皇帝と教皇

北欧の雄であり中東のシャーハンシャー(諸王の王)スウェーデンがデンマークの人的同君連合に組み入れられたころの欧州は、神聖ローマ帝国の中興が成り、皇帝ジョアシャン1世の支配がようやく落ち着いてきたころだった。
後に大帝とも、最初の啓蒙専制君主とも呼ばれるジョアシャン1世の治世を振り返る上で、少々整理をしておこう。

啓蒙専制君主とは、啓蒙思想を掲げる絶対君主として理解されがちであるが、そもそも絶対君主と啓蒙専制君主は全く違うタイプの手法で王権を強化しようとした君主を呼び分けたものであることを認識しなくてはならない。
絶対君主が身分団体や経済的特権団体などの「社団」を利用して君主権を強化したことに対して、啓蒙専制君主はその反対に「社団」の弱体化や特権剥奪によって君主権強化を図ったものである。すなわち、啓蒙専制君主とは「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出した君主をいうのである。

ブロワ朝神聖ローマ帝国の歴代君主をあえて分類するならば、小領邦の棟梁であったシャルル3世、シャルル4世、ルイス2世は封建君主であり、フランス統一国家を完成させたルイス3世から、アンリ2世、アンリ3世は支配領域が大きくなったもののやはり封建君主であった。皇帝に選出されたルイス4世、ルイス5世もそれは変わらない。しかし中央集権化への努力は徐々に結実しつつあった。

絶対君主の代表選手のように言われるフランソワ1世は有名な「L'État, c'est moi 」というセリフを残している。彼とその後に続いたシャルル6世、ジャン1世、フランソワ2世は貴族、教会、ギルドを利用して王権の強化を行ったいわゆる絶対君主であった。この時期、ヴェルサイユを中心とした貴族文化が繚乱となった。

ジョアシャン1世は「ベルリン勅令」で帝国諸候の特権を剥奪し、「ナントの勅令」以来の一連の宗教政策でカソリックの優位性、影響力を低下させ、ギルドの国家管理を強行した。
つまり、啓蒙専制君主と呼ばれるジョアシャン1世の成したことは、フランソワ1世から連なる絶対君主の築き上げたものの破壊である。諸候、貴族の特権を剥奪することによって王権=帝権の強化を図った。ジョアシャン帝の1726年の遷都準備令はもう一つの、そして最も手ごわい相手から特権を奪う目的が秘められていた。

啓蒙専制君主の宗教政策

ジョアシャン帝はチュニジア戦争で紅海の出口を扼するソコトラ島を得、ソコトラを足場に香料諸島の入り口マラッカを征服した。東アジアへの足掛かりを得たジョアシャン帝は1729年5月に「東インド会社設立」の勅令を「株式会社法」と合わせて発布した。

ケルン再征服戦争と平民出の将軍

1729年8月27日にケルンの再征服を掲げてジョアシャン帝は宣戦布告した。しかし帝国の言い分を帝国が再興した際に参加しなかったオーストリア、プロイセン、プファルツ、ヴュルテンベルク、アンスバッハの各国は帝国の領有権を認めず、反抗。もっとも、領有権を認めてしまえば、同じく帝国から離反した自国の拠って立つところを失ってしまうのだから当然ではあった。

ケルン再征服戦争において特筆すべきことは、東部方面軍を預かるヘクトル・ブリルツ将軍はいわゆる第三身分の出身のドイツ人であったということである。

数代前に絶頂期を迎えたフランス貴族主義は新大陸の発展と帝国領域の拡大に伴って商圏が拡大し力を付けてきた商人階級の台頭によって衰退しつつあった。陸軍士官学校出身の第三身分、被征服国出身の将軍がすでに多く輩出されて陸軍の将帥の勢力地図は変わり始めていた。陸軍の勢力図は帝国の縮図でもあった。

権利の章典と教皇

商工者の相対的な地位向上を貴族や僧侶の力を削ぐために利用したジョアシャン帝によって発布された1727年の詔、いわゆる「権利の章典」は第三身分および被征服民に一定の人権を保障する内容で、すべての臣民という形で皇帝以外のすべての人間の権利を保障すると同時に制約した。貴族や僧侶等の特権階級から反発は当然受けることとなったが、「権利の章典」によって均質な国民を創出することで帝権の強化を図るジョアシャン帝はその全ての反対意見を黙殺した。

均質な国民を創造するつもりであったジョアシャン帝にとって、中興したローマ帝国には宗教の壁は必要なかった。以前の帝国であればキリスト教を国教とする国以外の加入はできなかったが、「新生」ローマ帝国はムスリムだろうがブッディストだろうが加入可能だった。(征服しちゃうから加入申し込みとかないし)ジョアシャン帝の打ちだした帝国の内政政策は民族や階級だけでなく宗教的にも改革を行う内容であった。かつてルター派と呼ばれた一部宗教家による反カソリック教会運動が起きた時期があった。1733年の現在ではノルウェーの一部とアイルランド島のみでその教義が信奉されている少数派だが、ジョアシャンが採用した内政政策はその少数派の教義を取り入れ、あるいは応用したものだった。つまり個人が教会を通じずに直接神と相対するという教義を、世俗の特権階級などを介さずに臣民が直接皇帝に相対する形をとることで完成する、少なくともジョアシャン帝はそう考えていた。
「ナントの勅令」はカソリック以外のキリスト教の各派の信仰を許容し、「博愛の精神」と呼ばれる1727年の勅令は事実上異教の存在を認める、宗教的な壁の撤廃ともいうべき勅令であった。

時の教皇イウリウス2世は皇帝の「ナントの勅令」「博愛の精神」なる悪魔の策謀がヴァチカンの帝国内での地位を相対的に貶め、「権利の章典」が教会をムスリムと同等のものであると規定したことは看破していた。しかし、圧倒的な兵力差は神の代弁者といえども皇帝と対等に話すことを困難にしていたし、数百年間のオック人による属国的な支配によって、ヴァチカン内部においてすらイウリウス2世は迂闊に自らの考えを口に出すことはできないでいた。それでもこれまでの皇帝は、教皇に対して腫れ物に触るように接してきたものだった。イウリウス2世はジョアシャン帝の施政になにやらいやな予感を覚えていた。

皇帝の新しい勅令が帝国内に沁みわたると、
「皇帝は教皇の御者だが、最近は御者が馬車に上がるときに教皇が身をかがめ、御者はその背を踏んで上がるらしい」「いやそうではない。皇帝は教皇の御者だが、行く先を決めるのは御者の方らしい」ローマ市内ですら口さがないものはそう言って、教皇を肴に酒を飲むという。
ヴァチカンの相対的地位の低下を狙ったジョアシャン帝の政策は功を奏したといえた。
皇帝は次の一手を打つ準備を終えたと判断した。

教皇の島流し

1730年代の経済政策

ギルドの国家管理、国立銀行の設置、東インド会社の株式を国家が保有、帝国の経済政策はジョアシャン帝の代に大きく前進した。
帝国の次なる課題は90年前からの事業であるインフレ問題であった。ヴェルサイユ宮殿造営担当者として有名な財務卿セバスティアン・ル・テリエの創始した対インフレシステムは開始当初68.1ポイントという酷い状況を、90年後の1730年代には40.6ポイントにまで減少させていた。現在、王朝の正統性と悪評低下のために、財務担当官を雇用する枠がなかったが、1730年代後半には外交重視(正統性及び悪評対策)の人事を財務重視の人事へと刷新する用意があり、インフレについてはもちろん、金本位制導入に向けた長期的な経済対策が進行中であった。

対外政策と概況

イタリア戦争直前の欧州

ジョアシャン帝の征服事業といわれるものは、実は多くはない。戦争は慢性的に行っていたが、帝国の公文書には「叛徒の平定」「反乱鎮圧」と記録される帝国領域内を対象とした再統一戦争であったからだ。
度重なるジョアシャン帝の征服事業は国内には叛乱、諸外国からは非難を浴びていたかのように後世言われることがあるが、帝国中興の完成されつつある1730年代初頭での帝国の悪評は10.0、厭戦感情は6.71でしかない。安定度は+3で国威は+99。この時点で問題なのは正統性が38であることだが、オーガスティン・デ・エキュールの+6.0厭戦感情-1.3で毎年4.7の上昇が見込まれている。25年前のベルリン勅令のときのよりもむしろ好転していた。
帝国中興までの、また中興後の統合戦争において、「帝国主義」もしくは「再征服」での戦争を徹底し、短期戦を行えるよう準備を整えた戦争運営の成果であった。

イタリア戦争序盤の流れ

1733年にモデナの帝国復帰(領有権)を主張してモデナ戦争が始まった。イタリア戦争序盤戦とも言われる北イタリアを戦場とした戦争は数カ月で決着がつき、フィレンツェ、ピサ、シエナを帝国へ復帰(割譲)させた。

1734~35年にはブルガリア戦争が起った。こちらはイベリア、新大陸以外での初めての帝国領域外への征服戦争で、ゼタ、コソボ、マケドニア、エディルネ、トラキアを帝国領土に加えることに成功した。
しかし2年のうちに悪評は16ポイントも上昇。厭戦感情は2ケタに達した。

ジョアシャン帝は4年の冷却期間をおいて、イタリア戦争中盤戦とおも言われるナポリ戦争を開始。アンコーナ、アブルッツィ、アブーリア、カラブリアを帝国に加えることに成功した。
つまり、教皇領包囲体制は完了しつつあったのだった。

教皇戦争(イタリア戦争)

1742年1月、ジョアシャン帝の帝国宗教政策は最終局面を迎えた。
帝国は教皇領からの防衛部隊を退去。防衛費負担義務を解除した。これは属国として収入の50%を帝国に納めずに済むということで、教皇領としては負担が減り喜ぶべきことである、と皇帝の使者は親書に添えて言った。その、さも有難がれと言わんばかりのいいように教皇は憤慨したと言われる。

翌2月には、「上告禁止法」を発布。同法はあらゆる宗教問題の最終決定権を皇帝に委譲するものとされた、実質的に教皇の降格を法的に定めたものであった。
教皇は御者に振り落とされたのだ。

5月、満を持してジョアシャン帝は「上告禁止法」を承諾しない教皇ピウス6世にヴァチカンを明け渡すよう求めた最後通告をおこなった。

当然教皇はそれをよしとせず、カソリック諸候に聖戦を呼び掛けた。ここに、教皇戦争(イタリア戦争)が開始された。この戦争がイタリア戦争とも呼ばれるのは、トスカナ、ナポリ、パルマのが教皇側について参戦し、イタリアのほぼ全域で戦われた戦争であるからだが、1733年のパルマ侵攻からの10年間を指してイタリア戦争とすることも多い。いずれにせよ、この10年で力を削がれたイタリア諸候が結集したところで、帝国陸軍に対して抵抗らしい抵抗を行うことはかなわなかった。

シャルルマーニュの寄進状によれば、800年にカール大帝によって教皇に寄進されたとされるローマは、ルネサンスの一大中心地として栄え、一時はフランス、オーストリア、ナポリ、カスティーリャ、イングランドなどの王を破門し屈服させるなど、欧州の大実力者の居城でもあった。
ローマの街並みは古代帝国の首都の頃とはだいぶ様子が変わっていた。ルネサンス期から対抗宗教改革期のバロック様式、近年のロココ様式の建物が17世紀以降に区画整理された3本の道沿いに並んでいた。
1742年7月11日、イタリア方面軍司令ベルナール・オールネー将軍はローマ入城を果たした。
永遠の都ローマにローマ人以外の軍靴の音が響くのはここ数百年珍しいことではなかったが、今回ばかりはローマの市民たちも事の成り行きをじっと見守っていた。

占領されたヴァチカンを含むローマ全市は皇帝の直轄地として教皇ピウス6世から召し上げられた。教皇には新たにサルディニア島が与えられ、ローマは神聖ローマ帝国の一部となった。帝国内での「宗教改革」はこれにより勢いを増した。「ナントの勅令」以降非カソリックに科されてきた十分の一税もこの機会に廃止された。カソリックは他宗派と同じ扱いとされ、異教についても一定の税を納めることによって帝国内での信仰を許された。「博愛の精神」とは言うものの特権的カソリック聖職者にとっては、皇帝の愛など感じる事はなかった。カソリック聖職者の春は終わり、突然冬がやってきた。

イタリア戦争自体は1743年12月のトスカナ降伏まで続けられたが、ジョアシャン1世はその3か月前、ローマ視察からの帰還途上、病に倒れ治療のかいなくフィレンツェで9月19日に崩御した。
カソリック信仰が特に篤い地域であったため、原理主義者による暗殺の噂もあった。原理主義者からすれば、教皇をサルディニアへ動座させるなど冒涜そのものであり、皇帝の死は当然の報いであって、暗殺だろうが病死だろうが、それ見たことかとプロパガンダに利用した。しかし、当の教皇本人は、この事件が折角一命を取り留めた教皇庁を再び危機に陥れるのではないかと気が気ではなかった。

ルイス6世の治世1743年9月19日~

ルイス6世は幼少の頃より、神に愛された才能を持つ皇太子との誉れ高い人物で、ブロワ家始まって以来の天才だった。一芸に秀でたブロワの棟梁は何人もいたが、外交、行政、軍事の全てにおいて高い能力を発揮しうる才能をもって生まれたのは、ブロワ家の歴史上ルイス6世が初めてだった。

イタリア戦争の処理

ルイス6世の仕事はまずイタリア戦争を終結させることであった。先帝の死に幾ばくかの謎があったとしても、それを荒立てるつもりはなかった。帝国としては皇帝が暗殺されるなどという事態を公認するわけにはいかなかったし、最重要地域ではあったが、イタリアだけに手を煩わせているわけにもいかなかった。

アフリカに国家が移動してしまったトスカナを攻略すべく派遣したノートルダム騎士団(1.5個師団相当3万名)がチュニスを陥落させたのが1743年12月初頭。その後チュニスの割譲とモロッコの独立を認めさせ、トスカナは降伏した。

イタリア戦争によって、イタリア半島の非帝国領域はパルマ、ナポリ、ロマーニャの3州のみとなった。ナポリ王国を解体した際に建国されたシチリア王国が新たに地図に書き加えられた。トスカナとパルマは北アフリカに領土を保持していたが、数年単位でその維持が可能かどうかも怪しい状態だった。
イタリア戦争終結直後の悪評は47.3、国威、正統性は共に100、厭戦感情は8.35、安定度+3、国庫には20471ダカットの蓄財、インフレは20.7であった。
悪評47.3/38.0はルイス6世政権の能力をもってすれば、4~5年で悪評限界内に持っていくことができると考えられた。

外交官と戴冠式

この半年というもの、外交官ミシェル・ド・ロシュモルは多忙だった。
イタリア戦争の後始末と新帝の即位で帝国重臣はだれもが程度の差こそあれ忙しかったのだが、ミシェルは多忙という文字を当てて表現するのが生ぬるいくらい忙しかった。

プロヴァンス=フランス時代に内閣制が取り入れられたのは17世紀のことだったが、神聖ローマ帝国となってからは実際に組閣を命じられたのはエキュール退役元帥が初めてだった。人望、決断力ともに申し分ない人物だったし、老境に差し掛かった経験豊富な、ルイス6世の育ての親とも言うべき忠義の臣を内閣という皇帝の諮問機関の長に据えるのはルイス6世にとって最良の人事であった。

5月半にエキュールはチュニス及びアフリカ軍団視察に向かうためにマルセイユへ向かうことになっていたのだが、出発を間近にした朝突然帰らぬ人となってしまった。オーガスティン・デ・エキュールの代わりに首相となったラウル・ド・ラ・トゥール・ドヴェルニュは後任外務卿としてミシェル・ド・ロシュモルを推挙したのが半年前。以来ミシェルは、働き過ぎで胃に穴があいたという往年の名宰相ジョルダン・ド・リベルタもかくやというレベルで仕事をこなしていった。
彼を忙しくさせていたのは来年9月に予定されている戴冠式だった。ルイス6世の戴冠式はローマで行う。対外的なデモンストレーションとして、国内の諸侯に対してもローマで行う意味は大きい。なにしろ、ルイス6世はローマ帝国の皇帝なのだから。
さらに今回の戴冠式は教皇との決別と宗教的な平等を示すためのショーとしての位置付けが、外務卿の守備範囲であると敬愛するルイス6世に微笑しながら言いきられては、ミシェルにできることは胃に穴があいても働くことだけだったのだ。外務卿の職分は現代の外務大臣の仕事にだいぶ近いものとなってきてはいたが、戴冠式の仕切りを聖職者から奪うことが今回の戴冠式の目的でもあったため、彼の休息は戴冠式が終わるまであり得なかった。

新帝の戴冠式は帝国再興の宣言がされてから初めてである。諸侯の盟主ではなくローマ皇帝としての戴冠であり、以後王朝が続く限り踏襲されていくであろう大事な戴冠式だった。
新帝は、プロヴァンス、フランス、ドイツ、ボヘミア、イタリアの王として別々に戴冠式を行う。エクスにはじまりパリ、ミュンヘン、プラハ、フィレンツェと巡り、最後に皇帝の冠を頂くためにローマへやってきた。

ブロワ朝が復興させるまでの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のフランス、ドイツからハンガリー、イタリアまでを領土としているもののローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。それが今回のローマ征服、同地での戴冠により、「ローマ帝国」としての体裁が整うことになった。

ローマへ到着した新帝は翌日、サン・ピエトロ大聖堂へ向かった。
サン・ピエトロ大聖堂は、その装飾と外観は宗教芸術の粋を極め、建築物自体が宝物であるかのようだったが、その建設費用を調達するためとして贖宥状(いわゆる免罪符)が発行され、マルティン・ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった、非カソリックにはいわくつきの建築物である。

ルイス6世の戴冠式は今回そのサン・ピエトロ大聖堂で挙行されたが、従来の成聖式ではない。皇帝は聖職者に聖油を与えられるのではなかったしその聖職者も教皇ではなかった。皇帝は膝まづかず、聖油の入った器から自分で油を塗った。そして冠も自らの手によって頭に戴いた。
いわくつきの大聖堂で既存の聖職者の権威を無視して見せることで、政治的に教皇の地位はまた下げられることになった。ルイス6世は彼の外務卿の演出に満足した。

大海軍建設と東地中海の覇権

1750年頃の欧州

「海上覇権の獲得」が急務である。それはジョアシャン帝の御世からの課題であった。
ルイス6世の時代に海軍増強計画が完了し、戦闘用ガレオン57隻が次々に竣工、扶養限界の164隻に達した。帝国海軍は100隻の戦列艦(戦闘用ガレオン、ガレオン、カラベル)をリューベックを母港とする北岸艦隊に30隻、マルセイユを母港とする南岸艦隊に30隻、ルイジアナ艦隊に30隻(うち10隻は隷下のカリブ海艦隊)、東洋艦隊に10隻の4つに分けて配備。輸送艦隊はA~Cの3艦隊。A艦隊25隻は北岸艦隊と、B艦隊25隻は南岸艦隊と共に配備、C艦隊12隻は基本的に東洋艦隊と行動を共にするが、単独での封鎖任務を行うことが考えられるため、戦利捕獲艦のガレアス級を2隻配備した。

世界最大の海軍を建設したとはいえ、各艦隊の担当正面では、仮想敵国海軍との戦力差は圧倒的ではなかった。カリブ海やマラッカの艦隊は未だにカラベルを装備していたし、コグが混じっている輸送艦隊もあった。旧式艦を用いた海戦で苦い思いをしたことがあるにもかかわらず、船の数をそろえることはしても、既存の船を新型へと入れ替えることは、建設途上の帝国海軍にとっては次の増強計画での課題とされた。
帝国は欧州という巨大半島の北岸と南岸にそれぞれ艦隊を配備していた。北岸艦隊はバルト海、北海を担当し、南岸艦隊は東地中海、黒海を担当した。イベリア、ブリテンの諸国と事を構えるときは南北の艦隊をジョイントした連合艦隊を編成しこれに当たることになるが、その3つの戦域で同時に戦争するということは想定されていなかった。また、海軍に重きを置く国に比べても異常なまでに大きな輸送艦隊の編成は、上陸作戦を伝統的に多用してきたブロワ家の戦争によって特化したもので、帝国海軍の特徴ともなっていた。25隻という輸送艦隊の定数は、17世紀後半から周辺国の師団(軍か?)の連隊定数が30連隊ほどになってきたのに対応し、陸軍が1個師団(1ユニット)の連隊定数を20連隊から25連隊に改編したことに対応していた。

1745年4月に始まったオスマン-帝国懲罰戦争と、1748年の7月、12月に戦われたアルバニア再征服戦争と南イタリア戦争によって、イスラム諸国と旧イタリア諸邦の海軍を完全に撃破し、小アジアと北アフリカに領土を獲得、艦隊の拠点を得た帝国は東地中海の制海権をほぼ掌握した。帝国南岸艦隊にとってこの戦域で脅威となりうる海上兵力はスウェーデン海軍のみとなった。
ちなみに、北岸艦隊にとっても仮想敵とする海軍はスウェーデンであったが、帝国とスウェーデンは現在友好関係にあった。大欧州半島沿岸の勢力争いは、その焦点を半島突端部に移すことになった。

ルイス6世の治世のおわり

ジョアシャン~ルイス6世の治世で中央集権化が図られたとするのは間違いである。
両帝の事蹟は中世的権威と特権の撤廃であり、「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出した啓蒙専制君主による統治のはじまりであった。
ルイス6世はその治世の晩年に議会解散法を1748年9月5日に、鉱業法を11月10日に制定した。
貴族らの議会を上院、第三身分の議会を下院とし、両院は3年ごとの議会の解散、再招集を行うものとした。これは皇帝の権力低下になったと言われるが、そうではない。二院の地位を同等と位置付けたことにより、特権階級の地位を低下させているので、相対的に皇帝の地位はさらに貴族から遠い存在になった。
しかしながら第三身分と呼ばれる、帝国の人口のほとんどを占める階層の地位向上は、帝国にまた新たな進化を要求してくるかもしれない。

1752年7月13日、ルイス6世は自らのなしたことの影響を見る機会のないまま永眠した。
享年35歳であった。

よくわかる近世ヨーロッパより

ジャン1世シャルル(ヨハン1世カール)・ド・ブロワ 1752年7月13日~

摂政内閣とシチリア(南イタリア)戦争

カエルの子はカエル、天才の子は天才なのか、ジャン=シャルルの行政7、外交8、軍事8の天才であった。しかし如何せんまだ10歳、5年間の摂政評議会の統治は避けることはできなかった。
ミシェル・ド・ロシュモルは当時首相として組閣したばかりだったが、皇帝の輔弼機関として内閣は新帝成人の日まで政務を代行することとなった。昔で言うところの摂政卿と同じ役目であった。
ロシュモル内閣は周辺諸国との関係改善(悪評の低下)を最重要課題として取り組んだが、1753年1月に教皇が帝国を御者に指名したこと以外は大きな成果もなく、逆に大過もなく摂政期間を終えるかに思えた。

1750年の新大陸

1755年のシチリア戦争はプロイセン、イングランド、トランシルバニアの介入を招いた。イングランドの参戦で戦場は新大陸にも広がった。

新大陸沿岸の海賊退治で鳴らしたレオポール・ジャン・マイヤー(レオポルト・ヨハン・マイヤー)提督が序盤のフロリダ海峡海戦で戦闘用ガレオン14隻を失い敗走、全滅は免れたがイングランド海軍の精強さを思い知らされた。新大陸方面の海軍は港に逼塞せねばならなかった。

しかし、陸では負け知らずであった。新大陸北部を守るアントン・ギーヴァー将軍はアビティビへ攻めよせたイングランド軍を撃退、ムース・クリーへ逆侵攻を開始した。南でもアタカバでイングランド軍を破りアタカバを包囲した。

トランシルバニアはソルノクへ兵をすすめたが、あいた本国を落されあっけなく降伏。
プロイセンはこの度の戦争においてその国土の全てを占領され、かねてから帝国が主張してきた旧領土であるリヴォニア、リガ、エーゼル、クールラント、カリシュ、ホルシュタインを割譲するという条件をプロイセン共和国ハインリヒ・フォン・デルフリンガー・ファン・オラニエ護国卿が受け入れたことによって、旧帝国領土全て放棄することになった。

ジャン1世シャルルによる親政

1756年7月13日、戴冠式ツアーから戻ったジャン1世シャルルによる親政はシチリア戦争の終結に関する文書にサインすることから開始された。
14歳のジャン=シャルルに12歳の世継ぎアンリ(ハインリヒ)が登場したが、誰の子なのか。弟?いとこ?何者?。

信仰寛容の宣言

身分が高くなればなるほど信仰心は低くなるという言葉が真実を含んでいるのであれば、皇帝ジャン1世シャルルの信仰心は皆無であり、マーセラス2世教皇も同様であるはずだった。
信仰心の有無が疑わしい二人にとって不幸なことは、カソリック信者が臣民のほとんどであるにもかかわらず、皇帝は教皇を必要としなかったのに対し、教皇は事あるごとに若い皇帝に対して自らの一喜一憂を親書にして届けさせるほどに皇帝を必要としていたことだった。いや、教皇は皇帝に宗教問題については依然意見を言い得るという立場にあるということをアピールし続ける必要がった。自らと教皇庁の未来のために。
皇帝は若く、教皇は年老いていた。若い皇帝は年寄りからの手紙を煩わしく感じたし、内容も今日はどこどこの州がプロテスタントになった、明日はあっちの州がギリシャ正教になるだろう、という内容ばかりだった。
少年と言ってよい年齢の皇帝にとっては教皇の年齢による寂寞感なぞ知る由もなかったし、必要もなかった。もっとも必要のないものは教皇のスタンドプレイであると若く賢い皇帝は看破したときから、教皇からの手紙を絶えさせる方法を考え付くまでに多くの時間を必要としなかった。

1759年4月29日、皇帝ジャン1世シャルルの名において「信仰寛容の宣言」がなされた。この宣言は国教以外の宗教を禁止する全ての法を廃止し、平等に礼拝の自由や、軍役や公職の分野における職業選択の自由を与えた。この宣言は皇帝の名においてなされたのであるから、言うまでもなく勅令である。この勅令はサルディニアに逃げのびた教皇庁に逼塞する老いた教皇にとどめというべき政治的な打撃を与えた。
ジャン1世シャルルのとった政策をもって、帝国は絶対主義から啓蒙専制君主制へと変化したと歴史家は言うが、「信仰寛容の宣言」は「ナントの勅令」「権利の章典」「博愛の精神」「議会解散法」に続いて実行された欧州の中世からの脱却を印象付ける出来事のひとつとして記録されるべきであり、帝国の絶対制から啓蒙君主制へのシフトはジョアシャン帝、ルイス6世帝、ジャン1世シャルル帝の三代に渡って徐々に行われたというのが正確なところだろう。前出の本文のようにジャン1世シャルルは年老いた教皇のスタンドプレイが煩わしかったというのは正直なところだろうが、周辺諸国の指導者は、そのスタンドプレイは何故行われるのかについて若いながらに考えが及んだところにも着目すべきであった。

ザルツブルク再征服戦争 1761年5月~10月       

1761年5月に始まったザルツブルク再征服戦争は、帝国の宗教政策、第三身分に対する権利付与題を旧来の欧州秩序の破壊であると、危機感を覚えたオーストリア(中央アジアだが)を盟主にプロイセン、ブルガリア、バイエルンが次々に宣戦。戦果は拡大した。
教皇に対する仕打ちを目の当たりにしたはずの連合国であったが、旧来の秩序破壊を糾弾するという形をとるという愚を犯したことに気がついてはいなかった。
中世的秩序と権威、これを破壊しないことには、ローマというもっとも古い帝国の名を冠した啓蒙君主に率いられた国は成り立たない。ジャン1世シャルルはそれを理解していたし、行く手を阻む者に対しては全く容赦がなかった。
連合軍はあっという間に帝国の大軍に飲み込まれ、7月1日までにバイエルン、ザルツブルクは降伏・併合され、ブルガリアもほぼ全土が占領されようとしていた。
ブルガリア攻略を終えた帝国東方軍集団はスウェーデンとの通行許可条約が有効であることを確認すると、この2世紀に何度も通った道を黒海を右に見ながら進んだ。オーストリア軍と毎度交戦するアゾフで勝利をおさめた数日後、10月中旬のプロイセン降伏を受けてオーストリアとの間で休戦協定が結ばれたのが10月24日のことであった。

1762年2月1日、教皇は帝国を御者とした。教皇にとって帝国と皇帝は依然必要な存在であり、自らの存在と必要性をアピールする必要がまだまだあったのだった。

新大陸であがった狼煙と軍制改革

ザルツブルク再征服戦争の結果、欧州において帝国に敵対する勢力はほぼ駆逐された。あとは残された小領邦を併呑していく作業だけであると思われた。
しかし、大西洋を隔てた対岸の大陸で事件が起きた。
1764年にカリブ海のはずれの小島ハイチが独立宣言。さらに、1765年8月12日にはルイジアナ植民地でアメリカ独立運動という名のイベリア勢力によって起こされた植民者の扇動事件は、66年4月までに武力鎮圧をしたものの、下手な中級国家よりも強力な抵抗を見せ、陸軍関係者に冷や汗をかかせた。
1766年のマゾヴィアからの援軍要請は、ウクライナによる侵攻が1月10日、プロイセンの侵攻が11月15日。いずれも数週間で撃退したが、帝国東部国境の安定化のためには、ウクライナ、プロイセンの無力化が必要であると感じさせた。
戦後、帝国はクールホルン砲、アルメブランシュ騎兵、キャロライン歩兵を合わせて100個連隊増設することを決定した。
新設の連隊は東部国境と、来るべき叛徒との対決に備えて新大陸に多く配備された。

アンリ(ハインリヒ)4世 1767年4月10日~

遺産

帝位を継承したアンリ4世は、先帝からもう一つのモノを受け継いだ。
教皇は毎月呆然としたり、驚嘆したり、懸念したり、激怒していた。皇帝の「宗教的少数派の支援」(地方暴動発生確率:-100%、地方税修正:-5.0%、政務官が一人減少)政策は、信仰の自由を認めたことで、多くの国民が改革派への改宗を決意。ローマ教皇大使は急ぎ教会の懸念を我が国に伝えた。
しかし皇帝は教皇の意向を完全に黙殺した。皇帝にとって教皇は冠婚葬祭のシキタリを伝える帝国行政機関の一長官でしかなかったし、うるさいジジイだった。
このとき皇帝が形だけでももう少しだけ教皇に譲歩していれば後の悲劇は起こらなかったかもしれないと言う歴史研究家もいるが、歴史は人類の足跡、その積み重ねであり、後世に正確に伝えねばならない人類全体の遺産である。少なくとも責任ある立場の学究の徒がタラレバで語るべきものではない。個人の趣味趣向の中で過去へと思いを馳せたり、タラがレバーを肴に生ビールを飲んでいる妄想でもしている分には最良の部類の楽しみのひとつである事は間違いないのだが。

惨劇

さて、現実には愛の宗教を信じるものとて原理主義に陥れば、暗くジメジメとした思考回路から生まれる、およそ愛とは程遠い行動でしか事をなせないという帰結を迎えてしまうもののようだ。その中でも最悪の部類の者は自分たちに立ちはだかるものに対してではなく、その対象の身内に危害を加えるテロルを好むものだ。
今回のテロルはその最悪の原理主義者に暗くうすら寒い微笑を与える結果となって結実した。

皇太子レオポール=フェルディナン(レオポルト・フェルディナント)が狩猟中に行方不明となって3日目のことだった。捜索隊が狩場から数キロ離れた森で見つけたのは目を覆いたくなるような光景だった。発見者とともに現場に駆け付けた帝国騎士によればこうだ。
「誰かが殿下の体にかけておいてくれた白い布は、殿下の体から流れ出した血で赤黒く染まっていた。最初に発見された時、殿下は、森の空き地で彼の愛馬のそばに倒れていたのだという。おそるおそる近づき、勇気をふるって血で汚れた白い布をめくり、殿下にそっと触れてみる。辛いことだが、やはりこれは現実だ。指先から伝わってきたのは、死の冷たさそのものだった。」

現場には犯人を特定するための証拠は何も残されていなかった。しかし、皇帝は皇太子の死をサルディニア(教皇庁)の仕業と決めつけた。当初「狩猟中の事故」として処理されるはずだった事件の矛先が向けられた教皇マーセラス2世は当然事件への関与を否定した。彼はテロを支持するほどあさはかではなかったし、皇帝とのやり取りは彼にとっては信徒へのアピールでしかなかった。このまま皇帝に宣戦の口実を与えぬまま、教皇が皇帝に宗教関連の意見をすることができるという既成事実を作り上げれば、ジャン1世シャルルの代につき放された皇帝と教皇の関係を修復できると考えていたのだ。
しかし、状況的にはかなり不利な状況にある。
そのことを理解する程度の聡明さは持ち合わせていた。信徒の独断、独走であるといいきるには、事件は教皇庁と帝室との関係が傍目には最悪の状況に陥っているように見えたときに起きたため、マーセラス2世本人ですら潔白を主張するには無理があると認めざるを得なかった。マーセラス2世自身の判断ではないにせよ、彼のスタンドプレイを真に受けた教皇庁関係者の関与を否定しきれるものではなかったし、開き直って黒いものを白いと主張してまかり通る数百年前のような力は今の教皇庁にはなかった。マーセラス2世は先帝に比べれば凡庸で与しやすいと考えていたアンリ4世に舌を巻いた。

結末

11月1日、皇帝アンリ4世は教皇庁に宣戦。テロリストの引き渡しと、教皇による全面的な謝罪を求めた。
パルマが教皇に味方したが、1カ月とたたぬうちに教皇に味方したことを彼らは後悔することになった。教皇領は12月中に降伏、マーセラス2世はローマに対する領有権を放棄し、皇帝の忠実な僕となることを誓約させられてしまった。教皇領は帝国の属領となったのだ。

エクサンプロヴァンスから始まったブロワ朝が、街の守護聖人であるマグダラのマリアを「悔悛した罪の女」「罪深い女」「姦通の女」「姦淫の女」としたカソリック教会を事実上壊滅させたのは考えさせられるできごとであった。


前章よりのジョアシャン帝の目論見はローマ征服、教皇追放で一段落しました。
ですが、まだ遷都は行われていません。遷都を行うにはローマが中核化する1799年を待たねばならないのです。
この物語ではジョアシャン帝は絶対主義から啓蒙専制君主への過渡期、あるいは先駆けとして登場しています。実際の欧州では色々な国で様々な過程を経験して成立していくのことなのでしょうが、この物語では帝国がNATOのような領域のを一元支配するため欧州では、政治と宗教の多様性が起きていません。教皇はローマにあり続けてもいいかなぁとも思っていましたが、、「啓蒙専制君主制」への変更が可能になり、まんま続けても力で欧州制圧してゲーム終了ってことになってしまいかねないので、既存の勢力を全部やっつけてみようとか思いました。
カソリックで統一された欧州。教皇がローマにあり、帝国は対抗宗教改革でカソリックを保護。カソリックで統一されていて、安定していたが、教皇権が強力なままの帝国はいずれ中世のそれと同じように2元支配に陥るかのかな、それも面白いけれど、教皇をやっつけることにしました。
教皇をやっつけるという課題を達成する条件は、「国教であるカソリックと異端、異教との寛容度の差をできる限りなくす」ことと、教皇をローマから追い払うこと。まあまあのとこまでいけたと思っています。

1760年の状況
 

à suivre


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Last-modified: 2010-08-09 (月) 05:27:15 (3180d)