大いなるもの、東方より

邪教徒は戦慄すべきである。

 邪教徒がついに本性を現した。かれらはみずからを「十字軍」と呼んだ。
 ハッサン一世は安定度回復に心血を注がれた。その御世は短かった。信仰篤き王をアッラーがお手元に置きたいと望まれたからである。
 アフメト一世は二回に渡る対十字軍戦争に勝ち、南ギリシャを平定し、マムルークとの死闘に勝った。まこと常勝の王である。その偉大さは、キリスト教徒が流した血の量で測られるべきである。


ハッサン一世の御世

 1462年、メフメト一世が崩御した。ハッサン一世(6-7-8)は安定度-2の「大国」を受け継いだ。オスマンは西洋化の途上にあり、ハッサン一世にとって父王の遺産はあまりに重かった。カスティーリャ・ポルトガル・アラゴンの宣戦布告を受け、かれは神経衰弱に陥った。アカイアに20000を越える敵兵が上陸した。ハッサン一世は8個連隊の増設を命じ、それを心労の限界として死んだ。5年間の短い治世だった。


戦うアフメト一世。

 1467年、アフメト一世(8-5-3)が対十字軍戦争を引き継いだ。

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アフメト一世即位時の全領土

 カスティーリャ軍の主力がアカイアを攻囲しているあいだ、ポルトガル軍とアラゴン軍は散発的な上陸をアドリア海沿岸で繰り返した。アフメト一世はこの上陸が牽制作戦であることを見抜き、ポルトガルとアラゴンに対して分離講和を結んだ。アフメトは決戦を決意し、山岳地帯のアルバニアに陣取った。その数24000。カスティーリャ軍32000が誘引された。オスマンはマケドニアから傭兵も送り込む。勝った。

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銘記せよ。山に攻め込むな。

 アフメト一世は文武それぞれの面で歴史に名を残している。カスティーリャとの対十字軍戦争に勝ち、モレアとアテネを併合した。カスティーリャは30年後に再び侵略を開始したがアフメト一世は再びはねのけた。内政の面では、度量衡の統一を敢行し、イスタンブールにCoTを建設し、対カスティーリャ戦勝記念の大モニュメントを建てた。
 
 しかしアフメト一世の仕事として真に銘記されるべきは、かれが軍隊の西洋化を断行し、中興の祖メフメト一世の大業を完成させたことである。

 1503年、アフメト一世は国家の全領域が安定しているのを知った。国家内部に解決するべき問題は見当たらなかった。ここで初めて、オスマンは対外的”使命”に気づく。
 
「聖地エルサレムを奪還する。」
 アフメト一世はマムルークへの進撃を開始した。西洋式陸軍の実戦テストを兼ねていた。

 

泥沼のシリア戦線。

 油断があった。オスマン軍は軍事教練のNIを持ち、士気ではマムルークを圧倒していた。事実、オスマン軍はほぼ全ての戦闘に勝利した。しかし会戦のたびに大きな損害を受け、一方のマムルークは膨大な数の雑兵を次々に送り込んだ。アフメト一世は明らかに敵を侮っていた。かれは当初、22000の陸軍しか送り込まなかったのだ。
 
 ガザが到達の限界だった。ぼろぼろのオスマン軍主力へ、マムルークは新手をぶつけた。決戦となった。負けた。ぎりぎりのところでバルカン半島から増援が到着した。ベイルートのみの割譲で講和が成立した。このときボヘミアやカスティーリャが攻めてこなかったのは、まことアッラーの寛大なお恵みと言うほかなかった。

ローマは滅ぼされるべきである。も読むといいかもしれないのである。


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Last-modified: 2010-11-12 (金) 20:45:01 (3086d)