冠を我が手に

18世紀初頭の概況

インドネシアにスウェーデンは間違いでした

欧州

欧州半島主要部はフランス王神聖ローマ皇帝の統治下にあった。ピレネーからバルカン半島北部、バルト海南岸から北イタリアの領域を45万の陸軍と177隻の軍艦で支配していた。帝国領域内にはかつての雄であるオーストリアの姿はなく、以前の皇帝バイエルンはミュンヘン周辺をかろうじて維持するだけ、東の新興国プロイセンも度重なる敗戦でその威勢を失っていた。

ロシア平原ではロシアとオーストリアがイスラム系国家を飲み込みつくし、次第に互いを意識し始めていた。今のところ兵力のロシア、技術のオーストリアで力のバランスが取れているのか、両国の長い国境線は平穏そうに見えた。

中東、アジア

東アジアは完全に明に取って代わった秦が東アジアの盟主である。日本は朝鮮を滅ぼしシナ大陸沿岸部へ進出を開始。欧州勢はインドシナ半島に上陸したカスティーリャに続いてイングランド、ポルトガルが太平洋の島々、オーストラリア東部へと拠点を築いている。
中東・西アジアで特筆すべきはスウェーデンである。カール12世の中東遠征はかのアレクサンダー大王を彷彿させる成功を収めていた。クリミア半島を拠点に黒海南岸へと進出したスウェーデンは、イスラム諸国を次々に打ち破り、西はナイル河畔から東はカスピ海南岸、バグダッド、バスラを攻略し、紅海沿岸でも南下中で、聖地メッカを目前にしていた。東ローマ=ビザンティン帝国亡き後の東の皇帝として、ムスリムにさえシャーハンシャー/Shāhanshāh(王の王)と呼ばれるほどの実力をつけたスウェーデンと神聖ローマ帝国の国境は黒海北西岸で接しようとしていた。

新大陸・アフリカ

アフリカ沿岸はイベリア勢の天下だった。モロッコはポルトガルが支配し、モロッコ以南はカスティーリャが独占状態だった。
新大陸でもイベリア両国は巨大な領域を植民地支配していた。特にポルトガルは首都を新大陸へと移し、南北大陸をつなぐ地峡地帯を本拠地として根を下ろそうとしていた。
イングランドは新大陸の北岸からの進出を試みたが、フランスとの競争を嫌って南米大陸南端のホーン岬から北上を開始し、太平洋岸の先住民帝国インカを征服した。
フランス領ルイジアナはミシシッピー川を越えて膨張を続けていた。カリブ海沿岸域への植民はジャマイカのみ行われたが、新大陸の重要交易中心地ユカタンを17世紀末に占領。新大陸の交易中心地を独占した。

フランスの状況

フランソワ2世が即位した1699年9月14日の時点でのインフレ率は49.2。このままいけば18世紀後半にはインフレ率は限りなく0に近い数字となることだろう。先の財務卿セバスティアン・ル・テリエの経済改革は結実しつつあった。国庫の年間純利益は1469.08ダカット、国庫には9281ダカットの貯えがあった。

王太子ジョアシャンの要求権は強、フランソワ2世の正統性は98。安定度は+2で国威は+100あったが、悪評が29.8/35.88と少々高め。外交官ユーグ・ド・ベルフォールとアルマン・デ・クーロンはレベル6の優秀な人材であるが、先代からの負の遺産を消し去るには10数年の歳月が必要であると思われた。

1704年から始まったフランス陸軍の軍事革新は、中東に覇を唱えるスウェーデン王が創始したと言われる、いわゆるグスタフ式歩兵戦術に旧来のマウリッツ戦術から改変することから始まった。
マウリッツ歩兵の隊列は6~8列であった。これはマスケット銃の装填時間から作られたものであったが、小銃の新型化によって装填時間が大幅に短縮され、3列の銃列でマウリッツ歩兵と同様の時間当たりの弾丸投射量をあたえることが可能になった。つまり、理論上同じ兵数ならば単位時間当たり倍の弾丸を投射できるような編成が可能なわけだ。再編成と新戦術の採用によってフランス陸軍歩兵連隊の火力は強化された。
騎兵については従来のカラコル戦術が踏襲された。これは騎兵の戦術が完成されていた、現状で満足な結果が得られるというような好意的な理由からではなく、騎兵は戦闘の主力たり得なくなりつつあると考えられ、研究の対象としての価値を認められなかったことによる。
騎兵が再評価されるにはまだ時間が必要だった。

フランソワ2世の戦争

フランス王フランソワ2世は17世紀末から18世紀初頭にかけて在位し、そのほぼすべての期間を戦場で過ごした王だった。
1706年6月1日、ペーチェ再征服のため、ハンガリーとの4度目の戦争を開始した。ハンガリー陣営にトランシルバニア、ホラントがついたが、戦争はあっけなく1カ月終わった。ハンガリーは完全併合され、地図から消滅した。ホラントの併合も一時考慮されたのだが、6250ダカットというフランスの国家予算4年分の賠償金を提示され、ホラント併合は見送られた。

1709年3月ボスニアのワラキア侵攻に対して介入。ボスニアの同盟国クロアチアと戦争状態に突入した。この戦争も3カ月で終了し、フランスはその領域を広げたのだが、7月18日フランソワ2世は急死。反帝国を叫ぶテロルである可能性もあったが、公式には病死とされた。

ジョアシャン1世の治世 1709年7月18日~

約1年間の摂政評議会による統治を経て1710年9月20日ジョアシャン1世の親政が開始された。
ジョアシャンはフランス以外の国と国境を接しない小国家をひとつずつ潰していった。
1710年12月にはオーストリアの属領ポズナンの再征服を謳い宣戦。ポズナン占領はあっという間であったが、中央アジアのオーストリア領まで戦域は広がり、戦争は泥沼化した。オーストリアとの戦争にあたって、フランスはスウェーデンから軍の通行許可を得、4個師団8万の兵力が黒海沿岸を東へ向かった。オーストリアがフランスと争っている間に、ブルガリアがギリシャのオーストリア領へ侵入。トラキアからピチュニア、アナトリアを占領。1711年までにオーストリアは完全にヨーロッパの国ではなくなってしまった。

1711年9月オスマンがアテネに宣戦。防衛戦の援軍要請に応え、フムに駐留するジョスカン・オールネー将軍のバルカン師団2万を派遣。アテネ防衛に向かわせた。オーストリアとの和睦を成立させると、オーストリア派遣軍8万のうち4万をグルジアから黒海を右に見ながら陸路でオスマン領へ向かわせた。この時期に至ってもイスラム諸国と西欧のテクノロジー差はそれほど大きくはなかったが、戦闘単位(ユニット)としてグスタフ式歩兵は、東方、イスラムの歩兵を圧倒していた。オスマンが和平を申し入れてくるまでそれほどの時間を必要としなかったが、陸路で黒海を半周しないとオスマン領に入ることができない状況は改善の余地が大いにあった。ジョアシャンは兵力運搬用の輸送船を大量に建造する勅令を発した。

オスマン戦後の小休止の期間、1715年秋のリトアニア防衛戦の終了の時点で、ジョアシャンは帝国の中央にある小国をひとつづつ潰していった。フランソワ2世以来の地味な、そして容赦のない戦いを繰り返してむかえたのが、1719年9月16日。

ベルリン勅令 1719年9月16日

ベルリン帝国議会

1519年12月25日のルイス3世の成聖式以来の決着という意味では、この200年で最も大事な会議がベルリンにおいて開催された。皇帝ジョアシャン1世が提出した帝国行政改革に関する動議が、この日ベルリンで決議されようとしていた。

この知らせが神聖ローマ帝国中を駆け巡った。

「プロヴァンスとフランスの国王神聖ローマ帝国皇帝にして教皇の御者、カソリックの守護者ジョアシャン1世・ド・ブロワの名において神聖ローマ帝国を構成する全ての諸侯に不上訴特権の放棄を永久に求めるものである。」いわゆるベルリンの勅令は帝国の中央集権化を決定的にする法で、この勅令が施行され効力をもてば、神聖ローマ帝国は事実上フランス王国と同義になる。

しかし、これは帝国の中央集権化を進めることはおろか、以下全ての諸侯が皇帝に対しベルリン勅令の取り消しを求めて反旗を翻した。(皇帝の正統性は0に低下)勅令の撤回を求める連名書の一番上にはフランス王の係累であるヴュルテンベルク公エーベルハルト3世・ド・ブロワの名が認められていた。

  • 反皇帝派諸候一覧
    ヴュルテンベルク公エーベルハルト3世・ド・ブロワ
    ホルシュタイン公フィリップ・ヴィルヘルム1世・フォン・プファルツノイマルク
    ホラント公ヨハン3世・フォン・ヴィッテルスバッハ
    アンハルト公ヨアヒム・エルンスト1世・フォン・メクレンブルク
    マイセン主席ヴィルムヘルム2世
    バイエルン公マクシミリアン1世ヨーゼフ・フォン・ヘッセ・カッセル
    ザルツブルク大司教ヴォルフ・ディートリヒ1世
    バーデン辺境候ルートヴィヒ・ヴィルヘルム(摂政評議会)
    ヴュルツブルク公アルブレヒト4世・フォン・オルデンブルク
    アンスバッハ公ゲオルグ1世・フォン・ハノヴァー
    シレジア公エアネスト1世レチニスキー
    パルマ伯サミュエル・ダッラ・ローザ1世トゥキメイ
    マントヴァ主席フランチェスコ2世
    ウルヴィーノ護国卿プロスベロ・ブラスキ
    ピサ王ガブリエル・マリア1世(摂政評議会)
    ナポリ護国卿ジオアチーノ・デル・ロッソ
    クロアチア王カルロ3世ラザレヴィッチ
    モンテネグロ王マカリオス1世ツリンスキー
    ラグーザ王ヴィットリオ1世(摂政評議会)
    トランシルバニア王ジョルジュ1世(摂政評議会)
    ワラキア王ヴラディスラヴ2世ツリンスキー
    アルバニア王ギオン1世ドマゴジェヴィッチ
    イピロス王トマス3世コムネノス
    コルシカ王レオポルドゥ1世クレッシェンツィ
中興のための陣痛が始まった

同時に帝国領内で14か所、新大陸で9か所の反乱が発生。スコットランド、ロシア、オーストリア(中央アジアです)、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、プロイセン、トスカナ(北アフリカです)、ブルガリア、モレアがそれぞれの同盟に従って参戦した。

フランス王=皇帝側にはザクセン公ハインリヒ5世・フォン・ヘッセ・カッセルが一番最初に味方についた。ザクセン公、はライプチヒ議会で議案を通過させ、一族と公国の未来をフランス王に賭けたのだった。
ザクセン公に続いて、プファルツ公ルートヴィヒ・フィリップ1世・フォン・ブラウンシュヴァイク・リューネブルク、帝国に属してはいないものの、ポメラニア王エリック2世・フォン・ホルシュタイン、ローマ教皇パウルス2世、リトアニア王アレクサンドラス2世、フェズ・アミール領領主アフマド1世(公爵じゃないんだ・・・)がフランス王の味方についた。

ブロワ朝フランス王国建国以来の危機にヴェルサイユは動揺した。何としてもこの危地を乗り越えねばならない。そう誰もが考え、対処法を絞りだそうとしていた。
事ここに至っては、力によって解決するしか道はない。廷臣らがどれだけ頭をスクイーズしようとも結論は同じだった。右往左往することによって危機感から来るストレスを発散するにすぎない文官たちを尻目にジョアシャンは自ら軍を率い、あるいは諸将をして各地の反乱に対応した。

ベルナール・ド・ルイニュ将軍、ミシェル・ド・ヴィグニ将軍、パスカル・ド・ヴィヴィアン将軍はピレネー方面でカスティーリャの動きに警戒せねばならず待機。
ジョスカン・オールネー将軍とフィルマン・ド・シャンブリ将軍はイタリア方面を、ギィ・ド・シャブロンヌ将軍はデンマーク方面を担当し、ニコラ・ド・サン・エスプリ将軍、ピエール・ド・サン・シャモン将軍、エティエンヌ・ド・モルバ将軍はフランス領に囲まれた内側の叛徒に対応。それぞれ2万から5万の兵を従え戦闘に突入した。
新大陸でもジャン・ジャック・ド・トレヴィル将軍が北を、シャルル・ド・サン・エスプリ将軍が南を担当し、反乱勢力を鎮圧していった。

10月11日のホラント沖海戦はホラント海軍の底力を見せつけられた戦いだった。19隻の大型艦からなるフランス海軍北岸艦隊が、マイケル・ドラモンド提督のホラント艦隊大型艦8小型艦15に敗れた。欧州半島北岸の制海権を失ったのは深刻だった。スカンジナビア諸国がエーレスントを渡って移動してくることを阻止できない状況となったのだ。政治的にも厭戦感情+0.86は戦争序盤から痛かった。

ヴィルナ籠城戦
ニコラ・ド・サン・エスプリはベルリン勅令が発令された当時、同盟国リトアニア唯一の領土ヴィルニアスの首府ヴィルナに2万の兵と共に駐屯していた。(周辺国に総スカンくらっていたので軍の通行許可が得られずフランス領への帰還ができなかったため)ベルリン勅令による戦争の勃発はこの地にも届いていた。そしてロシアとプロイセンの参戦も。
サン・エスプリ将軍はリトアニア王アレクサンドラス2世と協議し、ロシア及びプロイセンの戦力を吸引し、できる限り持久することにした。
実際、1719年の年末までにプロイセン軍を12度、ロシア軍を8度撃退していた。
1720年1月6日、ついに敗れたニコラ・ド・サン・エスプリはヴァンデンへと敗走。しかしヴァンデンはプロイセン領であり、彼ら第2軍の未来について希望的観測を口にする者は皆無だった。

各将は戦力の小さな諸侯から討ち、強襲で攻城戦を短期間で終了させていった。占領された反乱諸侯は痛み分け、あるいは賠償金の支払いで講和を持ちかけてきた。併合、あるいは属国といった道しか彼らには残されていなかったに思われたが、今回の産みの苦しみとでも言うべき帝国の内紛は(なぜか)大義名分なしの戦争という体であるため、反乱軍全てを併合、属国化しては悪評が地球の公転日数ほども上昇しかねない。
ジョアシャン1世は、和を求める者には寛大な処分をもって受け入れる用意がある、と布告した。これは効果絶大で、10月1日にデンマークが和平を申し入れてきたのを皮切りに、1720年中に反乱諸侯軍は脱落していく国が相次ぎあっけなく崩壊。1721年1月15日にオーストリアとの痛み分けという形での休戦をもって、敵対した全ての諸侯と休戦条約が締結され、事実上帝国の内紛は小康状態にはいった。

  • 戦後併合した国は神聖ローマ帝国へ再編入したうえで属国として独立させることで、次なるステップのための票?になるということを考えれば、併合~のプロセスを踏むことも考えないではないが、300近い悪評を抱えて残りの期間プレイするのは、いささか興ざめであろう。

パーダーボルンの勅令

パーダーボルン帝国議会

ジョアシャンはこの機会を逃す法はないと、1721年7月1日にドイツ中西部の都市パーダーボルンにおいて帝国議会を招集した。パーダーボルンは複数の泉(ボルン)に囲まれた大司教座大聖堂と神学校のある宗教都市であり、古くはカール大帝の宮廷の所在地であった。
799年、ローマから亡命してきた教皇レオ3世を、フランク王国のカール大帝はパーダーボルンの宮廷へ迎え、両者の間で会談が行われた。そこでは、カール大帝が教皇のローマへの帰還に尽力すること、カール大帝を皇帝として戴冠すること、パーダーボルンに司教座を設置することが取り決められた。約半年後、レオ3世はフランク王国の軍に護衛されて、ローマへと無事帰還した。さらに、翌800年、カール大帝自身もローマへ行き、レオ3世の手で戴冠されて「ローマ皇帝」となった。このきっかけとなったパーダーボルンは、「神聖ローマ帝国誕生の地」と呼ばれることもある(ウィキペディア)
ジョアシャンがこの地を選んだのは、そのような故事に拠っていた。
帝国議会に先だって、帝国クライスの代表会議が行われた。クライス代表と言っても有力諸侯は参加しておらず、参加した諸候中、実際に領地をもった諸候はフランスの属国であるマインツ公爵だけであった。代表会議では当然ローマ帝国の復興を宣言するとの決議がなされ、代表者会議の動議として翌日の帝国議会へ提出されることとなった。

帝国議会前日、新人外交官ミシェル・ド・ロシュモルはジョアシャン1世に従いパーダーボルンに入った。ミシェルにとって明日は最初でおそらく最大の外交イベントである。到着早々国王と共に晩餐を共にすることを許され狂喜したミシェルだったが、数十人の廷臣の末席についただけで若いミシェルは終始緊張したまま過ごし、料理の味はおろか話の内容さえ覚えていなかった。
ミシェルのようなうだつの上がらない貴族の家系のものにとっては、こうした大イベントは貴重な機会だったが、現代ならば中学校に通わねばならない年齢でしかないミシェルに一族の期待を背負わせるというのは無理な話かもしれない。食後、どうにも落ち着かないミシェルは高揚した気持ちを抑えようと館を抜け出し庭園を散歩しながら星を見上げたり、池に映る月を眺めては立ち止まったり上を向いたりして池の周りを歩いた。ミシェルが池を半周すると二つの人影を見つけた。立ち止まったり引き返したりするのも変だな、とミシェルは人影に近づいた。
驚いたことに人影は先程の晩餐で会った皇太子ルイスとオーガスティン・デ・エキュール将軍であった。(実際はレベル6の大元帥)デ・エキュール将軍はヴァロワ朝末期にゼーラントでプロヴァンス軍と戦ったジョスカン・デ・エキュール将軍の末裔であった。彼の家系はジョスカンの代にプロヴァンスに降伏し、以降ブロワ家に忠誠を尽くしていた。将軍が同行しているということは見えないところに警護の兵がいるはずで、ミシェルとしては落ち着かないし、ここに来るまでに変なそぶりはしなかったかと自問した。思い返せはあれやこれや気になってきて、終いには気が気ではなくなってしまった。
皇太子は末席で夕食を共にしただけのミシェルを覚えていて、やはり明日の議会の結果、数百年来の快挙が実現するとあって寝付けないのだ、とミシェルに親しげに話しかけた。
歳も近い二人はそれからしばらくとりとめもない話をした。公の場とは違い、ルイス皇太子は気さくだ、というのがミシェルの印象だった。数代前に枢機卿を輩出したとはいえ、さして名家の出ではない自分にはもったいないくらいに。ミシェルは不敬ではあると思いながらも、今上帝が御隠れあそばされてもこの皇太子を盛り立てていこうといつの間にか決心していた。
皇太子ルイスは、後にその才能を神に愛されたとまで言わしめるほどの人を引き付ける力を生まれながらに持っていた。ミシェルはその片鱗に触れ、虜になってしまったのかもしれなかった。

何やら物音が聞こえて、二人の会話が途切れた。オーガスティン・デ・エキュール将軍が配下の兵から報告を受けているのが遠目で見えた。

ローマ帝国復興

帝国議会の前日の騒ぎは、ポルトガルがカスティーリャと結んで、フランスによる神聖ローマ帝国の復興を妨害せんと、新大陸とイベリアで戦争を始めたという急使が来たためだった。

先の帝国全土を覆った内紛から欧州全土を巻き込んだ戦争ほどではないにせよ、ポルトガル、カスティーリャは膨大な植民地を有する世界帝国である。戦争は大きく長いものになるかもしれなかった。ミシェルは帝国復興の宣言が採択され次第、帝国の藩屏フェズへフェズの大使と共に帝国とフェズにとっての新体制を協議すべく、副使として向かわねばならなくなった。
帝国議会は何事もなかったかのように定刻通り開催され、静かに動議が可決された。パーダーポルンの勅令は即日施行され、フランス王国は神聖ローマ帝国そのものとなり、フランス王国という名が地図から消滅した。
帝国復興の動議とその可決は既になされたことを追認するだけのショーでしかなかった。国旗が双頭の鷲に変えられたことで、諸候らはフランス王家を皇帝家として仰いでいかざるを得ないことを認識した。しかし、帝国臣民は仰ぐ旗が変わったことが彼らの生活にどんな変化を与えるかについて期待を交えて話すことはなかった。

イベリア戦争 1721~25年

1721年7月にポルトガルによって始められた戦争は、ジョアシャン1世の施政に対する周辺国からの回答であったともいえよう。帝国の内紛によって厭戦感情は21.3/21.0、正統性はペナルティで0に低下したところから未だ6にしか回復していなかった。
金や不動産ばかりが財産ではない。信頼という最も大きな、そして元手のかからない、つまり利益率抜群の財産である。このゲームはこのあたりが上手い。ジョアシャンは周辺国と臣民からの信頼を帝国の内紛において失っていた、あるいは、中興した神聖ローマ帝国皇帝としこれから作り上げねばならなかったのだが、その矢先の戦争は痛かった。
後にイベリア戦争と呼ばれるこの戦争は、イベリア半島のみならず新大陸の赤道以北でも戦われた過去最大規模の戦域を舞台としたものだった。

開戦の時点で帝国のオーストリア遠征軍(派遣した時点ではフランス軍)はクリミアにあり、期間の途上だった。所有兵力を単純に比較した場合、ポルトガル、カスティーリャ両国と帝国との間には倍近い戦力差があるが、帝国はウラル山脈西麓からの兵力の帰還途上であったこと、厭戦感情が爆発し各地で民衆が蜂起していたためその対処に兵を差し向けなばならなかったことで、実際に相対する兵力は同等といったところであった。
ジョアシャン帝は最初にこの報に接した時に、ついにイベリアの両王は錯乱したか?!と言ったそうだが、ポルトガル王エンリケ1世とカスティーリャの女王ファナ1世は数学ができない君主ではなかったようだ。

最初に戦端が開かれたのはユカタン半島沖だった。帝国のカリブ海艦隊がポルトガル海軍に奇襲を受けたユカタン海峡海戦は数的優位をもって帝国が辛くも勝利を収めた戦いだったが、旧式のカラベルを中心とした辺境艦隊のダメージは大きく、マヤパン港で数カ月の修理が必要だった。

新大陸では南北からカスティーリャ軍が侵入していくつもの砦を包囲した。ポクマック解囲戦は20,000弱の兵力がぶつかり合った、新大陸では最大規模の戦いだった。アンガーマン将軍率いる第65師団はポクマックの西4キロの地点でカスティーリャ軍と戦い、殲滅した。
トンカワに侵入したカスティーリャ軍はロドリーゴ・コロナド将軍に率いられた2万が、やはり帝国の守備隊2万と戦闘を続けていた。ルイジアナ師団を率いた南ルイジアナ軍司令ジュール・ド・ベルシ将軍は同地へ急行していたが、到着したときには勝敗は決していた。粘り強くカスティーリャ軍の攻撃を耐え抜き、ついに反撃に転じて撃退したトンカワの守備隊のモービル第1連隊連隊長ルブレヒト・エルゲメラーの功績を由として、エルゲメラーを現地昇進させて守備隊を再編成し、ルイジアナ第8師団長とした。この後、ベルシとエルゲメラーはメキシコ湾沿いに南下、ユカタン軍のフェルディナント=マリア・ファイル将軍とベラクルス(トハンカパン)で合流を果たすことになる。
欧州では陸軍のバレンシア占領で港を脱出したカスティーリャ艦隊と帝国の封鎖艦隊との間で発生したバレンシア湾海戦は彼我合わせて40隻ものガレオン船の間で戦われた過去最大規模の海上砲戦だった。戦いは一進一退を続けたが、司令官のいない帝国封鎖艦隊は8隻のカラベルを失いバルセロナ港へ撤退した。旧式艦の運用は無駄な損害を増やし、厭戦感情を上昇させてしまう。ジョアシャン帝は海軍の刷新を決意するが、この戦争には間に合いそうもない。

いくつかの敗戦もあったものの、大勢は動かなかった。「大陸軍ここに参上」とばかりに東部戦線から戻った陸軍主力がイベリアへ到着するに及んで、ポルトガル、次いでカスティーリャとの和平が成立した。しかし足掛け4年に及ぶこの戦争で帝国の厭戦感情はデッドゾーンへと突入してしまっていた。

派閥争い

新大陸戦争が終わってアンハルトのアンスバッハ侵略の救援戦争をしているころ、皇太子ルイスが病に倒れた。ジョアシャン帝は相変わらず反乱鎮圧に座の温まる間もない。世継ぎが病床にあると知ってもヴェルサイユに戻ることができたのは年の明けた1726年3月1日のことであった。
幸い医者の治療が功を奏しルイスは快方に向かったが、ジョアシャンには考えるところがあった。

この当時のヴェルサイユでは、帝位世襲制、不上訴特権の廃止、先の帝国復興の詔をもって神聖ローマ帝国は再興されたのだが、帝国の今後進むべき道について議論がなされていた。

プロイセン、ロシアが不当に占有する帝国の領域(オストラント、リガ、リヴォニアといったバルト海沿岸の飛び地など)を奪い返すために、両国と雌雄を決して東へと拡張すべきだとする一派。主に旧ドイツ系の貴族がこの案を主張した。
イタリア半島を南下し、教皇領と境を接して、シチリアからマルタ、トリポリタニアへと進み、アフリカ北岸を伝ってアレクサンドリア、ユダヤを解放する十字軍的な遠征をせよと主張する一派。こちらはイタリア系の貴族と僧侶を中心とした派閥だ。
どちらの案も現状よりも領土の拡張をせよという点では共通している。東と南の諸国は海外進出を果たせずに、周辺から蚕食されつつある地域であるため征服はそれほど難しくはない。

それに対して、大ローマ主義と呼ばれた一派は、カスティーリャ、イングランド、スウェーデン、ポルトガルといった欧州以外に植民地を持つ列強と、植民地と本国で同時に争い、欧州ではなく海外植民地を獲得して、太陽の沈まない帝国を建設しようという壮大な案を主張した。大ローマ派はフランス、オランダ系の廷臣、軍人が中心になり帝国の商人層を取り込んで大きな勢力を作りつつあった。

各派はそれぞれに出身地域や階層を代表して勢力争いをしており、帝国の百年の計についての議論というのは、すでに勢力争いのための土俵でしかなくなっていた。ジョアシャン帝はそんな派閥争いに辟易し始めていた。

遷都準備令

「パリは寒いのだ。」1709年に15歳から親政をはじめて17年、その治世のほとんどを戦地で過ごした三十路を越えたばかりの皇帝は、玉座に左ひじをつき拳を握ってその上に頬を乗せながら廷臣を目だけで見渡した。名実ともに絶対者となったジョアシャンは迫力、あるいは凄味というべき王者のオーラが増していた。彼が玉座につくだけで廷臣はしんとして、その一挙手一投足を注視した。
どこにでもいるものだが、絶対者の周囲というのは繁殖条件が良いのか、追従とオベッカを上手に使う種類の人間がいることが多い。彼らは決して馬鹿ではない。むしろ絶対者の言わんとすることを素早く理解して、さも最初から自分はこう思っていたのだという風に意見を言う。
アルマン・デ・クーロンはそう言った類の人間だった。もちろん、その中では最も成功した一人だった。財務に明るく実務的であった彼はそれだけではなく、明晰な頭脳と流暢なオック語を話すことができた彼は、追従などしなくとも出世すべくして出世したのだという自負があったし、彼自身は追従とオベッカに終始する連中と同じように見られることは甚だ迷惑だと感じていた。しかし、残念ながら傍目には彼の抗議を是とする者はヴェルサイユには一人もいなかった。彼の心中はともかく、頭脳は今日も明晰かつ的確に仕事をこなし、呼吸器官を使って空気を震わせて作りだした波を口から発して帝王に発言した。それ自体が、彼の自負とは反対の効果を周囲に発しているとは気づかずに。
「遷都をなさるには最低でも数年の準備が必要でございます。」彼の発言を聞いて廷臣がどよめいた。ジョアシャン帝はそれを楽しむかのように、暫く沈黙を保った。

居並ぶ廷臣たちから見れば未だに小僧でしかない年齢の外交官ミシェル・ド・ロシュモルは、やはりその地位にふさわしく部屋の隅から皇帝と重臣のやり取りを見ていることしかできなかった。ミシェルは帝国が戦争で疲れ果て、今上帝が即位して以来、いや、ミシェルが生まれてこの方反乱が起きなかった年、もとい、月はないというのに遷都などと言い出すことに疑問を感じていた。もちろん、世界最強の帝国陸軍をもってすれば、周辺諸国の悪評が地球の公転日数ほどもあろうが気にすることはないのかもしれないし、どれほどの厭戦感情があろうが、反乱などたたきつぶせるだけの兵力もあるのだろうが、果たしてそれは健全な国家運営と言えるのだろうか。

皇帝ジョアシャン1世は、その日は遷都について何も言わずに退席した。皇帝が何もコメントしないと廷臣らは逆に雄弁になった。寒いと仰せであるからには南への遷都に違いない、おそらくは皇家の故地プロヴァンスだろう、というものがあれば、南には違いないが現在の帝国のほぼ真ん中にあるヴェネチアではないか、というものもあった。大方の予想はその2都市に集中したが、ベルリンに首都し東を攻める御考えだ、と自分に都合のいいように流布し始める輩もいた。
ともあれ、皇帝の口から出た言葉は勅令だということになり、遷都準備令として書き留めておくように書記に命じ、この日は解散となった。

ミシェル・ド・ロシュモルは、皇帝の真意を測りかねていた。果たしてジョアシャン1世の真意はどこにあるのか。


帝国復興、ついに果たしました。前回のときにはすでに今とほとんど変わらない領土を持っていたので、議会さえ通過すればすぐだったのですが、その議会がなかなか難しかったです。
神聖ローマ帝国に加わっていると、序盤は帝位争いや皇帝としての援軍が、中盤は帝国の行政改革、〆は帝国の復興と、帝国構成国とのやり取りが楽しさを一層盛り立てますね。帝位世襲制と別の選択肢として、ラント平和令を受けて帝国クライスが選択できるとかどうでしょうか。

さて、ついに神聖ローマ帝国という名前になってしまい、君主も将軍も宮廷の偉人もドイツ風の名前になってしまいました。読みはフランス風に読み替えてカタカナ表記していきますが(笑)
プロヴァンスらしさは全くなくなってしまいました。またしてもプレイ続行の危機か?!
いや、今回はそんなことはありません。続行します。
ですが、物語の中でも今後100年の方針が3つ出てきていますが、プレイヤーも迷っています。

  • 中核州(領有権)が多くあるのはプロイセン、ロシア方面。
  • ローマ帝国っぽい領土でプレイを終えるには、イタリアから北アフリカ、ギリシア方面。
  • タイトルどおりに属州をいっぱいにするにはポルトガル、カスティーリャと対決して植民地を奪う。

さてどうしたものでしょうか。この三択のうちのひとつを選択して

  • インド、アジア方面への足がかりの建設する。
  • プレイ終了時の悪評を悪評限界内に収める。

というあたりを目標に残りの約100年をプレイしてみたいと思います。

余談ですが、帝国復興のイベントでOKボタンに「冠を我が手に」という文字がありますけど、手手にしても被らないとなぁとちょっとだけ思っちゃいました。

冠を我が手に
 

à suivre


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Last-modified: 2010-08-08 (日) 06:29:31 (3181d)