キリストの武装せる腕――チュートン騎士修道会興隆史

総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの時代

マリエンブルグ城の密議

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マリエンブルク城

 騎士修道会本部の置かれるマリエンブルグ城では、騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンと、彼の側近である3人の高位騎士たちがしめやかに密談を行なっていた。

「喫緊の課題はポーランド=リトアニア同君連合に対してどのように対処するかだ」

 コンラートは苦々しげにつぶやく。かねてより騎士修道会と強い対立状態にあった異教国リトアニアの王であるヤギェヴォが、篤信の国ポーランドの女王ヤドヴィガと婚姻し、同君連合を形成したことにより、騎士修道会は東方と南方からの強い脅威にさらされていたのだ。さらにはリトアニアはこれをもって真の信仰へと帰依したと主張。騎士修道会がリトアニアと闘うための大義名分であった「異端の浄化」は用いがたい状況になっていた。

 これに対し強硬論を唱えたのは高位騎士の一人、カスティーリャのミゲル・デ・スニガである。

「リトアニアの改宗は偽装、本音は我が騎士修道会を叩き潰さんとする野合に過ぎません。断固としてこの背信の企てに立ち向かい、真の信仰を東方に拡大する、それこそが我が騎士修道会の使命と云えましょう」

 その言を受け、もう一人の高位騎士であるノルウェーのシモン・オラヴソンが発言する。

「実際、リトアニアの我が領土に対する野心は隠れもないものです。この包囲網を打破せねば、我らの存立はありえません」

 コンラートは頷く。教皇の信任厚いポーランドと強大なリトアニアの結託により、すでに騎士修道会は大義と政治の面で封殺されつつある。そしてこの同君連合が確固たるものとなれば、やがては軍事的にも封殺され、いずれ圧倒的な力の前に屈服させられるのは時間の問題であった。

「しかし、そのためには強力な軍備、そしてそれを支える財政が必要でございましょう。我が騎士修道会の封土は貧しく、租税も少ない。まずはこれを解決せねばなりますまい」

 そのように唱えたのはコンラートの財務顧問であるフィルマン・ダンブルテュースである。実際、騎士修道会が収める領土からの収入は少なく、豊かなドイツ諸邦や広大なポーランド=リトアニア同君連合に比べると微々たるものであった。

「そこは貴君の財務能力に期待することとしよう」

 コンラートはフィルマンの懸念を一蹴した。実際、フィルマンは優秀な財務官であり、萌芽期にあった信用経済をうまく用いて騎士修道会封土内で実体経済以上の収入を叩き出していたのである。

「では――」

 誰からともなく発せられた問いにコンラートは応えた。

「そうだ。我々はその命運をかけてリトアニアの背教者どもと闘う。篤信の国ポーランドをリトアニアから奪還し、さらにはリトアニアをも神の国の一部と成すのだ。それこそが、今我々に神が与え給うた使命である」

 この密談において、その後数世紀の東ヨーロッパの運命が大きく決定づけられたことを、未だ彼らは知る由もなかった。

ポーランド=リトアニア同君連合との戦い

 ドイツ騎士修道会は急速に軍備を拡大するとともに、俗界諸侯へポーランド=リトアニア同君連合の非道を説き、神聖ローマ皇帝位を持つボヘミア国王と、ポーランドと国境を接し脅威にさらされているハンガリーとの同盟関係を築いた。また、騎士団からすれば異端の国であるモスクワ大公国とも秘密同盟を結んだ。これによりポーランド=リトアニア同君連合を西南及び東方からから牽制し、騎士団の孤立を防ぐためである。しかし皇帝はポーランドとも同盟を組むという二股膏薬ぶりであり、ハンガリーもまた、ポーランド女王であったヤドヴィカの実家であったことから、ポーランド=リトアニア連合との積極対立を回避しようとしていた。モスクワにいたってはカトリックの教え届かぬ辺土である。同盟関係としては甚だ不安が残るものであったが、他に選択肢はなかったといえよう。

 この緊張関係は数年続いたが、思わぬところからドイツ騎士修道会への好機がやってきた。モンゴル人の侵入である。

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モンゴルの侵入

 キプチャク汗国はトクトミシュ戦争によりティムール帝国と敵対しており、またカザフスタンやノガイなどの分離により往事の力を失っていたが、トクトミシュの後継者でありサライの大オルドを拠点とするティムール・クトルクはトクトミシュ戦争を無難に講和へと持ち込むとともに、その力をリトアニアへと振り向けたのだ。ポーランド=リトアニア同君連合はこれに対し果敢に戦ったが無残な敗北を喫し、英傑であったヴワディスワフ2世ヤギェヴォも失意の中死去。東欧における勢力の真空を生じせしめた。

 この千載一遇の好機を前に、ドイツ騎士修道会はただちにリトアニアに宣戦布告。火事場泥棒に等しい大義なき宣戦は国外の批判と国内の動揺を呼び、ボヘミア及びハンガリーの同盟破約すら招いたものの、戦争自体は極めて順調に推移。ポーランド及びリトアニアの全土を占領後、ポズナンの和平においてポーランドからポズナン・カリシュ・ウーチ・ルブリン・プウォツクを押領した。これにより、ポーランド王国は事実上崩壊。リトアニアにおいても、ヴワディスワフ2世ヤギェヴォ死去後ポーランドの名目上の王位についたヴェッティン家と、ヤギェヴォの従兄弟であるリトアニア大公ヴィタウタス及びその長子ズィギマンタスとの対立が激化し、ポーランドとの同君連合の解消が発生した。そして、相続く戦争疲弊に耐えかねたリトアニア諸部族がリトアニア南部にポロツク王国・ウクライナ王国を起こして分離独立することにより、ドイツ騎士修道会南東の脅威は完全に崩壊し去ったのである。

自立の構え、そしてノブゴロドとの戦い

 目前の脅威を――それがモンゴル人との野合とはいえ――排除することに成功したドイツ騎士修道会は、次に経済的自立と、かつての敵であった東方諸国家――主にノブゴロドの脅威の排除ならびに真の信仰への帰依を目指した。特に後者は、かつて騎士修道会が辱めを受けたネヴァ川の戦いの復仇でもあり、騎士たちの意欲を大いに駆り立てるものであった。

 まず前者であるが、ユンギンゲンはダンブルデュースの主導のもと、騎士修道会による銀行を起こし、莫大な資金を集めてケーニヒスベルクに交易拠点を建築。ここにバルト海の騎士団領から産出される物資を集積し、騎士団の許可を得た商人たちを配することで、バルト海貿易におけるハンザ同盟の独占的支配から脱して独自の経済基盤を持つことを目論んだ。この試みは部分的にしか成功しなかったものの、ケーニヒスベルクの繁栄は、後にバルト=ルネサンスとも呼べる文化興隆へとつながっていく。

 そして後者である。ノブゴロドとの対立はポーランド=リトアニア同君連合の崩壊後急速に高まっていった。同じくノブゴロドに領土的野心を持つモスクワと提携したドイツ騎士修道会は、危機を察知したノブゴロドがモスクワを攻撃するのに応じて参戦。ノブゴロドからネヴァ、インゲルマンラント、カレリアを奪取した。これにより騎士修道会は周辺諸国から極めて警戒されることとなったが、威勢もまた極めて高まり、教皇への影響力を行使して破門されていたオーストリア大公を赦免させることで帝国内部に有力な同盟者を持つこととなった。

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リトアニアの崩壊と騎士修道会勢力の拡大

総長フリードリヒ1世の時代

征服の拡大

 前総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの成果を受け継いだフリードリヒは、その政策を継承しつつ、神聖ローマ帝国内の権力闘争をも利用して騎士団の勢威を高めんと欲した。しかしまずは相次ぐ征服により高まり過ぎた悪評を下げること、そして国内の行政基盤を構築することが優先された。そして、ようやく長い戦乱の記憶が人々から薄れかけた頃に、フリードリヒは重い腰を上げたのである。
 
 まず目標となったのはリトアニアがいまだ保有するトラカイであった。この地方の領有権を巡る対立は騎士修道会に絶好の口実を与えた。リトアニアはポメラニア、ポーランドなどと同盟し騎士修道会を牽制していたが、それらは各個撃破できる程度の脅威でしかなかった。故にフリードリヒはためらわずリトアニアへと宣戦布告し、3国を相手にした血戦の末に、トラカイを手中に収めた。

 次に目標となったのはブランデンブルクであった。拡張主義を推進するブランデンブルクの周辺国に独立保障をかけていた騎士修道会は、フェーデによるブランデンブルク勢力の拡大に対して介入を宣言。ノイマルクを奪い取ったのだ。

 そして、その戦火も収まらぬうちに、ポーランドから独立したマゾヴィアが騎士修道会に対して外交的侮辱をぶつけてきた。史書には詳しく記載されていないことから、おそらく宴席上での些事であったと思われるが、騎士修道会はこれを口実にマゾヴィアへと宣戦布告。「キリストの武装せる腕」へのいかなる侮辱も許さぬとばかりにマゾヴィア全土を蹂躙し、ガリシア、ポドラシア、クロードノを占拠したのだ。挙げ句の果てに、ヴォリニアのキリスト教徒を保護する目的でポーランドに宣戦布告し、これを打ち滅ぼすと共に、ポーランド側に立って介入してきたシレジアからラジプシュを奪い、ついにはリトアニアまでをも攻め滅ぼしたのである。

 このような活発な軍事活動は、前総長次代の末期に匹敵する、周辺諸国の強い警戒を受けたが、今や神聖ローマ帝国髄一の大国であるオーストリア大公の後ろ盾を得た騎士修道会は、バルト・スラブの辺境のみならず、神聖ローマ諸侯にも強い軍事的影響力をこれみよがしに見せつけ、強い態度を崩さなかった。そればかりではなく、騎士修道会は神聖ローマ帝国内の有力諸侯たるプファルツ選帝侯や北辺の大国スウェーデンとも同盟を結び、その外交的体制を磐石たらしめたのである。

 一方でフリードリヒは優れた内政家、芸術の守護者としても知られ、領内に寺院を次々と建立してキリスト教支配の拡大に努めるとともに、はるかイタリアのフィレンツェ派を後援するなどの事績を残している。

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フリードリヒ1世による征服拡大

試練の時

 しかし、このような外面的繁栄とは裏腹に、国内では急速な拡大と農業の停滞、そして不適切な政策による混乱が広がりつつあった。そしてそれは、騎士修道会の基盤を揺るがす試練の時をもたらす。ポーランド各地で頻発する反乱に足を取られたフリードリヒは、これらを強圧的に弾圧、異端として鏖殺していったが、それだけでは問題が解決するわけではないことも十分承知していた。彼は農民たちの請願を積極的に受け入れ、自由農民制の拡大によって国内貧困層の不満を緩和するとともに、ポメラニアで蜂起した農奴たちを自らの兵営へと招き入れることで軍事基盤を強化し、事態の収拾を図った。

 だが、フリードリヒはその成果を見ることなく没する。試練の時の克服は、次代に持ち越された課題となった。

次回ある騎士の矜持


添付ファイル: fileフリードリヒ1世時代の勢力.JPG 234件 [詳細] fileリトアニア崩壊後.JPG 172件 [詳細] fileモンゴルの侵入.JPG 186件 [詳細] fileマリエンブルク城.jpg 171件 [詳細]

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Last-modified: 2012-01-14 (土) 09:15:21 (2658d)