船乗りの町

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ヴァスコ・ダ・ガマ。インド航路開拓の雄

やり手の商人

 大勢の市民たちが葬列に加わり、故人へ祈りを捧げる。その数は教会にも入りきらないほどで、開け放たれた
入口から広場にまで黒山の人だかりができていた。
 なんといっても、普段ハンブルクに住んでいる市民の他、彼の死を聞きつけて各地に散らばっていた交易商人
が戻ってきているのだ。その存在の大きさがうかがえた。

 1450年2月、豪商アルブレヒト・リープ死去。

 自らも卓越した商人であるが、後進の教育に力を注ぎ、そのノウハウを叩き込んだ。ハンブルク商人がリュー
ベックやヴェネツィア、アントウェルペンといった大商業都市に伍してこられたのも、彼によるところが大きい。
5年前に国立銀行の設立に携わってからは隠居していたが、助言を求める若い貿易者たちが後を絶たなかったと
いう。

 と、そう感傷にばかり耽ってもいられない。
 5月19日、同盟国クレーフェに対し、ミュンスターが宣戦を布告。総督フロリアン・アッカーマンは参戦を決
める。クレーフェには北ドイツの諸侯が多く独立保障を宣言しており、あたかもドイツ連合軍ともいうべき様相
を呈していた。
 だが、諸侯たちの中には内心の不満が隠せない者たちが少なくなかった。
「ハンブルクが盟主だと?」
 独立保障を理由に参戦した国より同盟国が優位に立つのは当然だ。されど、商人が名だたる貴族連にあれこれ
指図するというのか。

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ミュンスター戦争。オスナブリュックを獲得

 アッカーマン総督はやり手だった。
「戦は喧嘩好きな貴族様方に押しつけましょう。我々商人は美味しいところだけ頂いてゆく」
 歩兵が強行軍でいち早くミュンスター領オスナブリュックを攻囲する。敵の首都ミュンスター市は他の諸侯に
任せておけばよい。
 翌年5月、オスナブリュックが陥落すると、代表として即座にミュンスターと講和にかかる。
 オスナブリュックの割譲に加え、725万グルデンの賠償金が支払われた。ほとんど労せずして豊かな塩の産地を
手に入れてしまったのだ。諸侯たちは憤懣やる方なかったに違いない。

 アッカーマン総督の手口はとことん実利的だった。これも故アルブレヒト・リープの教えというべきか。
 交易先でのトラブルによりハンブルク商人が追放されかれば、相手国の市場管理者を賄賂で抱き込んでしまう。
ミュンスターからの賠償金に加え、国立銀行の設立で国庫は豊かだった。
 8月にまたしてもクレーフェがブラバント公の宣戦を受けると、即座に参戦、50万グルデンの賠償金をせしめて
いる。

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「人の心もお金で買えるんですよ」

 ただし、アッカーマンはわずか一期で退任している。公金横領、献金問題等々一ダースにも及ぶ不正を積み上げ
られて、選挙が始まるや即座にハノーヴァーへ亡命してしまったらしい。

地球は丸かった!

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カスティーリャ女王に謁見するクリストフォロ・コロンボ。通称卵の人

「地球は丸かったんだって」「ハハハ、こやつめ」「何を戯けたことを」
 前時代的なハンブルク市参事会はおいておき、ヨーロッパでは革命的な発見が起きていた。
 1455年、イスラーム勢力を排除し、フランスと同盟を結んで後顧の憂いを絶ったカスティーリャ王国は、その宗教的
熱情を未知の世界の探索に振り向けた。
 冒険者たちの持ち帰った珍奇な産物や大量の金銀はヨーロッパの王侯を驚嘆させる。
 新世界へ、東洋へ、未知の世界に対する希求は盛り上がるばかり。また、カスティーリャに負けじとイングランド、
ポルトガル、フランスといった国々も王家の後援で艦隊を仕立て、大海原へと漕ぎ出していった。
 新大陸の発見。喜望峰の周回。香辛料貿易。先住民国家への侵略。アフリカ黒人奴隷貿易。
 夢のように輝かしい冒険譚と、悪夢のように血生臭い征服劇が、この後繰り広げられていく。
 ハンブルクにはまだ早いわね。

どこの市場にもハンブルク商人

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交易中心地イスタンブール。アナトリア・バルカンを圏内に収める

 15世紀半ば、停滞していたヨーロッパの商業活動も息を吹き返してくる。
 その兆候として、リューベックやヴェネツィアといった大商業都市の周縁に位置していた地域に交易中心地が生ま
れた。後ポンメルンやラグーザなどである。
 また、1465年にアントウェルペンがフランス領となると、アムステルダムに交易中心地が新設され、フランスに
敵対するイングランドなどの商品はそちらへ集められるようになっていく。
 ほぼ同じころ、オスマン帝国首都イスタンブールにも市場が開かれる。かつての世界の都コンスタンティノープル
は、名を改めると共に、この新興軍事大国の活力によって繁栄を取り戻したのだった。
 こうした世界的な活況と軌を一にして、ハンブルクは各地へ交易の網の目を張り巡らせてゆく。
 国立銀行の設立、自由貿易政策、合理的商慣行の採用、更には継続的な交易技術の投資。
 ヨーロッパ中、果てはイスタンブールやアレクサンドリアまで。狂ったように商人を送り込むハンブルクについて、
「どこの市場に行ってもあの町の商人を見る」とまで言われるほどであった。

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1473年の各国収入。ヨーロッパではフランス・カスティーリャ・オスマンに次ぐ4位である

 この豊かな交易収入が更なる発展を生む。
 ハンブルクは少しずつだが、上昇気流に乗り始めていた。

15世紀前期 海峡戦争(2) →15世紀後期 世紀末の戦争?
船乗りの町

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Last-modified: 2010-04-18 (日) 20:01:42 (3293d)