東からの十字軍(グルジア)①15世紀

まずは背景を

グルジアの歴史は古く、ギリシア神話のアルゴスの探検に豊かなコルキス人として顕れている。紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャの一部、その後独自の王朝をもったが、ローマ、ササン朝ペルシャの係争地となりながらも、長くローマ~ビザンティン帝国の支配下にあった。もちろんギリシャ正教の国である。
11世紀のセルジュークトルコのカフカス侵入以来、グルジアは苦難の連続であった。12世紀にダヴィド4世がスルタンを破り、トビリシが奪還された。このころからグルジアは中興し、ダヴィドの子ギオルギ3世とその娘タマラ女王の頃最盛期を迎えた。タマラ女王は正教会に聖人とされているが、その称号にはイランの称号「シャー」が含まれていることから、グルジアはムスリムを含む多宗教多民族の国であったようだとされている。
1223年にギオルギ4世がモンゴルとの戦いの中で陣没。モンゴルの通過したあと、ホラズムに首都トビリシを奪われ、その後モンゴルの支配をうけた。
1335年にゲオルギ5世光輝王がモンゴルを追い出してグルジアを再統一。中央集権化をすすめ、ビザンティン、ジェノヴァ、ヴェネチアとの交易を活性化した。
1366年に黒死病が大流行し国力の衰えが回復しきらぬ1386年にティムールが侵入。
以後8度に渡ってティムールの侵攻をうけた。ティムールはこの後オスマンのスルタンを捕囚とするが、崩壊。変わってオスマンが隆盛した。オスマンは1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、従来のグルジアの国際交易ルートを遮断。15世紀末には4つに分裂したグルジアを、カヘティ王国とカルトリ王国はサファヴィー朝、イメレティ王国はオスマンに併合された。

さて、それを踏まえて・・・どうしたものか。1399年のゲーム開始時、北にモンゴルのキプチャク汗国、南にティムールが。東にカラ・ユルン朝、そして西にオスマン。とりあえずは生き残ることを考えるしかあるまい。

ジョルジ7世の治世

グルジアはゲーム開始当初からティムールと戦争状態にある。イスラム諸国との同盟も望めず、非常に苦しいスタートになる。
まずはなんとしてもできる限り有利な条件でティムールと講和することだ。
戦力を温存して、ティムールがオスマンと戦争になるまで粘れるものか、まずは試してみる。

ジェノヴァとの同盟に成功。トレビゾントは同盟を断ってきた。
神の思し召しは「首都の防衛」神は呑気だ。

□□□ ティムール戦争(1386~1400)□□□

首都カルトリにある騎兵1000歩兵3000を兵科を分けてアラニアへ移動させる。傭兵を雇用しようにも金が50しかない。騎兵だけでも生き残らせたいという貧乏性ゆえの処置である。カルトリ、イメレティを落とされると、アラニアとグルジアには防御施設が無いため、滅亡は必至である。

ティムールは戦力を分け、各地に向かわせた。我が国にはこちらが軍を引いたこともあってか、占領軍をカルトリおよびイメレティの2か所に1000づつ送りこんできた。すかさず各個撃破に向かう。もちろん、ティムール主力の動きからは目を離さない。カルトリの解囲戦は4000対1000.もちろん勝利し、イメレティへ向かったが、ティムール主力がヴァンからイメレティへ矛先を変えた。ここで和平を申し入れてみると、ティムールはプライドが高く痛み分けには応じないが、こちらが負けを認めて休戦に成功した。ここに我が国は14年続いたティムール戦争に生き残り「首都の防衛」に成功したのであった。

□□□ 対チャンダル十字軍(1400~1401)□□□

トレビゾントがチャンダルに滅ばされたのをうけて、大義名分聖戦が発生。即宣戦する。グルジアはタマラ女王の治世1204年に十字軍に首都を占領されたビザンティン帝国に助力しトレビゾントの建設に参加したことがある。グルジアにはなじみのある?土地である。
ジェノヴァが同盟を履行しチャンダル領の取り合いになった。嬉しいんだか腹立たしいんだか。
国王ジョルジ7世とスルタン・イスファンディヤールの対決したシノーベの戦いにおいて、ジョルジ7世は乱戦の中命を落としてしまった。一旦は戦場のみならず国中の士気が落ちたが、後を継いだコンスタンティン1世によって戦況はもち返しグルジア軍3655人がチャンダル軍1242人を殲滅した。
この戦争でシーノベおよびトラブゾンを割譲させ、グルジアは黒海南岸を西へ勢力を拡張させた。

コンスタンティン1世の治世

□□□ カルムイキヤ征服戦争(1402~1406)□□□

コンスタンティン1世に神の啓示があった。カルムイキヤは我が国固有の領土であり、異教徒に支配され民衆は苦しんでいる。よって神の忠実なしもべであるコンスタンティンにその解放を求められた。
先王の喪が明けた1402年ポーランド、リトアニア、チュートン騎士団らと交戦中のキプチャク汗国に宣戦。ジェノヴァは同盟を履行した。ビザンティンは同盟不履行。もっとも今のビザンティンにはオスマン以外の国と戦うことは無理だし、同盟自体が対オスマンの牽制といった外交的なジェスチュアであったのだから仕方ない。
ティムールとも戦うことになるが、ティムールは内戦中で疲弊しきっており、戦力はこちらには向いてこない。
戦いはむしろ、リトアニア、ポーランドに占領された防御施設のないプロヴィンスをどうやって奪うかという点にあった。多くの戦力は必要ない。必要な場所に時を選んで暴動を起こさせるだけであった。カルムイキヤを含む4つのプロヴィンスを得た時点でキプチャク汗国はカルムイキヤ割譲を含むこちらの提案を受け入れ休戦に応じた。
南方戦線においても無防備のティムール領を席巻するが、講和条件が整わない。仕方ないので騎兵3000をもって未知の領域に突入したが、アジャムにおいてティムール軍33303と遭遇してしまい、3個連隊が消滅。3000は我が軍の半数にあたる。ここでティムールと講和。アルメニアを独立させエルズルムを割譲させた。

アルメニア王はバグラティオニ家の血統のヴァグラム2世。早速姻戚関係を結び関係を強化するとともに、王位の継承権を得た。

やばいどころか、開始5年で4つもプロヴィンスをゲットしてしまった。
ティムールは厭戦感情が16にも達し防御施設のないプロヴィンスが多く、崩壊は時間の問題だろう。またキプチャク汗国も周り中から攻め込まれて政治マップモードでみるといつもプロヴィンスにはいつも斜線がかかっている。こちらも長くはないだろう。

次なる目標は首都トリビシ(カルトリ)東方の安全確保と思っていたところへ神の啓示。「チャンダルをマップから排除する!」マップって、そりゃ神様にしてみれば地球はマップで人類はユニットなのだろうけど、もう少しましな言い方はないのか。
チャンダルは、イエメン、オマーンに保護されていて、オスマンの影響圏に入っている。さらに我が国はカラユルン朝から警告を受けたばかりで、戦えばひどいことになりそうである。何にしろ後2年は休戦協定があるので、ここは首都東方の安全確保をしようと思う。

その矢先にロシアから対ノブゴロド戦への参戦要請。ノブゴロドまではいけないが、受諾。
安定度が2下がってしまうがまあ、この時期ならすぐ回復するだろうと、たかをくくっていたが、シノーペで反乱。軍を集めて鎮定に向かう。

□□□ 対カラユルン朝十字軍(1408)□□□

戦争は短期間で終わった。コンスタンティン1世とカラ・ユスフが対決したダゲスタンの戦いで、9000のグルジア軍が6000のカラ・ユルン軍を打ち破り、その後追撃を繰り返して全土を制圧。カラバク、シャーパン、ダゲスタンを割譲させ休戦した。

さて、チャンダルをマップから消せという神の啓示のほうだが、これは難題である。オスマンが戦争をしているうちにさくっと征服してしまわないと勝ち目は薄い。

□□□ 第二次キプチャク汗国ジェノヴァ十字軍(1408~11)□□□

カラ・ユルン朝との戦いが終わって一月もたたないうちに、盟友ジェノヴァが十字軍を呼び掛けてきた。相手はキプチャク汗国である。キプチャク汗国はティムールと同盟を結んでいて、そちらが我が国の担当正面。キプチャク汗国は依然全土を占領された状態なので交戦能力はない。ジェノヴァが仕掛けたところで占領することはできないのだが、そんな俯瞰で見るようなことはAIはしない。仕方なく五月雨式に戦力を逐次投入してくるティムールをエルズルムで迎え撃つ。無限とも思えるその動員力。さすがは一世の英雄ティムールであるが、最終的に「グルジアの歴史」によると、グルジア側が13872に対しティムールは20000を投入したようだった。まともに決戦していたら勝ち目はなかったが、3年戦って痛み分けとなった。

□□□ カスタモヌ征服戦争(1414~16)□□□

オスマンが戦争を始めた。イングランドとカスティーリャを相手にしているから時間がかかりそうだと読んで、チャンダルに宣戦布告。チャンダルを攻囲して屈服させ、オスマンのプロヴィンスをいくつか占領。カスタモヌ落城のうえでオスマンと講和。

□□□ 対オスマン十字軍(1424~1426)□□□

こうなるとコンスタンティンの名前を冠する街がほしくなってくる。ハンガリー連合軍とオスマンの戦争に乗じて、もとい、ハンガリーの十字軍に第二戦線構築によって側面援護を行うため、オスマンに宣戦布告。
緒戦は無人のオスマン領に歩兵連隊を薄く広く散りばめ、プロヴィンスを次々に包囲。カラ・ユルン朝が東部国境を侵したため、なけなしの国庫で傭兵を雇うが足らない。仕方なくジェノヴァの商人に泣きついて借入。ロシアから戦費の援助もあったが、国庫は火の車である。しかし、その甲斐あってカラ・ユルン朝は全面降伏。コンスタンティン王は同国を属国とした。
そのころ西部戦線ではオスマンの反撃が始まっていた。ハンガリー戦線はそっちのけで主力を振り向けてきたのだ。考えてみれば本拠地が危ういのに外征どころではないはず。当然のことなのだが、こちらは戦力を薄く広く散りばめて、一挙に多数のプロヴィンスを陥落させて講和に持ち込む目論見で、それももうすぐ落ちそうなところばかり。つい欲が出て各個撃破されてしまう。東部戦線からの戦力の移動と、失った分をさらに借入を重ねて傭兵で補填し、決戦に臨んだ。
アンゴラの戦いと呼ばれる会戦はオスマンの主力が2つにわかれているところを各個撃破しようというグルジアの目論見で、アンゴラ解囲に向かうオスマン軍6000をグルジア軍9000が急襲する形で始まったが、戦闘は長引いた。両軍ともに残りの戦力を振り向けてアンゴラに向かわせたが、オスマンの援軍9000がグルジアの援軍7000よりも早く到着し、勝敗は決した。
潰走するグルジア軍をオスマン軍はシワスで捕捉殲滅。彼我の戦力差は倍以上となった。ここでグルジアはオスマンに和を乞い25ダカット払って休戦となった。

4年後コンスタンティヌス1世はコンスタンティノポリスを見ることなくこの世を去った。

ロストム・ミルザ1世の治世

新王即位直後のオリエントの状況は、グルジアの伸長はもちろんのことだが、マムルーク朝が小アジアに達し、オスマンがハンガリーをほぼ併呑している。ティムールも健在で、その4国の国境がエルズルム付近で接し合っている。西欧はイングランドが国土統一を果たした代わりに大陸の領土を失っている。その大陸ではフランスがブルゴーニュと対峙。イベリアはいまだ3国が混とんとしているが、グラナダは虫の息。カスティーリャがモロッコへ進出しているのをみると、先のオスマンとカスティーリャ・イングランドの戦争は、モロッコ防衛戦争だったようだ。オーストリアはオスマンとハンガリーを分け盗った形でアドリア海に面するダルマチアまで進出している。

イングランドが大陸の足かせを外した今後、植民地帝国へ成長するのかあるいはカスティーリャとの同盟とカソリックのクビキのもと西欧諸国の戦争に干渉していくのかが一つの焦点であろうか。

ところで、グルジアの新王ロストム・ミルザはコンスタンティヌスが世継ぎに早世されたため直系ではなくなっている。アルメニアとは改めて姻戚関係をむすび、アルメニア王に後継者ができない限り、人的同君連合が成立する可能性がある。

□□□ 対キプチャク汗国十字軍(1430)□□□

キプチャク汗国がまたしても攻め込まれているのに乗じて聖戦を騙りアストラハンを奪取。ごく短期間で終了した。これにより交易地図がどうなるのかに興味があったのだが、とうやら交易同盟の中心地として影響下にあるところ、交易同盟に独占を許している交易品の産出プロヴィンスはもとのままのようだ。

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バグラト6世の治世

□□□ 二十年戦争(1440~62)□□□

ティムールによるアルメニア侵略によって始まったこの長い戦争の期間は一般に二十年戦争と呼ばれている。戦争の序盤は五月雨式に兵力を送り込んでくるティムール軍を主にアルメニア領内で駆逐していたグルジア・アルメニア連合軍だったが、ティムールの汗バブル3世率いる主力の到着で連合軍はイメレティで決戦を余儀なくされた。
イメレティの戦いは数カ月に及び、結果ティムールの勝利となった。一旦は敗走した連合軍だったが、ティムールが半数で追ってきたためになんとかカルトリで持ちこたえた。
バグラト6世は背に腹を変えられず、自由拒否権の容認を決意。ダゲスタンに庶民からなる15000の兵が編成され、ステファノツ・チュケイツェ(3/4/6/1)が司令官とされた。
生き残った王の軍と合わせ、再び決戦が行われたのは同じイメレティにおいてだった。
両軍合わせて五万もの兵力がぶつかり合った。兵力に勝るグルジア軍が優勢ではあったが、損害は同等以上で、数が多かったから勝てた苦しい戦いだった。しかし乱戦の渦中、バグラト6世は命を落としてしまう。

勝利の知らせとともに王都に届いた悲報にグルジアの宮廷が愕然とする中、もうひとつの知らせが飛び込んできた。アストラハンがノガイ王マンスルー1世に包囲されたというのだ。宮廷は一時混乱した。グルジア皇太子はこの時2歳。戦時の国を統べることはおろか、よちよち歩きで言葉すらおぼつかない。
バグラティオニ家を中心とした貴族による評議会が編成され、グルジアはこの戦争の後半を戦うことになった。

摂政評議会による統治

ステファノツ・チュケイツェ将軍は王の軍隊を指揮下に加え強行軍でアストラハンの解囲に向かった。ノガイの攻囲軍は8000、対するグルジア軍は14583だったと歴史書は伝える。この戦いは瞬殺であったという。
チュケイツェは軍をすぐにとってかえし、ティムールの再来に備えた。ティムールはカラバクとエルズルムの二か所から再侵攻してきたが、将軍は軍を割ることをせずに各個撃破に向かう。グルジアの人的資源はとうに尽き果てていた。補給の見込みのないまま戦い続け辛くも勝利を重ねたが、それが講和に結びつくことはなかった。
アストラハンが二度目の攻囲をうけ、チュケイツェは再び軍を北へ向けた。解囲戦はまたもや瞬殺でアストラハンは解囲に成功し、ノガイは痛み分けを乞うてきたが、ティムール戦線への帰途アルメニアが占領されてしまったという報せが将軍のもとにとどいた。
アルメニアはティムールに併合され、グルジアは最も有力な係累を失ってしまった。

戦争が17年目に入ろうという頃、オスマンがジハードを掲げ宣戦してきた。するとバトンタッチとばかり、ティムールが痛み分けを申し出てきた。評議会は申し出を受け入れチュケイツェ将軍にオスマン迎撃を命じた。
オスマン主力はエルズルムを目指し侵攻、ラマザンはカスタモヌへ海路上陸してきた。カスタモヌに対するのはオスマン主力の出鼻をくじいてからとし、イメレティで防御する方針とした。オスマン主力がトラブゾン、シノーペに兵力を散らし、エルズルム攻囲を続ける中、ジワリジワリと回復するグルジア軍をカルトリで待機させた。
エルズルムを落としたオスマン軍がイメレティへ侵攻。それを受けてグルジア軍はオスマン軍にカウンターを食らわせるべく王都を進発した。
ギャスディン1世スルタン率いるオスマン軍13060に対しステファノツ・チュケイツェ将軍率いるグルジア軍17906が衝突したのは1461年3月のことだった。大した被害は与えられなかったがオスマン軍の士気が崩壊しエルズルムへと敗走。チュケイツェ将軍はこれを追撃しエルズルムで打ち破った。半数を打ち破ったとはいえ、このまま逃せばまた回復される。追撃を重ねるべき時ではあったが、討ち果たした敵と同数のオスマン軍がトラブゾンを攻囲している。数は今度は向こうが上だ。はたして追ったものか・・・。

グルジアの危機に新たに召抱えられたグリコ・ガルダブカッシュは陸軍の士気を+0.15する軍人だった。軍事演習を国策としガルダブカッシュを用いてチュケイツェを後方から支援する。そしてチュケイツェは追撃を決意し、トラブゾンの戦いはできるる限りの条件を整えた。
1461年5月のトラブゾンの戦いは、グルジア側の思いが空振りするような形で始まった。
トラブゾンへ向かったはずの敗走するオスマン軍はなぜかシワスへ向かっており、グルジア軍はイメレティ同様に同数程度のオスマン攻囲軍と戦うことになった。戦いはやはり同じようにオスマン軍の士気が崩壊し敗走。棚ぼた式の各個撃破の形になったが、追撃はできなかった。グルジアで農民が蜂起したため、将軍は軍を北へ向かわせた。

オスマン主力を殲滅することはできなかったものの、ラマザンに攻囲されたカスタモヌは新規編成した傭兵4個連隊で解囲に成功。救助にきたラマザン海軍をグルジア海軍が破り、ガレー船ウルチ・アリを拿捕した。

オスマンの再寇に備えたグルジア軍だったが、人的資源が枯渇しているのはあちらも同じらしく、戦力の補充はほとんどないようだった。評議会はオスマンとの講和のチャンスとみてとり、無割譲無賠償ながら、戦時中資金援助をしてくれたリトアニアとの条約を破棄することでオスマンとの合意を得、ここに足掛け22年にも及ぶ戦争の時代が終わった。

戦後、ティムールは崩壊しペルシャが国の大部分を切り取って独立。ヴァンとアルメニアも独立を果たした。ノガイ、オスマン、そしてグルジアはまったく国境線に変更は無かったし、アルメニアも主権を回復。姻戚関係を再び結び、結果的には各国消耗したものの、元の状態にもどった感がある。いや、ティムールが崩壊しオリエントの状況は大きく変わろうとしていた。

独立を果たしたアルメニアはマムルーク朝にかみつき同じく新興国のイラクと戦うなど、オリエントの暴れん坊となっていく。グルジアもマメルカ懲罰戦争には参加するが、頃合いを見て痛み分けとして手を引いた。南下する意思はないのだ。

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Last-modified: 2010-05-15 (土) 15:13:21 (3351d)