Le Bleu

王立陸軍士官学校

パリ郊外に位置する旧バスチーユ城塞に新世代の陸軍将帥育成のために王立陸軍士官学校/École Royale Militaireが建設されたのは先王フランソワ1世の御世である。神聖ローマ帝国の行政改革によって戦えど戦えど陸軍の戦訓が蓄積されず優秀な将帥が枯渇したこと、プロヴァンス出身貴族中心のフランス陸軍に新たな血を入れることによって組織の刷新を狙ったもので、陸軍のような巨大な官僚組織に大々的な改革を強行できるところは絶対主義のよいところではある。フランソワ1世によって布告された王立士官学校開校の布告には、プロヴァンス(オック)だけではなくフランス、ホラント、北イタリアの貴族、全国の第三身分に対してもフランス陸軍将校への門戸が開かれ、文字通り全国から英気あふれる若者が集まった。

第一期生の指導をしたのは陸軍改革論者として高名なシモン・ド・サド男爵。サド校長は生徒を徹底的に苛め抜き鍛え上げた。将帥を夢見て集まった貴族の子弟などは次々に脱落していった。脱落した若い貴族の実家が何を言おうがサドは気にしなかった。彼は絶対者である国王に勅任されていたし、シャルル王子が第1期生として参加していたのである。彼の荒っぽい将校選別方法は実に効果的であった。しかし後世サド男爵の名を由来とする単語がサド男爵にとって不本意な意味と用法で辞書にまで載ることになる。

後に王位を継ぐシャルル王子は在学中、王族のプライドと父へのメンツ、そして何より男としての意地を通した。貴族の子弟はおろか、第3身分の士官候補生とともに同じ訓練と教育をうけることによって、シャルルは得難い家臣を得ることに成功した。
王族が陸軍士官学校へ入学するという先例を作り、それは伝統となって行く。

第一期生の中で優秀な者は国王から短剣を拝領することとなった。これは若い士官の忠誠心の昂揚に絶大な効果があり、その後も受け継がれる伝統となって行った。
アルフォンス・デュ・フールネ、オーガスティン・ド・ボーアルネ、ピエール・ル・テリエ、フィルマン・ド・エスプリ、ベノワ・ド・シオラック、ロベール・ド・サン・ジェルマン、イニャス・ド・ルイニュ、ブレーズ・ル・テリエ、ギョーム・デ・クーロン、パスカル・デ・エルビア
の10名と卒業後王太子となったシャルル6世・ド・ブロワであった。

卒業後彼らはオーストリア、プロイセン、その他のドイツ諸侯との戦いで戦功を重ね、シャルル6世の御世には恩賜の短剣組10名のうち8名が将軍として一軍を預かる身となっていた。

シャルル6世の治世 1647年1月11日~

国威と正統性と厭戦感情

1647年1月11日フランソワ1世の後を継いだのはフランソワの長男シャルル6世、この年29歳であった。しかし、オルデンブルク公爵家のゲールハルト2世・ド・ブロワ、ヴュルテンベルク公爵家のウルリヒ5世・ド・ブロワはともにフランス王位を要求。シャルルの正統性はどういうわけか認められていなかった。

1649年12月1日太子ジャンが誕生して両公爵家が要求を放棄したが、正統性の低さは変わらず状況は変わらない。ヴュルテンベルク=ブロワ家の当主が前年亡くなり現在はウィルリヒ6世が8歳で摂政評議会が施政中。オルデンブルク=ブロワ家の領地については王家が領有権を有しているので少々事情は複雑である。
大元帥を一人雇用し(なんで大元帥なんだろう?)各国に王朝の正統性を主張していくが、ジャンの代までにどうにかなるものなのだろうか。

バレエ・ド・クール

バロック音楽の発祥の地はイタリアであり、欧州の多くの国ではイタリア音楽の模倣から発展していったが、フランスは音楽史において、独自の道を歩んだ数少ない国のひとつである。
フランソワ1世の御世に中央集権化の進んだフランスでは、音楽といえどもイタリアの後塵を拝することは許しえないことであった。フランスではバロックとは呼ばず、古典主義と呼び、一線を画したのは、フランスのバロック期音楽が舞踏に傾倒したためでけではなかったのだ。フランス音楽の舞踏傾倒には、オックによるフランス支配の影響が強い。オックの代表的芸能であるトゥルバドール以来、オック圏では詩と歌と踊りは一体のものであった。
シャルル6世の代になると、ヴェルサイユ宮殿でのバレエ・ド・クールが宮廷人に愛され、イタリアのオペラからフランスのバレエへと一層独自の発展を遂げヴェルサイユ学派とよばれる芸術家群を産む。ジャン・バティスト・リュリは、フィレンツェ生まれのイタリア人だったがフランスに帰化、小姓から舞踏手、ヴァイオリン奏者としてシャルル6世の寵愛を受け、後に宮廷作曲家に任命された。リュリは、劇作家のモリエールと共に、バレエ・ド・クールとコメディアデラルタを結合した「コメディ・バレエ」の分野を開拓。その後、フランス独自のオペラ、「音楽悲劇」を完成させ、フランス音楽をイタリア音楽と競えるほどの音楽に高めることに成功した。

またこの時期リュートの作曲と研究が隆盛、ゴーティエ一族を筆頭とするリュート奏者たちは、様々な調弦法を試みた末、バロックリュートを確立させた。

  • この時期、コメディアデラルテとバロック音楽をセットで途切れることなく上演。厭戦感情が慢性的に高い状態のフランスの暴動発生率を低下させた事を反映。

懲罰戦争

シャルル6世の即位以来懲罰戦争という名の反乱が帝国各地で発生した。ヘッセン、バル(領地はモラヴィア)、クロアチア。そして1648年のボスニア反乱は大規模なものへと拡大した。プロイセンが後ろ盾になっていたためであった。この戦争でフランスは25隻もの船舶をプロイセン艦隊によって沈められてしまった。(戦闘用ガレオンの艦隊とフリュートの艦隊を間違えたというプレイヤーのミス)これにより一気に厭戦感情は高まり、戦闘続行は不可能と判断せざるを得なくなった、またしてもプロイセンに決定的勝利を収めることはできなくなってしまったのだ。
というのも、フランスは新大陸の属州に隣接する先住部族との決着をつけるつもりでいたからで、この時点で厭戦感情をこれ以上あげるわけにはいかなかったのだ。

チェロー再征服戦争 1650年

フランス国威上昇のためにできること、それは(このゲームでは)限られている。すなわち祝祭等の施政方針と戦争である。しかしそれは厭戦感情を高めてしまう。厭戦感情の高まりは残念ながら正統性の低下をもたらしてしまう。正統性とはどれだけその王朝が支持されているかということらしいが、内閣支持率のようなものだろうか。

シャルル6世の最初の外征は1650年5月8日に始まったフランスによるチェロー族に対する再征服戦争であった。当初新大陸のみの限定戦争である予定であったが、新大陸諸族のみならず、カスティーリャ、イングランドの参戦を招き、拡大しつつあった。
この戦争では士官学校第一期生が初めて将帥として参戦している。まず新大陸でアルフォンス・デュ・フールネ将軍が6月25日にチェローを占領。当初の目的であるチェロキー族の征服を果たした。アルフォンスと同期のオーガスティン・ド・ボーアルネ、ピエール・ル・テリエ、フィルマン・ド・エスプリの3将は開戦と同時にピレネー山脈を越えんと進軍を開始した。

ビスカヤに進撃したオーガスティンはカスティーリャのオドン・デ・ネブリハ将軍の猛反撃を受けていた。ピレネーを49人残して落としきれなかったピエールはオーガスティンの救援に向かうが、カスティーリャのバレリアノ・デ・ラ・セルダにナバラで行く手を阻まれてしまう。
一方、一番南を進んだフィルマンはバルセロナ、バレンシアと順調に進撃。
7月27日にオーガスティンは大軍を支えきれずに敗北。カンタブリアに敗走した。
カスティーリャ本土での戦いに3個師団では不足であった。シャルル6世はギョーム・デ・クーロン将軍と共にパリを出立した。
8月15日ピエールはカスティーリャのペデロ・デ・アギルの軍をナバラで撃破した。その後の追撃戦でカスティーリャ軍を殲滅したため、歴史書にはこの一連の戦いを「ブルゴスの戦い」と記されている。その後の数カ月、カスティーリャ本土と新大陸の占領におけるフランスの敵は時間だった。12月18日に休戦したときには厭戦感情は正統性を上回っていた。

第二次スティリア帝国主義戦争 1657~58年

1657年7月29日、第二次スティリア帝国主義戦争が厭戦感情の低下を待って開始された。オーストリア、バイエルンがスティリアの保護を名分として参戦したが、すでに両国ともフランスの敵ではなくなっていた。フランスの敵は厭戦感情と悪評、この二つを高めずに帝国復興へ向けて帝国中央に残るまつろわぬ国々を斬り従えるか、が課題となっていた。

財務卿セバスティアン・ル・テリエ

宮廷をヴェルサイユに移転

セバスティアン・ル・テリエは著名な銀行家であった。ヴェルサイユ宮殿/Château de Versailles建設に伴いセバスティアン・ル・テリエを帝国財務卿として抜擢したのは先帝フランソワ1世だったが、宮殿の完成は今上帝シャルル6世の御世、1660年に足掛け20年の歳月を費やし完成した。ヴェルサイユ宮殿は建築家ル・ヴォーによるフランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれるバロック建築の代表作で、総面積1万ヘクタール弱の豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。その豪華さと完成度で世界中の宮殿に模倣された。現代でも世界遺産の代表格として、およそ知らぬものはいないほどの建築物である。
そのヴェルサイユ宮殿建設の裁量を任され、建築家ル・ヴォーの抜擢と建築の財源の確保、そしてその完成をもってセバスティアン・ル・テリエの業績は評価されがちだが、彼は新大陸を含めたフランス全土に税務署を建設。国家がギルドの管理をすることも開始した。世界で初めて国家プロジェクトとして経済の中央集権化とインフレ低下に挑んできた。現時点のインフレ率は68.1と、いまだ世界一であったがセバスティアン・ル・テリエはその後のインフレ低下への方向性を確立したことこそ評価されるべきであろう。

ヴェルサイユ宮殿

フランスの指導層には多くの軍人が関与していた。シャルル6世とその周囲の者は平時から軍服を着用し、連日開催される晩餐会にも軍服が目立っていた。既に老境に差し掛かっていたセバスティアン・ル・テリエは絶対王政下の財務卿としての分は弁えていたが、何事につけても力をもってなそうとする軍服の一派の存在を苦々しく思っていた。武力の行使は金がかかるのだ。しかし、国家としての目標は既にローマ帝国の復活とされており、そのためにすべての廷臣、官僚は働くべきであったし、セバスティアン・ル・テリエもその巨大なマシーンの一部でしかなかった。あるいは絶対者たるシャルル6世すらもそうだったのかもしれない。

軍服の一派の中にはセバスティアンの一族であるピエール・ル・テリエも加わっていた。ピエールはチェロー戦争での軍功が認められ宮廷で重きをなしていたが、セバスティアンの経済政策に対しては冷ややかだった。しかし、セバスティアンなしにはフランスの財政は成り立たないということは熟知しており、なにかにつけて武官だけで話を決めてしまうシャルル6世の次の一手について、ピエールはセバスティアンに伝えてくれていた。今夜の晩餐会でも片隅で酒を傾けるだけの一族の長者に挨拶をする体でピエールはセバスティアンに国王の意向を伝えた。
「年内にイベリアで軍功を立てる機会に恵まれそうです」

バルセロナ征服戦争

1662年9月1日、フランス王にして神聖ローマ皇帝シャルル6世はカスティーリャに対しバルセロナ割譲を求めて宣戦を布告した。フランス軍のピレネー方面軍4個師団8万は開戦と同時に怒涛のごとくカスティーリャ領へなだれ込んだ。翌2日、ポルトガルがカスティーリャとの同盟を履行し対仏宣戦。フランスピレネー方面軍のピエール・ル・テリエ将軍は指揮下の第6師団をもってアラゴン攻略へ向かった。これはポルトガルの参戦を予定していたフランス軍の所定の行動であり、全く混乱を伴わずに戦争は推移していった。
新大陸でも同時に戦闘が開始されたが、今回はバルセロナ攻略が主攻で、新大陸での戦いはその助攻でしかないはずなのだが、攻勢の激しさは欧州戦線以上だった。しかし、占領地の割譲は全く行われる予定はなかった。
10月末にはポルトガルから、バルセロナ、ルーションの領有権を放棄させ休戦。11月にはカスティーリャを和平のテーブルにつかせ、バルセロナ征服戦争は終結した。
12月にシャルル6世はクリーク族に対し帝国主義戦争を開始すると布告。カスティーリャ領に残っていた新大陸のフランス軍はそのままクリーク領へ侵入した。

第一次バルカン鎮定

クリークとの戦争は2カ月で終了したが、フランス軍には休む間が無かった。帝国再興のためには皇帝としての実績が必要である。1663年3月上旬にセルビアを征服したハンガリーに対し20日にセルビア解放を求めて宣戦した。プロイセン、ブランデンブルク、ポルトガルがハンガリーとの同盟を理由にフランスに宣戦。フランスは2正面作戦を強いられることとなったが、全ての戦線でフランス軍がハンガリー同盟軍を圧倒的な兵力をもって打ち負かした。
4月1日トランシルバニアからの援軍要請に応え、ブルガリア、シレジア、バイエルンと戦端を開いた。さすがに戦闘正面が6つにもなると戦力は圧倒的とはいかなかったが、11月にはハンガリー、ブルガリア、シレジア、バイエルン、12月6日にはポルトガルと休戦に持ち込むことに成功しバルカン鎮定は小休止となった。

成人病にご注意

1665年10月15日、ヴェルサイユ移住を拒み続けたオルデンブルク=ブロワ家を断絶。同家の玉座をシャルル6世が継承。
1668年、クリーク戦争。これでクリーク族は地図から3回姿を消したこととなった。また、トランシルバニアからワラキアを救援。
1669年1月ショーニー族を完全征服、新大陸ルイジアナの先住民部族は消滅した。
9月1日にはチューリンゲンに対し帝国主義戦争を開始。翌月にはドレスデンを残し休戦。
1672年6月3日、アクイレイアの玉座を継承。
シャルル6世はこの時期厭戦感情と悪評の低下を目安に戦争を続けていた。外交官の有能さ、シャルル自身の能力の高さに加え、カソリックの守護者、教皇の御者という立場も厭戦感情と悪評の低下に一助を与えていた。
しかし、ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレーや舞劇に酔いしれた。 それはやがて「退廃的傾向」がみられるような行いとなり、いつしかシャルル6世も不摂生と暴飲暴食が祟り、軍人として鍛えられたシャルルの肉体を蝕んでいった。すでにそれを止めることはシャルル自身にすらできなかった。
1673年6月9日プロヴァンスとフランスの国王にして神聖ローマ皇帝シャルル6世はその生涯を終えた。死因は糖尿病から来た無数の合併症だったという。

ジャン・ド・ブロワの治世1673年6月9日~

シャルル6世の外交能力(評価か?)の高さは、いなくなってみると痛切に感じられたものだった。シャルル亡きあとを継いだジャンの代になると、悪評の限界が急落しており、ポルトガル、ロシアをはじめ帝国構成国の全てから警告を受けることになった。要するに新王ジャン3世は舐められたのである。

ジャンはこれらの無礼な者どもに対して、先王以上の苛烈さをもって当たることとなった。

第二次バルカン鎮定

1678年2月にバルカン半島で起きたワラキア、トランシルバニアの2つの戦争の両方に援軍を送った第二次バルカン鎮定に始まり、1679年2月、マントヴァに対する帝国からの解放ではマントヴァ、ウルビーノ、トスカナを屈服させ1684年1月1日、バイエルン戦争は3カ月で、4月1日にはじまったチューリンゲン戦争は1カ月で完膚無きままに踏み潰していった。
1697年6月16日に終了した第二次ハンガリー戦争をもってジャンの一連の名誉回復戦争は終了した。ジャンの戦争処理は苛烈で、悪評の上昇は著しく、周辺諸国との関係は悪化していった。ジャンに対する評価は彼の治世の短さの割に戦争による征服地の多さをもってなされることが多い。しかし、日曜学校の設立(1687年5月28日)とフランス音楽の振興と保護についての彼の功績は忘れられるべきではない。
1699年9月14日に天に召されるまでにジャンが征服した領土はシャルル6世の事業を越える規模のものであり、17世紀末にはフランスの領土はスラブ人の住む地域にまで達していた。

17世紀末の世界

残念ながら17世紀中に帝国復興を完成させることはできませんでした。しかしこの半世紀でフランス領は欧州と呼ばれる地域を覆い尽くそうとするほどになりました。また、対インフレ政策は功を奏し、この時点でのインフレ率は49.2まで低下しています。

今回のマップは17世紀末の状況です。大人気のスウェーデンの全貌を世界地図で紹介。スウェーデンはクリミア、エルサレム、バグダッド、ナイルデルタ、テヘランを有しメッカ、アレクサンドリアを落とす勢いです。アジアでも猛威をふるってスウェーデン領インドネシアを・・・
スウェーデンに負けてはいられません。次回こそは帝国を復興させるべく頑張りたいと思います。

おまけ

婚姻政策の成就

1680年10月18日、婚姻政策の成就だそうですが、意味がわかりません。ハプスブルクはどこにもいないし、意味がわからないです。

 

à suivre


添付ファイル: file1680-konin.jpg 442件 [詳細] file1660-ver2.jpg 314件 [詳細] file1699wm.jpg 575件 [詳細] fileVersailles.jpg 224件 [詳細]

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Last-modified: 2010-08-04 (水) 08:56:30 (3186d)