ1世は皇帝の軍の到着前の9月28日、フランス王からの休戦交渉を開始したい旨を伝える使者の訪れにトリアー大司教領の滅亡を覚悟していた。しかしフランス王はヤーコブにフランス公爵としてあらためてトリアーに封じ、現状の領地は安堵するという。ただし条件があった。ヤーコブは彼のもう一つの身分、選帝侯としての権利をフランス王のために行使することを誓約させられたのだ。

トリアー選帝侯の降伏後、皇帝はフランスとの戦争の目的を失っていた。11月3日にフランス王からの休戦のための使節が到着すると、痛み分けという形で矛を収めた。バル、トリアーをフランスの影響圏に取り込まれた形で休戦したことにより、皇帝はまたしても戦略的な敗北を喫したと、帝国諸侯に対する影響力を弱めていった。

戦後、ルイス3世はバル、トリアーからの賠償金で全土に裁判所を建設することを発布。王の司法権を拡大していった。

1522年の戦役

ルイス3世は休むことを嫌っていた。むしろ、余命を考えるとき、彼にとって休止はすでに悪であった。皇帝との和睦後、フランス軍は文字通り休む間もなくトゥールーズ伯との国境へ移動していた。トゥールーズ伯はサボイ伯と同盟しているので、兵力の一部はサボイ国境に配置された。

1522年2月1日、「測量単位を統一」するための法整備完了をうけて、ルイス3世はフランス全土に新法を施行するよう命じた。翌2月2日、再配置と兵員の補充を終えた軍に進軍を命じ、フランス軍はトゥールーズ伯領へとなだれ込んだ。
2月3日、サボイが同盟を履行。サボイ国境の軍がサボイ領へ突入。
2月14日トゥールズの首府ベリゴールのベルジュラック占領。
3月3日、トゥールーズ伯ソーソン・ド・ベリカール・ド・ブルボンが降伏文書に署名。フランスに完全併合されたブルボン家は滅亡した。
3月5日、孤軍となったサボイ伯はサヴォアの割譲とニースの領有権放棄、コーンウォール、との条約を破棄及び賠償金125ダカットの支払いに応じ、フランスと休戦した。(累積悪評30.4)

1522年初夏のフランス国内は建設ラッシュだった。各地で建設中の裁判所に加え、工房や大聖堂が次々に建設された

第二次統一戦争

新たな国策として「新世界探検」を再度採用。100年ぶりに探検隊が組織されようとしていた。しかし、フランス国家再統一への熱はブロワ王家のみならず、全国的な情熱をして拡大しつつあった。次なる解放目標をモルビアンとして熱く大きくなっていった、失われてたフランスの回復を求める世論は、1526年1月に最高潮に達していた。

ブルターニュ紛争

1526年4月4日、世論に後押しされたルイス3世は、モルビアン解放を求めて対スコットランド宣戦。スウェーデンが同盟に従ってスコットランド側に立って参戦した。

開戦間もない4月中旬、カレー沖のドーバー海峡でスコットランドの海軍と第一艦隊が遭遇。スコットランドの上陸船団にフランス主力艦隊が惨敗。この戦いで13隻の大型艦を失った。
この大敗の結果スコットランド本土への上陸作戦に遅滞を来しスコットランドと休戦したののはモルビアンをはじめとしたブルターニュ半島諸州を占領してから2年近く過ぎた1528年の夏のことだった。ブルターニュの独立とモルビアンの割譲を認めさせた休戦で国内はわきかえったが、海軍の再建には数年を要すと計算された。

スコットランドとの戦争には勝利し、ブリテンの勢力を駆逐していったルイス3世であったが、この戦争の間にまたしても不幸があった。「愛された継承者の死」は突然であった。小ルイスのような年老いた者にとっての我が子の死は計り知れない。小ルイスは未だ屈しないスウェーデンとの戦争に没頭することによって、その衝撃を老いた体と頭脳に忘却させようとしていたのかもしれない。

第二次ゼーラント沖海戦

スウェーデンは1529年4月4日の第二次ゼーラント沖海戦で、再建なったフランス海軍によって打ち破られ、その威を失いつつあった。
しかし、北欧最強のスウェーデン海軍は壊滅したわけではなかった。
10月にはいってスウェーデンはアゾレス諸島を強襲。アゾレス救援のためにフランスは上陸部隊を伴った大艦隊を差し向けたが、スウェーデンはそれを察知し、カスティーリャ北方のフィニステレ湾で待ち伏せた。
フィニステレ湾海戦は戦闘艦の数こそ同等であったが、再建されたフランス海軍の輸送艦は新型のフリュートで、スウェーデンの主力であるガレーよりも戦闘力は優れているとされていた。身重ではあったが、フレーズ・ド・シェビニ提督のフランス艦隊の圧倒的な火力で、戦ってみればフランス海軍の圧勝だった。

フィニステレ湾海戦戦

アゾレス救援に成功し、4個連隊と4隻の輸送船を失い、1530年には散在する艦隊のほぼすべてを撃沈もしくは拿捕されたスウェーデンは制海権を完全に失い、本土上陸こそされていなかったが、海賊の跋扈とフランスの封鎖によって全ての港を封鎖された。スウェーデンは賠償金の支払いを約しフランスと休戦した。

戦争には勝利したフランスであったが、1532年2月6日にカスティーリャがフォワの玉座を継承。南西部のフランスを回復するためには、大国カスティーリャとの対決が避けられない状況となっていた。
フランス統一のための戦いは、まだまだ長い戦いになりそうだった。

怪文書戦争

1532年3月下旬、ルーブル宮の執務室ではエステーヴ・ド・ゴンベール、ルネ・コケレル、ギィ・ディットらの外交官僚の大物が、ルイス3世に呼ばれていた。
ルイス3世は、「帝位獲得」のための算段を各自に求めた。
現状は8人の選帝侯のうちの、プファルツ及びトリアーの両選帝侯をフランス公爵として取り込んでおり、自らの票を合わせて3つ票を獲得していたが、帝位を確実に手に入れるためにはもう1つほしいところだった。時間をかけることができるのならば、このまま無理をせずともいつかは帝位を獲得することができるであろう。しかし、齢70を越える小ルイスには時間がなかった。

ヴュルツブルクに対しての大義名分を作る。3人の外交官は諜報機関に命じ、怪文書を用意させた。アンスバッハとの同盟と皇帝のちょっかいは既に不安要素にならないと判断された。

1532年4月7日、帝位獲得のための戦争といわれる戦争が始まった。何も落ち度のないヴュルツブルクに対しての侵略行為として内外から批判を浴びることになるこの怪文書戦争は、フランスの圧勝だった。5月24日にはヴュルツブルクは降伏。ヴュルツブルクはフランス公爵として封じられ本領は安堵。アンスバッハ、皇帝ともその日講和となった。
結果、ルイス3世は選帝侯3名をフランス公爵とし、自らの票を合わせて皇帝選挙での過半数の票を獲得することに成功した。

第二次ブルターニュ紛争

1530年台後半のバルテレミー・ド・ヌフシャテルによる五大湖発見はフランスの入植活動を新大陸の奥へ奥へと広げていった。入植者は増加傾向にあり、新大陸北部においてはカスティーリャの支配領域を上回る属州を治める植民地大国としてより多くの金と兵と時間を費やさねばならなくなりつつあった。

そんな中、1536年2月23日、新たなブリテン勢力がフランスに上陸した。ブルターニュがアイルランドと人的同君連合を形成ブルターニュはアイルランドの支配下に入った。ブルターニュ地方はもともとケルト文化圏であり、オックよりもむしろアイルランドの人々のほうが親しみやすかったのかもしれない。しかし、それを看過していてはいつまでたっても大陸とブリテン諸島の紛争の原因を払しょくすることはできない。しかし大義名分を有さない現状では手出しできない。今できることを先に処理するしかなかった。

ベルグがフランスに転向

1540年12月23日、バルに対し国境摩擦を理由に宣戦。翌年2月7日にヴァランシエンヌ割譲で休戦。
1541年5月7日、ブラバンの領有権を主張してブラバントへ宣戦。翌年9月13日休戦。ブラバントから、アルトワ、フランデレン、アントウェルペン、を割譲させ、ベルグとゼーラントの領有権を放棄させた。また、ブラバントの同盟国スコットランドからはアーマーを割譲させた。(累積悪評25.8)

両戦役によって、ゼーラントとは地続きとなり、北部での兵力の分散を抑えることができた。具体的には20個連隊の余剰兵力を新大陸にスウィングさせ、新大陸の兵力バランスを優位に保つことができるようになった。兵力バランスがこちらに優位であると、周辺国との戦争にカスティーリャが介入してくる可能性が下がる(のかな?)、つまり、再征服戦争をしやすくなると考えられた。

人生とはつまり悪い冗談である

小ルイスは(なんと!)80歳になっていた。フランス王になり、国土回復を謳って戦場を諸将と共に駆け巡ったのは還暦を迎えてからだった。この歳になっても戦場では比類ない決断力と勇猛さを見せるが、生来考えすぎるところのある小ルイスは、正妻の子でないアンリの即位が物議をかもしだすであろうことをうれいていた。世継ぎのアンリはもう家督を譲ってもいい年頃になっていた。ブラバントとの戦争が終わり、リグーリアでの大規模な反乱が飛び火したニースの始末をつけた小ルイスは、散発的な反乱を鎮圧するのは若い将軍たちに任せ、彼はパリにもどって政務をとらねばならない。だが、少しくらい寄り道をしてもいいだろう。小ルイスはエクスに寄って帰るつもりだった。エクスには我が子アンリがいる。正直なところ疲れ切っていたところでもあったのかもしれない。

久しぶりに小ルイスはエクスの宮殿の窓から市街を見下ろしていた。小ルイスの時代、エクスは曽祖父のシャルル3世の頃の眺めとは大きく変わっていた。エクスはブロワ家の統治以来フランスの多くの地域にとっての中心地だったが、ブロワ王家がパリに移ってからはその成長は速度を緩めた。しかしエクスはパリに次ぐ規模の都市に成長していた。
中でも目を引くのは、街の中央に見える巨大な建築物で、およそ100年前に建設された、街の守護聖人マグダラのマリアに捧げられた「聖マリー・マドレーヌ大聖堂/Cathédrale de Saint-Madeleine」。今では街の象徴となっている。小ルイスがプロヴァンス伯となったのも聖マリー・マドレーヌ大聖堂だった。

窓外を眺めながら、小ルイスは考えた。このままパリへは戻らずにここで政務をとろうか。オック語に比べて若いフランス語はこの頃まだ語彙が少なかった。小ルイスにはフランス語を話す者たちの話を聞くのは少々気力が必要だった。それに、息子のアンリはこの街で育てていた。パリでは何かと敵意のある視線と本当の敵意をもった親族から我が子を守らんとしたためである。
しかし、エクスで政務をとるとなると、それはそれでまた大事になりそうだった。すわ遷都かと文武の諸官が右往左往する様が目に浮かぶ。それはそれで面白いな、と自分の想像に少しだけ笑ってしまった。
父の代であれば遷都などと言い出せば諌める者もいたであろうが、中央集権化、王権強化を進める王朝の創始者に対し、面と向かって異論をはさむ者は今は限られている。その者たちすら、一度拒絶したら二度と同じことに関して諫言はしない。

1542年10月30日、15歳になったアンリのお披露目を開催。同時に全国的な祝祭を挙行した。
プロヴァンスの勢力がこの王朝の支配者である。首都はいつでもエクスに持ってくる。次代の王はかならずプロヴァンス公となってから即位する。現プロヴァンス公をフランス王と同じように崇めよ。
その年、アンリに長子が誕生した。小ルイスにとっては初めての孫である。名を付けてくれと頼まれ、小ルイスは、小アンリと呼ぶように言った。シャルル、ルイス、シャルル、ルイス、フランソワ、シャルルと6人の子を亡くした。亡くした子と同じ名前を付けることをきらったのだとも、自ら小ルイスと呼ばれてきたことへの諧謔だとも言われるが、真実は分からない。

小ルイスは結局エクスで政務をとることとした。傍らでは、王太子アンリが政務を代行することが多くなっていた。ルイス3世の生前から共同で政務をしていたということが、アンリへの王位継承(要求権弱い)をスムーズにすると考えたからであったが、高齢であった彼は、プロヴァンスの気候がやはり体に優しかったのだろう。それに、国内のプロヴァンス、イル・ド・フランス、アントウェルペンの3拠点での交易収入は300を越え、その資力と戦時賠償金を使って全ての州への裁判所と按察署の建設、探検と植民も軌道に乗った。陸軍はその規模はついにオーストリアを抜いて世界一となっていたし、弱小と言われた海軍もカスティーリャ、ポルトガルと肩を並べるまでの規模になっていた。

アンリの王位継承は物議をかもしだすと予想されていた。エクスに新設した師団に、プロヴァンスの守護聖人マグダラのマリアの名を付けて王太子の親衛隊とした。聖マドレーヌ騎士団である。後に国王の親衛騎士団として、聖母マリアの名からノートルダム騎士団も新設される。両騎士団はフランス最強の常備兵力としてその武名を鳴らすのだが、それはまた後の話である。

小ルイスはエクスの宮殿で81歳の新年を迎えていた。「帝位獲得」のための準備はとっくに終えていた。あとはマクシミリアン1世・エマヌエルの死を待つだけだったのである。マクシミリアン1世・エマヌエルは1473年生まれの74歳。「帝位獲得」の最期の勝負が長生き競争になるとは思ってもみなかった。

1546年2月10日、小ルイスはその生涯を終えた。唐突な死だった。朝食に現れない小ルイスを不審に思ったアンリが寝室を見に行かせると、既に老王は亡くなっていた。ヴァロア朝に引導を渡し今まさに帝位に手が届くところにいた王は、「帝位獲得」の最期の勝負敗れた。小ルイスは最後にどんな夢を見ていたのだろうか。彼の寝顔は笑っているかのようだったと伝えられている。

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悲運

王となるために

ルイス3世逝去を発表し、王位につくことを宣言したプロヴァンス公アンリ2世はフランス王位につくためにランスのノートルダム大聖堂へ向かわねばならない。しかし、継承には物議を醸し成聖式を行なわせまいと、僭称者ニコラ・ド・シャンマルタンがドーフィネで武装蜂起しアンリ2世の前に立ちはだかった。
アンリはエクスに駐屯する聖マドレーヌ騎士団を率いて、過去彼の祖先が何度も使った道を北上した。彼も王となるために。

フランス王として戴冠を果たしたアンリはさらなる国力の増強につとめた。兵力増強だけが国力、ひいては国威を多たらしめるものではない。芸術院、兵器工場などの大型施設を建設し、自立した植民地を準州として統合すると、そこへも裁判所、工房、教会を建設した。また、国内の道路網、郵便網の整備も精力的にこなしていった。

1547年12月12日、ファスティニールを支配していたジョン・クリントン率いる第一カソリック軍がフランスへの帰属を申し出、ファスティニール州が合流した。アンリはすぐに道路網の整備と裁判所の建設を決定した。

五大湖沿岸への植民が開始されたころ、120年に渡ってリグーリアに干渉してきたイングランドが撤退。ジェノヴァに王政が復古した。しかし、ニースではジェノヴァの息のかかった一揆が続発。新生ジェノヴァはフランスに敵対的であった。
1548年4月2日、アンリは「ジェノヴァを併合」という世論に後押しされ、ジェノヴァ王に宣戦布告。ニースから20000の兵で攻め込み、5月5日にはジェノヴァは降伏、フランス領として併合された。
ジェノヴァ併合の手際は当初物議をかもしたアンリの即位以来の評価を一変させた。

1549年1月8日、フランドル地方のプロテスタントが武装蜂起、宗教的な狂信者に続いてナショナリスト、愛国者が相次いで蜂起した4カ国が領有権を主張するアントウェルペンの討伐は政治的なデモンストレーションでもあると、自ら軍を率いて出かけたアンリが消息を絶った。ルーブル宮は不測の事態で大混乱となっていた。

1549年1月9日、摂政評議会が招集され、回収された国王の亡骸を弔うとともに、新王アンリの即位を発表した。逝去したアンリ2世は享年22歳、新王アンリ3世はこのときわずか4歳であった。


前回の最後に今後どうしようかと考えていたんですが、結論はこうなりました。
プロヴァンスで続行。しかし、プレイしながらある可能性についておもいつきました。
今回のAARの前半部分は、その思いつきを実験しながらだったので、数回リロードしています。
リロードの内訳は、前回の終了時点ですぐにフランス王になると、神聖ローマ帝国から何故かはじき出されてしまい、皇帝の芽が無くなってしまいます。それ自体は、ほう、なるほど、という程度のことなのですが、どうやったらフランス王であり皇帝であることができるのだろうと考えました。
選帝侯になると帝国から抜けたくても抜けれないことを思い出しました。もちろん、選帝侯位を剥奪される可能性はありますが、選帝侯になってからフランス王となり、その後に皇帝になるというのはどうだろう。やってみたいと思いました。
実験終了後は1515年のセーブデータでやり直しています。
いくつかの実験をしていた時の方が有利だったり、面白そうだったりしましたが、そのまま続行です。

今回のお話では皇帝にはまだ成れていませんが、神聖ローマ帝国の構成国であり、フランス王であり、尚且つ次代皇帝の最有力候補というところまではこぎつけました。

もうすっかり「属州がいっぱい」ではないですが、もう少し頑張ってみたいと思います。

 

à suivre


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Last-modified: 2010-07-06 (火) 22:29:07 (3215d)