大いなるもの、東方より

諸国民は畏怖すべきである。

1399-1462
大君バヤジット一世はアナトリアを平定し、野蛮なティムールを退けた。
メフメト一世は若くしてバルカン半島を平定し、かの地にイスラームの福音をもたらし、中核州を全て回収し、西洋化を成し遂げた。まことに偉大なる両名君のご治世と讃えられるべきである。


落雷。

 バヤジット一世は全陸軍19000を率いて海峡を渡った。カラマン、ラマザンを瞬く間に併合した。敵軍の撃滅はもっぱらオスマン軍が行い、要塞の攻囲は同盟国軍のセルビア兵が行った。王はドゥルカディルへ兵を進め、これを属国化した。この地域はオスマン・ティムール・マムルークの三大国が結び合う要衝であり、オスマンが直轄地として確保するのは得策ではない。王はそのように考えたからである。
 
 ドゥルカディルの王女が人質としてオスマン軍の野営陣地へ引き入れられた直後に、偵察隊がティムール軍主力の接近を知らせた。王は決断した。早馬を送った。ティムールの威信を認め、オスマンが敗者として撤退することで講和が成立した。騎乗のティムールが近づくと、王は先に馬を下りた。ティムールは名を取り、オスマンはドゥルカディルの支配権という実を取った。ティムール軍は東へとんぼ返りしてグルジア戦線に復帰した。
 
 王は帰路、カンダールを平定した。さらにコンスタンティノープルを攻囲し、ビザンツ帝国からモレアを分離独立させた。王はビザンツ帝国の独立を保障するよう命じた。全軍はエディルネへ帰還した。直後、王は崩御した。1403年のことである。


メフメト一世の偉大なる治世。

 二か月の空位期間の後、14歳のメフメト一世が即位した。新王の能力は6-6-6であったと伝えられ、彼は即位を言祝ぐ属国モレアの大使にギリシャ語で礼を述べたという。

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即位直後の版図

 
 若きメフメト一世は、父王が育てた歴戦の勇将たちを召集した。
「エピルスへ宣戦布告する。」
「御意。ギリシア方面へ糧食を集積いたします。」
「うん、だが、陸軍本隊はまだエディルネから動かすな。」
「御意。」
「質問があれば、どーぞ。」
「陛下、わたくしども忠誠の臣は、陛下のご真意をお聞きしたく存じます。」
「うん。諸君。大君バヤジット陛下のご遺業を完遂する。目標はエピルスではない。コンスタンティノープルである。」
どよめいた。

 オスマンからエピルスへの宣戦布告に対し、グルジア・ナポリ・モルダヴィアの異教徒がエピルス側に立って参戦した。そしてビザンツ帝国も「東ローマはエピルスへ独立保障をかけていた」と高らかに宣言し、この「オスマン攻囲網」に加わったのである。バヤジット一世に城壁を崩されたのはほんの3か月前のことだったというのに。

 戦勝祝賀会が新王の結婚式を兼ねて開催された。1405年のことである。キリスト教徒が誇った「最後の帝都」を征服したことで、オスマンの威信は絶頂に達していた。メフメト一世は、トリポリ、アルジェ、チュニジアと婚姻を結んだ。三人の美女と、彼女らの膨大な召使が後宮に迎え入れた。三日後、「体力」を使い果たしたメフメフたん(14♂)のもとへ、ヴェネツィアからの報告がもたらされた。

「陛下! ヴェネツィアのCoTにわがオスマンの商人が参入し、月収入が30ダカットを越えましたぞ!」
「も、もう無理…おすまんの少年が挿入して一晩に30回を越えろとか…もう許して…」
「陛下、お気をたしかに! 遷都が可能です!」

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内政。

 1407年、メフメト一世は再建中の「イスタンブール」を計15回視察している。16歳のスルタンは多忙だった。彼はみずから設計図をとりまとめ、新首都の王宮の隣に広大な行政区画を設けた。中央集権を執行するための省庁が次々と建設された。ここで働く専門官僚たちが、名君メフメトの統治を支えることになる。
 
 電撃的に遷都を果たしたメフメト一世だが、以降の外征はペースを落とした。アルバニアを併合し、ワラキアを属国としたところで版図拡大をストップした。かれは内政に注力した。土地制度改革をギリシャ・アナトリアへ広げた。ヨーロッパ側のキリスト教徒を順次改宗させていった。
 
 メフメト一世は後世の評価を意識していたようだ。ビザンツを滅ぼすというオスマンの宿願は成し遂げた。中核州もすべて回収した。これ以上、無謀な外征を続ける必要はなかった。次にすべきことは、ギリシャをアッラーの御手に戻すことだった。武の王とだけでなく、信仰の王としても記憶されたかったのだ。


進撃。

 1447年、メフメト一世は40年ぶりに陸軍を動員した。小部隊が海峡を渡った。ロードス島を征服した。聖戦だった。軍の主力はギリシャにとどまり、ハンガリーの介入を警戒した。ハンガリーは警告とスパイ活動を繰り返し、露骨な挑発姿勢を見せた。王は待った。ハンガリーはボヘミアに背後から襲われた。講和により、クロアチアとラグッサがハンガリーから独立した。王はラグッサを即時併合した。アカイアも併合した。
 さすが雷帝の子である、と諸国民は畏れた。往時を知る者は、58歳のメフメト一世の横顔に先王バヤジットの姿を重ね見た。

 これらはいずれも小規模な戦闘で終わったが、1457年には初めて万単位の大会戦が発生した。マムルークが侵攻してきたのだ。計30000のオスマン軍がシリア地方に展開した。マムルークの主力部隊12000を殲滅した。15000の大軍が敗走する10000の敵兵を追撃する――メフメト一世にとっても初めての経験だった。かれ自身は68歳という高齢のため前線指揮はあきらめており、後方アナトリアの大本営で捷報を受け取ったのだが。

 workshopがオスマン全土に建設された。豊かなアレッポをマムルークから割譲させた。もはやアッラー以外に恐れるものはなかった。

 1459年、メフメト一世は最後の仕事にとりかかった。

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オスマン始まりすぎだろ


邪教徒は戦慄すべきである。へすすむべきである。


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Last-modified: 2010-11-12 (金) 15:19:56 (3170d)