L'État, c'est moi

16世紀後半の概況

16世紀半ばの欧州

西欧

イベリア半島のカスティーリャ、ポルトガル両国との国境はピレネー山脈でほぼ確定した雰囲気がある。文化的にもリージョンとしても一番問題のない形で収まったと言える。東部国境はライン地方の属国と敵対する小国家が入り乱れ、国境線として確定するには至っていない。アルプス方面でもミラノ、サボイが健在でイタリア半島への入り口はその両国とオーストリアに塞がれた形である。
帝国東部ではブランデンブルク、プロイセン、バイエルン、オーストリアがほぼ小国家群を分け取りしてその領域を広げていた。
ブリテン島はイングランド、スコットランド、ウェールズが覇権争いを続け、アイルランドに新大陸に先乗りされてしまっている。

新大陸

五大湖沿いに西へと植民を続けるフランスはカスカキアまで進出。(プレイヤーがミスクリックで植民地となった)チティマチャはカスティーリャ領を挟んで飛び地である。カスティーリャは南北大陸で順調に征服と植民を繰り返し、太平洋岸への足掛かりも得ていた。ポルトガルもカリブ海方面で勢力を伸ばしつつあった。仏西葡の植民地獲得競争に参入してきたアイルランドはグリーンランド経由でウナマキクに到達。先住部族はヒューロンとマヤが健在だが、西葡の両征服国家に境を接している。

東方

スカンジナビア半島全域を領するスウェーデンはオーストリアとキプチャク汗国の戦争に乗じ黒海に領土を得た。チェルソンを足がかりにグルジアから領土を奪い、コーカサスへと勢力を拡大している。スウェーデンに一敗地にまみれたとはいえ、グルジアはオスマンに代わって小アジアに勢力を伸ばしている。オーストリアの小アジア侵攻が歩みを緩めたのは、東方キリスト教の雄グルジアの成長のためである。もう一方のギリシア正教を国教とするロシアは、オーストリアにキプチャク汗国の領土をかすめ取られた形で大平原の南へは進めず、西にはプロイセン、スウェーデンが立ちふさがり、陸路を進めず海路ハンザ、デンマークを征服。バルト海交易を牛耳っていた。

東洋

夏(シア)、秦(チン)、満洲、朝鮮によって南京に追い詰められたかつてのスーパーステーツ明は滅亡寸前。秦はオイラトを滅ぼしたモンゴルを破り、中原から草原を支配。明に代わる次代の東洋の支配者の最有力候補である。
インドシナ半島にはカスティーリャが進出、太陽の没さない帝国は完成されつつあった。

宗教

ドイツ南部及び低地諸国の改革派、アイルランド、スコットランドのプロテスタント国教化は徐々に進みつつあったが、全体として宗教改革の進行は緩やかである。

ルイス4世の治世 1561年~

50%,パリ市街

皇帝となったブロワの当主は、諸大公を「わが盟友」と呼んで対等に扱ったハインリヒ1世のようにはいかなかった。オットー1世のようにあくまで上に立つ者としての姿勢を貫かねばならない。それは平らかな道ではない。強圧的な支配には不満を持つ者が多く現れ反乱が続発しするかもしれない。それこそオットー1世の治世のように。その故事を知らぬわけではないが、皇位継承が選帝侯の支持獲得によるものである以上、帝権の安泰のためには選帝侯の支持は必要である。しかし、その支持は必ずしも好意的だある必要はない。必要数の選帝侯を武力制圧することは、是非ともしておかねばならない重大案件であると考えられた。

ルイス4世の即位から2年後の1563年11月10日、ルーブル宮に衝撃的なニュースが飛び込んできた。オーストリア大公アルブレヒトがブラバントの玉座を継承したというのだ。今やオーストリアはバルカン半島から小アジアへの足がかりを作り、東はカザン、サマラを支配しキプチャク汗国をウラル山脈へ追い詰め、帝国内ではついにブラバントの玉座を継承して黒海、エーゲ海、アドリア海に続いて北海に足がかりを作るに至った。帝国での地位を盤石のものとする為にはオーストリア大公との対決は避けて通ることはできない。相手も同じ考えらしく、出鼻から強烈なパンチを見舞ってきた。

12月7日、ブラウンシュバイク選帝侯がミュンスター伯に攻撃されているとの報告が入った。しかしこれには対応することができず、皇帝の権威を低下させてしまうこととなった。

北イタリア問題

大帝国オーストリア

「北イタリアにおける我々の立場を維持するためにはミラノをも含むさらなる領土を確保しなければなりません。(「国威」が10.00ポイント増加。)」
長年の北イタリア、スイス問題について結論を出すべきであるという議論が交わされ始めたのは1565年のことだった。同領域を支配するのはミラノ僭主だったが、東のオーストリア、西のフランス(プロヴァンス)の成長によって、ミラノは東西両大国の緩衝地帯としての役割を担うという一点のみを存在理由として、国の独立を許されてきた。しかし、破門されたミラノに対してオーストリアの容赦ない攻勢によって、シュヴィーツからロマーニャ、パルマに至るミラノ領の東半分を奪われ、フランスはミラノ領を通過してベネチアへ至る陸路を失ってしまった。こうなってはミラノに緩衝地帯の意味合いは薄くフランス王シャルル5世はミラノの残り西半分をオーストリアに奪われる前に予防占領を行うことを決意した。
1568年3月1日、フランスはミラノに対して宣戦を布告。同国へ攻め入るとともに、ミラノの唯一の同盟国アクイレイア選帝侯とも戦闘状態に突入した。フランシュ・コンテ、ブレジア、リグーリアの3方向から攻め入ったフランス軍は2カ月でミラノを完全に占領。
1568年5月15日にミラノからベルンを割譲させて和睦したが、アクイレイアがチティマチャ植民地を外交交渉中の結果が出る直前に占拠。アクイレイアにチティマチャを与えることになってしまった。この結果にフランスの世論は沸騰した。しかし、停戦協定を結んでしまってはあとの祭りである。
ミラノ征服にはどのみちもう一度戦争をしなくてはならない。その折にチティマチャを奪ったアクイレイアにも一矢報いねばならない。

1569年12月19日に領有権を主張して行われたブルゴーニュ再征服戦争の結果、同国を併合。
1572年1月1日、ブラウンシュバイクによるオスナブリュック再征服戦争に参戦し、翌年までに帝国北部の諸侯を制圧。

そして、1573年3月24日、第4次対ミラノ征服戦争は満を持して停戦協定明けに開始された。ロンバルディア占領は開戦から数週間で終了したが、ミラノはマルタ島を領有していた。同島の占領に数カ月を費やすが、11月4日ミラノは降伏。ミラノ僭主はマルタ島を領有する小領主に転落した。新大陸ではチティマチャをアクイレイアから奪還。輸送艦隊を地中海へ呼び戻し、ヴェネツィア湾を封鎖。トレヴィザーノ以外は領有するつもりはなかったが、アクイレイア全土を占領し、かの国の艦隊をヴェネツィア湾に引きずり出し殲滅した。

ブラウンシュバイク戦争

ブラウンシュバイク選帝侯のミュンスター侵略に対し、皇帝としてルイス4世は対処した。ブラウンシュバイクとの同盟関係を解消し、翌月に宣戦。1574年2月1日、フランスはブラウンシュバイクと戦争状態に突入した。ブラウンシュバイク側にはスコットランドが参戦し、戦争自体は翌1575年8月15日まで続いたが、ブラウンシュバイクに対する征伐は開戦から2カ月で終わっていた。ブラウンシュバイク選帝侯はハノーヴァーのみを領有することを許され、オスナブリュック、ヴェストファーレン、ブランズウィックはフランスに編入された。

ブレーメン戦争

1575年2月1日、ブラウンシュバイクはブレーメンに完全併合されてしまう。ルイス4世は直ちにブレーメンに対する帝国介入を発動。ブレーメンの同盟国バイエルン、ミュンスターとも戦争状態に入った。ミュンスターはフランス北部軍がハノーヴァーへ向かう途中で占領。4月にはブレーメンからハノーヴァーを割譲させた。しかし、バイエルンが同盟の盟主であったため、バイエルン領の占領のために6月28日まで戦闘状態が続いた。ミュンスター、バイエルンとの休戦協定では領土の割譲は行われなかった。

ポルトガル植民地戦争

16世紀に入って本格化したポルトガルの新大陸植民事業はトルデシラス条約などあったのかとばかりに、ナガランセットに上陸して以来東はサスケハナでフランスと接し、北ではオンタリオ湖沿岸まで進出してヒューロンと接していた。
欧州でもルーション、ホラントで国境を接するポルトガルに対し、ルイス4世は度々警告を発し、ポルトガルが戦争をしないようけん制してきた。しかし、1577年4月1日、ポルトガルはかの国がアフリカでしてきたように、先住民を征服せんとついに新大陸先住民に対し牙をむいた。4月5日ポルトガルのヒューロン侵攻を阻止するため、フランスはポルトガルの植民地主義に抗議するため宣戦。本格的な植民地戦争となった。
欧州でも同時にポルトガル領への侵攻が開始された。ルーション、ヘローナ、ホラント、フリースラント、ゲーレ、次いでポルトに上陸したフランス軍は各地で勝利し、新大陸植民地を占領する前に欧州のポルトガル領を全て制圧した。
1578年10月21日のポルトガルとの講和条約はポルトガルの半世紀の努力を無にするような過酷な内容だった。フランスは、ポルトガルの北米植民地全ての割譲、カスティーリャ、アクイレイア、プロイセンとの条約を破棄、125ダカットの賠償金を要求した。首都リスボンを占領され、すべての陸軍を無力化されたポルトガルに抗う術はなかった。

ルイス5世の治世 1584年~

懲罰戦争

1583年3月1日、ルイス5世即位。ルイス5世が即位した当時は周辺諸国からの懲罰戦争の嵐の渦中だった。ルイス3世の頃からの悪名の蓄積はルイス4世の代に40.3まで上昇していた。ルイス5世は4代前からのツケを払わされる少々気の毒な役回りだった。

ブランデンブルク選帝侯が対仏懲罰戦争の急先鋒であった。ブランデンブルク選帝侯ヨーブスト1世・ド・ヴァロワはフランス王ルイ12世の曾孫、ヴァロワ王家の末裔であった。彼は先祖の敵であるルイス5世にフランス王位を要求。友好国を巻き込んで、次々に戦争を仕掛けてきた。戦う端から全て属国にするか併合してしまえればよいのだが、これ以上悪評が増加してはたまらない。ルイス5世は各国と非常に緩い代償と引き換えに休戦協定を結んでいった。

1584年3月1日ロシアがホルシュタインを併合。帝国に対する侵略行為である。即位1周年を迎えたルイス5世はロシアに対するホルシュタイン解放を求めた戦争の準備を整えようとしたが、3月4日にロシアに先手を打たれた。ロシアもフランスに対する懲罰戦争を宣言。ぎりぎり懲罰の対象となる数字(34.9/34.0)を恨めしく思ったが、後の祭りである。
しかし、戦争は圧倒的にフランスが優勢だった。その年の冬には、フィンランドの独立と525ダカットの賠償金支払いでロシアと和平を結んだ。

1586年8月31日、商取引所を設立。フランスは懲罰戦争の嵐を耐えきり、経済の復興にむけて新政策を打ち出していった。

ヘローナ再征服戦争

1588年1月1日、ヘローナ再征服を掲げてポルトガルに宣戦。あらかじめポルトガル本土の沖合に待機していたフランス軍は、開戦と同時に強襲上陸を敢行。3月15日までにヘローナを含むイベリアのポルトガル領を占領し和平交渉を開始した。フランスの要求は、ポルトガルが新大陸の領有権を全て放棄しヘローナを割譲。1577年のポルトガル植民地入戦争からこの戦争までの間に、低地諸国はポルトガルの支配を脱し、ホラント、ヘルダーラント、オルデンブルク、ミュンスターの4カ国が独立を果たしていた。ポルトガルはアフリカに植民地をもつとはいえ、多くの欧州諸侯には、やや斜陽を迎えつつあるように見えた。

セバスティアン・ド・シャンブリの陸軍改革

マウリッツ・ファン・ナッサウ(オラニエ公マウリッツ)は当時西欧の有力な大国であったポルトガルからホラントを完全独立させることに成功した男だった。
軍事史におけるオラニエ公マウリッツの影響は多大である。それは、彼が従兄とともに行った軍事訓練にはじまる一連の改革によるもので、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。
例えば、銃を扱う際には、その動作を数十段階にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また、訓練を通じて、本来の寄せ集めでしかないホラント軍の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。
さらにパイク兵の方陣(テルシオ)による白兵戦闘が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、三兵戦術の基盤を築いた。
加えてマウリッツは、優れた数学者・技師などを招き、新兵器の開発も振興した。
マウリッツは将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、のちにバルト海一帯の覇権を握るスウェーデン王グスタフ・アドルフに仕える者もいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。
また、彼の訓練マニュアルは秘密にされず、書物として刊行されたため、諸外国がマウリッツの教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。

1590年にゼーラント総督からフランス陸軍卿となったセバスティアン・ド・シャンブリ男爵は、マウリッツの「陸軍革命」をフランス軍に取り入れることにした。マウリッツの三兵戦術はプロヴァンスの創始したものを発展させたものであったし、フランスは1577年のポルトガルとの戦争(ポルトガル植民地戦争)以後も欧州にあるポルトガルの飛び地領の愛国者に対して資金援助を続けていたこともあって海の旅団をはじめとするホラントの独立運動派との関係は良好だった。ホラント独立時にはヘローナ再征服戦争をポルトガルと戦っていたため、相互に連絡を取り合いポルトガルを苦しめた。セバスティアン・ド・シャンブリは書籍によるマウリッツの戦術の研究のみならず、直接マウリッツの軍と行動を共にし、研究する機会に恵まれた。こうして欧州の多くの陸軍に先駆けてフランス陸軍は最新式の戦術単位「マウリッツ歩兵」に改編された。こうしてマウリッツの軍事革命はホラント一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まっていった。

こうしたマウリッツ歩兵を中心にしたフランス陸軍の師団は、1590年台には12個師団とアゾレス、ジャマイカの両駐留軍を合わせ262個連隊となっていた。これはオーストリアを28個連隊上回る世界最大の陸軍兵力であり、砲兵連隊の数ではオーストリアの2倍に上る火力を有していた。
フランス軍の士官学校創設はまだ数十年待たねばならない。

新大陸では

1578年にポルトガルの北ルイジアナ(北米)の全ての植民地を奪い、1591年6月1日ヒューロン族を完全併合したフランスは、北ルイジアナで文句なしの最大勢力となっていた。しかし、カスティーリャ領を二分するようなフランス領の拡大は、カスティーリャとの関係を悪くすることはあってもよくすることはなかった。ポルトガルとの戦争に介入したカスティーリャを2度破っているフランスであったが、欧州でのオーストリアとの対立が互いに後に引けないような状況にあり、新大陸での武力行使に二の足を踏んでいた。

ガラスの楼閣

禁断の箱

プロヴァンス建国以来一度も触れていない箱がある。その白い箱があるというその一事で、プロヴァンス以来のブロワ家は、その勢力を東経10度30分以東へ伸ばすことはなかった。
1597年7月13日に先王の後を受け即位した17世紀のフランスを担う若き王シャルル5世・ド・ブロワは1573年生まれの24歳。幼少のころより武張ったことを好んだ彼は、皇帝としての役割とは逆らうものをこの世から消滅させることであると考えており、帝国内にある2か所のフランスの飛び地を隔てる白い壁、禁断のパンドラの箱オーストリアとの戦争の準備に、廷臣を奔走させることになる。

クレマン・ド・ベルシはこの当時欧州最高の外交官と呼ばれた男だった。新王シャルル5世のオーストリアとの戦争を覚悟せよとの勅はベルシを文字通り東奔西走させることとなった。
オーストリアとフランスの陸軍兵力、陸軍技術はほぼ対等。しかし、陸続きで広がるオーストリアと大西洋を隔てて属州に六万もの兵力を展開するフランスでは、戦闘正面に展開できる兵力に隔たりができる。スイス~北イタリア方面でそれは顕著で、オーストリア軍12万に対しフランス軍4万でしかなかった。閣内には陸軍を37個連隊増設するという議論もあったが、それが実現しても正面戦力はまだ4万足らなかった。いや、攻撃側の戦力としては同数でも不足である。
その全てを連隊の増設で行うことにしては、財務卿が辞任しかねなかったし、新大陸は無論、ピレネーや低地地帯から戦力を抽出することも現実的だとはベルシには思えなかった。

シャルル5世の「オーストリアとの戦争を覚悟せよ」との勅は今これより開始するという意味ではない。少なくともそう判断したベルシは数十年のスタンスでディプロマティックにオーストリアを追い込むつもりだった。ブランデンブルク、プロイセン、ウクライナ、ロシア、スウェーデン、グルジアに働きかけ、友好関係を築いてオーストリアの背後を脅かす。多民族を支配するオーストリアにとって、安定度の低下と独立を目指す反乱軍の蜂起は少なからぬダメージであるはず。外交的攻勢としてはこの二点を軸に進めていくこととした。
さらに、オーストリアとの戦争に先だって、カスティーリャとの関係をすっきりさせておく必要もあるのだが、悪評26.9を抱えるフランスに現時点での攻勢はより多くの敵性国家を作ることになるので、新大陸と本国の双方で国境を接するカスティーリャとは、現国境を維持して友好関係を築く方向で考えていくしかないと判断した。

バル名誉戦争はそんなベルシの思惑を他所に、シャルル5世の即断速戦で一カ月で終了した。12の同盟国の軍は戦場に到達することすらないほどの手際だったが、悪評は30.2まで上昇した。厭戦感情は逆に低下したくらいであったが、ベルシにとってはその直後に届いた教皇庁からの一通の書状のほうが問題だった。教皇イノケンティウス8世の署名で結ばれたその書状は、プロヴァンスとフランスの王にして神聖ローマ皇帝、カソリックの守護者たるシャルル5世・ド・ブロワを破門するという内容だった。

オーストリア懲罰戦争

オーストリア懲罰戦争

17世紀に入って間もない1602年2月1日、4年前の判断が誤りであったとベルシは悟った。フランス王シャルル5世はオーストリア大公アルブレヒトに対し懲罰を名目に宣戦すると布告するように外務卿であるベルシに言った。5年に及ぶ彼の外交努力はこの戦争に味方として参加する勢力を増やすことには成功したが、外交的にオーストリアを追い詰めカスティーリャを封じ込めるところまでは未だ到達していなかった。オーストリアに対する宣戦は同盟国を含めれば倍以上の戦力を投入できる戦いで、負ける気はしなかったが、背後をカスティーリャに襲われては外務卿としては立場がない。
しかし、シャルル5世はそんな彼の思惑など気にもとめていないようだった。

開戦から3カ月、フランス軍、ブランデンブルク軍、プロイセン軍、アクイレイア軍、ウクライナ軍、それにフランス公爵のプファルツ、トリアー、オルデンブルク、ロレーヌ、ヴュルテンベルクの各軍勢がウィーンを目指して進撃中であった。
低地地方、北イタリア、ボヘミアと占領地を広げたフランス軍は、シュタイアーマルクとリンツでオーストリア軍と大きな戦いを何度も戦い、オーストリア軍を打ち負かしたが、開戦から1年が過ぎてもオーストリア軍はいまだ兵力を維持しえていた。

ヴェネツィア湾の戦い

1602年12月12日、ヴェネツィア湾の戦いでブルーノ・フォン・ナイブプベルク提督が率いるオーストリア海軍の誇るガレアス艦隊が、フランスの無名指揮官に敗れるという事態が起きた。この戦いの結果オーストリアの厭戦感情は一気に+7.50上昇。陸軍大国どおしの戦争の決着は、改分の艦隊決戦によって終息へと向かい始めた。厭戦感情が沸騰したオーストリア各地で反乱が相次ぎ、前線へ兵力の輸送が不可能となった1603年3月、エクセクジュバールの戦い、シェブロンの戦いで戦闘正面のオーストリア軍は壊滅していった。3月17日、ついにオーストリア大公アルブレヒトは和平のテーブルにつき、低地地帯の旧ブラバント領および北イタリア諸州をフランスに割譲、マイセン、チューリンゲンの主権回復と賠償金の支払いを行うと記された休戦協定書にサインした。

オーストリア懲罰戦争後の欧州

フランスとオーストリアの国境線は東へと大きく移動したが、悪評は著しく上昇していた。破門を受けているうえに懲罰の対象となったフランスはごく小さな国からも軽んじられているかのようであった。その小さな国をひとつずつ倒し、緩やかな条件で講和をし、悪評を下げていかねばならない。フランスにとって今後の10年は忍耐の年月である。

1614年末、シャルル5世は突然病に倒れた。病床で数週間過ごした後、治療のかいなくシャルル5世は天国の征服へ旅立った。王太子のフランソワは9歳。シャルル5世の下、王権の強化中央集権が進められ、名ばかりとなっていた宰相の地位にあったクレマン・ド・ベルシは摂政評議会を招集した。

L'État, c'est moi

フランス王の欧州支配とその絶対王政を確立したのはブロワ朝第8代国王フランソワ1世である、と歴史家は言う。
フランソワ1世は父シャルル5世逝去の後を継ぎ、1615年4月4日に即位した。この時若干9歳。当然国政を司ることはできず、宰相であり外務卿のクレマン・ド・ベルシを中心とした摂政評議会が統治を代行した。親政を行うようになるまでの6年間、フランスは貴族を中心とした合議制であり、1621年10月18日までは後の絶対君主フランソワ1世も評議会の政策に拙い文字で署名する以外の事をすることはなかった。

成聖式

1621年10月18日のパリは欧州各地から集まった諸侯、フランス王の親類、文武諸官、そして見物にやってきた民衆で、その人口を普段の倍に膨れ上がらせていた。
この日、フランソワ1世の神聖ローマ皇帝即位のための成聖式が「パリのノートルダム大聖堂」で行われた。カール大帝以来のアーヘン、クロヴィス以来のランスでは欧州一の大国となったフランス国王の式典には手狭であるというのが理由であったが、パリでの戴冠はこの後ブロワ朝での慣例として受け継がれていくことになる。

親政の開始と言ってもフランソワがすぐに国政の全てを掌握できたわけではなかった。先代のシャルル5世によってフランス王国の中央集権化は大きく進んでおり、国王が議会や内閣の意向を無視して法令を発布することが暗黙の了解という形で認められてきた。
フランソワにとってそれは当然受け継がれていくべき政治の形でなくてはならなかったが、6年間の摂政評議会と彼との関係が、即座に父のような強力な王権の発動をしづらくしていた。
フランソワはブロワ家にここ数代続いた軍事面での才能を受け継いでいたが、彼の最も秀でた能力は行政面で発揮された。むしろ、全ての能力が神に祝福されたかのように優秀であったフランソワが、即位から8年の間に諸侯の宗教的統一と悪評の改善、そして国内の治安についても官僚、閣僚の誰よりも完璧に対処してきたことで、いつしか誰もがフランソワに判断を仰ぎ、全ての戦場でフランソワに指揮されることを望むようになっていた。

オーストリア破門戦争1628年~

フランソワの絶対的な権力掌握への大きな一歩となったのが、1628年1月1日に開始されたオーストリア懲罰戦争である。フランスは先王の代の懲罰戦争でオーストリアから低地地帯と北イタリアを毟り取り、黒海沿岸に新国家を成立させることによって、オーストリアのアジア部分を孤立させることに成功していた。フランソワが目指すべきは、オーストリアのヨーロッパ部分の崩壊であった。
開戦と同時にオーストリア領になだれ込んだフランス同盟軍の総数は20万を越えていた。1629年2月末には一方的なまま戦争は終わろうとしていた。フランソワが1年もの間戦争を続けようとしたのは、完璧な勝利のためである。しかし、1629年3月3日プロイセンによるスティリア建国でフランソワの計画は狂ってしまった。フランソワはボルケーノのように怒り、腰の剣で野営用の天幕の柱を切り落としたといわれる。
翌月のウィーンの和約の席上で、フランソワがプロイセン王フリードリヒ1世・ド・ヴァロワにスティリアの独立は認めないと発言したというのは後世有名な話であるが、真偽は分からない。しかし、フランスが1629年5月1日にスティリアに宣戦、スティリアの同盟国プロイセンと戦争になったのは歴史上の事実である。

リエンツ公会議

リエンツ公会議

スティリア戦争が終わって半年が過ぎたころ、フランソワは帝位世襲制に関する動議を審議するためにリエンツで公会議を招集した。実質的には、選帝侯7名のうち5名を属国として支配するフランス王が将来的にも皇帝位を継承していくのは動かぬことであったので、法的に追認するだけのことではあったのだが、驚いたことにオーストリアが賛成に一票投じ、それに続いて諸侯も賛成票を入れた。1630年7月14日、フランス王は神聖ローマ皇帝位を世襲することが決定した。

教皇

L'État, c'est moi

先王が敵としたのはオーストリアだけではない。さらに厄介な相手とも敵対関係にあった。すなわち、カソリックの象徴にして神の代弁者ローマ教皇である。
先王を破門したイノケンティウス8世はこの時まだ存命だった。フランス王の勢力拡大を望ましく思わないイノケンティウス8世は、カスティーリャの女王イサベル1世と共に再びフランス王の前に立ちはだかろうとしていた。
教皇との関係は102。破門されないぎりぎりのラインであった。宰相であり外務卿のクレマン・ド・ベルシは、教皇との関係改善の使節を派遣し、破門の口実を失わせしめるべく先手を打つべきだとフランソワに献言した。しかしフランソワは、教皇との関係改善はこちらから行うことは今後一切ないとクレイマンに言うと、イタリア中部への派兵の準備を開始するよう命じた。
1632年2月1日、教皇庁との関係が99となったと同時に、フランソワは教皇イノケンティウス8世に宣戦。教皇領沖合いの船団からフランソワ直卒のフランス軍が上陸を開始した。教皇領の占領、それはこれまでにも幾度もあったことであった。封建君主としての教皇には敬意も何も持たないが、神の代弁者という権威=教皇が、征服者を対等に扱い、むしろ媚びて見せることで征服者は教皇に籠絡され、ローマ、ヴァチカンは今日まで生き延びて来ていた。
今回は年貢の納め時かもしれん、イタリアの諸侯はそう言いあった。ローマを占領し、ヴァチカンを包囲したフランス王が教皇という権威が権力となって王権を脅かしてきたことをどう考えているか知っていた。教皇領を属国として支配する。敬虔なカソリックであり、周辺諸国との融和と征服のバランスこそ信条とする老宰相に「陛下、教皇は神聖不可侵にして、信仰の象徴であります。全てのカソリックが陛下の一挙手一投足を注視しております。教皇猊下を家臣のように扱うことなどお考えめさるな。決してフランス国家のためになりませぬぞ」と諌められるが、フランソワは後世世界中の教科書に絶対主義の王権の強力さを端的に表す言として掲載される言葉を返した。「ベルシのクレマンよ、国家とは余のことである」

1638年1月に開始された第二次オーストリア懲罰戦争によって、オーストリアはその領土のほとんどを失った。オーストリアに残されたのはウィーンとバルカン半島、そして黒海以東の草原だけだった。
軍事的にも宗教的にも、いや言いかえるなら、物理的にも精神的にも新たなローマ帝国はブロワ朝フランス王家のものとなった。
フランソワ1世は1639年7月に神聖ローマ帝国と新大陸植民地の「対抗宗教改革の終わり」を宣言した。もはや欧州に彼に対抗できる勢力はなくなろうとしていた。
フランソワはパリの南のヴェルサイユ村に新たなる大宮殿の建設を布告。財務卿セバスティアン・ル・テリエを登用し、その建設の費用調達を行わせることとした。
絶対君主フランソワのもと、1640年台のフランスはインフレ低下と宮殿建設費用調達という矛盾に挑むと同時に、新大陸の開発を行うこととなった。
新宮殿建設が端緒につき、新大陸で次々にインフラが整備されていく中、多くの政敵を倒し、周辺諸国を併呑、教会権力すらも膝まづかせることに成功した、絶対君主フランソワ1世といえども神ならぬ身であることを、フランソワ自身と周囲の人々に思い知らせる出来事が起った。そう、1647年1月11日フランソワ1世はヴェルサイユ宮殿の完成をみることなく天に召された。先に逝った教皇とどんな顔をして対面することになるのであろうか。

17世紀半ばの欧州

ついに17世紀も中盤です。南仏の片隅プロヴァンスから始まって250年たちました。もはやプロヴァンスっぽさは、残念ながらほとんどありません。
政体を絶対王政に移行するのは「我は国家なり」を採用しなくともできるそうですが、折角なので採用しました。フランス語には朕にあたるような君主専用の一人称はないので、L'État, c'est moiを朕は国家なり、一人称を朕としなかったのは、良い訳だと思います。
残念なのはやはり、王朝は途切れていないのに国が「進化?」すると、誕生する君主が「進化」した国風の名前になることです。今回のプレイではオックがフランスを征服したのに、フランス風の名前というのがいただけないです。この分だと次はドイツ風に?

というわけで(?)、次回は帝国復興を目指します。

 

à suivre


添付ファイル: file1602-21.jpg 326件 [詳細] file1571map-aus.jpg 322件 [詳細] file1632-1.jpg 322件 [詳細] file1630-seshuu.jpg 341件 [詳細] file1604.jpg 307件 [詳細] file1602-war.jpg 284件 [詳細] fileparis-1.jpg 316件 [詳細] file1551map-2.jpg 322件 [詳細] file1646.jpg 450件 [詳細]

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2010-07-27 (火) 05:48:11 (3193d)