*北へ~La Marseillaise [#p40cdd99]


*北へ![#p40cdd99]
#ref(madonosoto.jpg,right,around,港を見下ろす風景);
今でいうストレス性の胃潰瘍を患ったジョルダン・ド・リベルタは、マルセイユの小高い場所に建てたそれほど広くもない自邸で療養と称して妻と子らと共に生誕祭を迎える準備をしていた。エクスの屋敷のように使用人を置いていないマルセイユのこの家で家族水入らずでの生誕祭をむかえることがとても楽しかった。妻は家事をしないでいいかと思って嫁に来たのにと苦情を言っていたが、子供たちと調理をしたり掃除をしたりする様はとても楽しそうだった。ジョルダンはこのまま職を辞してマルセイユの港を見下ろしながら過ごすのもいいかもしれないと考えないでもなかった。
夕方、彼が家族との食事を終えたころ、ひょいっと現れた古い友人の来訪にさして驚く様子もなく書斎に通すようにと、客の訪れを伝えに来た息子に言った。
「自邸で療養中と称して戦勝祝賀会に顔を出さなかった財務卿の見舞いに来た御屋形様を出迎えもしないって、この態度はどうなんだい?」
書斎に通されたルイスは十数年来の友人であり家臣である男に言った。
「ようこそジョルダン王国へ。この家では俺が王さまなんでね」そう言うと右手を差し出した。
ルイスは再開の握手をしてから、部屋を一通り見回して、窓から見える景色を褒めた。他にほめるところはないのかと抗議するジョルダンに、ルイスは少しおどけて見せた。
この年の6月に始まったミラノ破門戦争に介入して以来の再会だった。
ジョルダンが椅子を薦め、二人が着席した時に、ジョルダンの家族が勢ぞろいしてルイスにあいさつをしに来た。それが一通り終わると、ジョルダンは子供たちにルイスが今日来たことは誰にも言わないと約束させた。ルイスは少し残念そうな子らを包容し頭をなでてやった。

ジョルダンの妻が二人に運んできた飲み物は、ルイスには赤ワイン、ジョルダンには白ワインだった。暖かな暖炉の炎が最近はやりのガラス細工のグラスに映り、ゆらゆらと揺れていた。プロヴァンスのぶどう畑は、丘、渓谷、海岸などに作られている。古代の山塊が風化してさまざまな年代にわたって形成され、石灰岩、砂岩、片岩土壌など、それぞれの土壌がワインに個性を与えていると言われる。古代ローマから現代まで2500年作られ続けてきた。もちろんこの時代でもプロヴァンスのワインはこの地方の名産品であった。
悪いが俺のはさ湯だ。とジョルダン何故飲み物が違うのかというルイスのまなざしを察して、説明しながらへその上あたりをなでた。

ルイスの話は、オーヴェルニュの割譲を求めたミラノとの戦争(1445年6月6日~12月13日)でミラノから奪ったオーヴェルニュ編入後の現地の事務処理と一昨日のフランス国王の「交易禁止令」に関することであろうとは想像はついてたが、まずは昔話になった。


ジョルダンは幼いころから裕福だった。マルセイユを起点に西はバレンシア、バルセロナから東はジェノヴァ、ローマ、ナポリあたりまで船で交易商を営んでいたジョルダンの父の稼ぎは、ちょっとした下級貴族並みにあったし、商売は曽祖父の代から続けてきたものだったので、貯えもあった。ジョルダンは子供ながらに酒場で船乗りと仲良くなり、大人も認めるほどの交渉術、指導力を発揮して、マルセイユの街ではちょっとは知られたガキ大将となっていた。国王ルイスと連日タライで遊んでいたのもそのころだった。ジョルダンが13歳のとき、父が船倉いっぱいに積み込んだ交易品ごと帰ってこなかった。日々の暮らしと交易品の仕入れ先への返済でジョルダンの家の蓄えはあっという間に底をついた。ジョルダンは船乗りのつてで船に乗せてもらうか、街でどこかの店で下働きをしようかと考えていた。
そんなとき、祖父の縁者で子供のなかった老人から養子縁組の話がもちかけられた。その老人がかのシャルル・ド・リベルタ卿だと知り、ジョルダンは母と兄弟を養うことができると、二つ返事で承諾した。
リベルタ卿がルイスを付け回すちょっと変わった寝言を言う爺さんだったと知ったのは、不覚にもエクスのリベルタ邸へ家族とともに馬車で到着した時のことだった。

世界中を探検して歩こうという最初の目論見は二人の地位がこの国の頂点に上り詰めてしまったときにあきらめざるを得なかったが、この国が各国の探検をリードしていけるように頑張ろう、そうルイスがプロヴァンス伯となり、王を名乗ったときにあらためて約束した。それが6年前のことだ。当時プロヴァンスはフランス王からの圧力の中にあり、生き延びるための戦いを余儀なくされていた。その後の6年の間に状況は大きく変わり、フランス王は王たる勢威を失い、かわりにプロヴァンスがフランスの盟主とならんとしていた。

子供たちが眠くなったのをみて、ジョルダンの妻が彼らを連れて寝室へと出ていったのを見計らって、二人の話は本題へとはいっていった。
子供たちが眠くなったのでジョルダンの妻が彼らを連れて寝室へと出ていったのを見計らって、二人の話は本題へとはいっていった。

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1445年12月の時点で、プロヴァンスには今後100年の大戦略としていくつかの選択肢があった。
①オックの領域とそれを守るために必要な州のみを支配して維持。新大陸への植民を優先する。
②フランス文化圏の南側のみ領有し、安全を確保した後、サボイ、ミラノなど北イタリアを蚕食しつつ、神聖ローマ帝国での地歩を固める。
③フランス王と対決して勝利し、フランス国家をプロヴァンスの手で打ち立てる。

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どの選択肢をとるにしろ、破門されたミラノの飛び地であるオーヴェルニュとイングランドに支配されているランドック、フランスの飛び地であるブルボン、リムーザンを手に入れるところまでは同じである。
①と②はもう少し先までは同じ道だ。
サボイからリグーリア、あたりまでのエクスに近いエリアを手に入れる。
③は決定的に違う。ブルボン、リムーザンのみならず、フランス統一国家の建設条件は、メーヌ、ベリー、ヴェルマンドワ、イル・ド・フランス、オルレアネ、ヌムール、シャンパーニュを中核州として保有。交戦中でないこと。だが、「フランス統一国家を建設」という施政方針自体、フランス王家をこの世から消し去ってしまわない限り発生しない。

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当初、①から③へと難易度が上がって行くと目されていたのだが、ここへきて③が一番実現可能に思えてきた。①と②を選んだとしてもフランス王は執拗に攻めてくるであろうし、徐々にフランスで領地を広げ、リグーリアを占領したイングランドとの同盟もそろそろ限界が見え始めている。フランス併合に伴って上昇するであろう悪評は☆☆☆☆の外交官を3人雇って-0.6、外交能力4の君主で-0.4。文化に関する施政方針フィレンツェ派を施行して-0.01。年間1.12の悪評を削ることができる。優秀な外交官を得られればイベントなどでさらに削ることができるが、不確定要素は計算に入れないで考える。
年間-1.12で考えると、たとえば現在の悪評7.7は1452年に0.0になるが、25.0くらいまでの悪評なら、一桁に戻すまで10年とかからないので、そのあたりまではそれほど多くのリスクを負うこともないだろう。一桁という目安はルイスの外交能力4と正統性100の限界修正で9.0までの悪評は許容範囲として考えた。

現王家を滅ぼし、ルイスを真の王にすることも可能なところまで来てしまっていることに気がつかない振りは、この二人にはもはやできそうもなかった。。


**Combats avec tes défenseurs ! [#wf7a5d45]
年が明けて1446年、リベルタ財務卿は公務に復帰していた。彼をはじめとするプロヴァンスの商人を中心としたプロジェクトチームが財政再建にあたったにもかかわらず、総額504ダカットの戦争債務を返済するため、貨幣が乱造されてインフレが右肩上がりで急上昇続けていた。イル・ド・フランスに派遣している商人の数は5人。アンダルシア、ノヴゴロド、アレクサンドリアと同数であるにもかかわらずその収入は4分の1にも満たない。フランス王が交易禁止を宣したのが原因だった。国王は戦闘では勝てないと見てプロヴァンスを干ぼしにするつもりなのだろうか。だとしたらそれは正解である。税収の多くないプロヴァンスが交易収入に打撃を受け、それでも兵を維持しなければ、イングランドやミラノ、ブルゴーニュといった国に囲まれたプロヴァンスは国の安全を守れない。このままでは国家財政は遠からず破綻してしまう。戦争がビジネスの手段として有効であったこの当時の欧州で、プロヴァンスが取りえる政策はひとつしかなかった。すなわち戦争による税収と交易圏の拡大である。

1446年7月14日、プロヴァンス伯ルイス2世は、プロヴァンスに対する交易禁止令の解除を求めてフランス王に宣戦した。

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いざ祖国の子らよ!
栄光の日は来たれり
暴君の血染めの旗が翻る
戦場に響き渡る獰猛な兵等の怒号
我等が妻子らの命を奪わんと迫り来たれり


***北へ!(対フランス交易戦争) 1446年7月14日~ [#i7ee8fd9]
#ref(Nord-1.jpg,right,around,進撃を開始するプロヴァンス軍);
オーヴェルニュに配置した2個連隊はブルボン、リムーザンへ向けて北上を開始していた。ブールジュの街を出立したルイスも間もなくフランス王の治めるヌムールへ入ることになる。
ジュリアーノ・デ・メディチがヌムール公となるのは1515年。ジュリアーのが取り入るべき相手はおそらくプロヴァンス伯になりそうだった。

ルイスがフランス領に入ってみると、ここがかのフランス王の領地なのかと思うくらい人心は乱れ、土地は痩せていた。王都パリも農民一揆に占拠され、ノルマンディへ逃れたフランス王はパリを解放せんとイル・ド・フランスに攻め込んだが、一揆軍に何度となく撃退されていた。
10月7日に一揆軍はヌムールを攻囲するプロヴァンス軍2000を襲った。ルイスはヴェルマンドワに2000を残しフランシュコンテで発生したブルゴーニュの愛郷主義者の討伐へ向っていたが、急報に接し、軍をヌムールへ向けた。
ヌムールの戦いは今まで彼が経験したことのない種類の戦いだった。
12000もの一揆軍に6000で戦ったこともあろうが、2か月もの間士気が崩壊せずに戦い続けた相手など、連戦を続けるプロヴァンス軍にとって初めてのことだった。
斬っても、突き倒しても、後ろから後から向かってくる農民たち。後味の悪い戦いだった。

ヌムールで一揆と戦っているあいだに、フランス王はパリを取り戻すべく10000の兵を率いて攻囲、ヴェルマンドワで編成されたフランス軍1個連隊はヴェルマンドワ攻囲軍に敗れはしたものの、無防備都市シャンパーニュへと逃れ、同地を制圧した。

---シャンパーニュの中心都市ランスは、シャンパン醸造の一大中心地として有名だが、歴代フランス国王の聖別戴冠式が行われたノートルダム大聖堂が所在するフランス王家にとっての聖地でもある。城砦を築かないのはそのためなのだろうか?ただ単に防御主義にスライダーが移動するのを嫌ったためか(笑)

***ヴェルマンドワの戦い [#d25eb15c]
#ref(Nord-2.jpg,left,around,ヴェルマンドワへ集結するプロヴァンス軍);
ユーグ1世以来のカペー家の流れをくむヴェルマンドワ伯家の治める地。後世ヴェルサイユやフォンテーヌブローと並び称されるコンピエーヌ宮はこの時代まだない。ヴェルマンドワ伯はコンピエーヌから10kmほど離れたピエルフォン城に立てこもりプロヴァンスの攻囲を受けていた。#ref(Nord-4.jpg,right,around,ピエルフォン城);
1447年2月10日、パリを農民から奪い返したフランス王アンリ2世はヴェルマンドワの解囲に10000の兵を率いて向かった。ルイスは5000の兵を率い、ヴェルマンドワの援軍に向かった。
ユーグ1世以来のカペー家の流れをくむヴェルマンドワ伯家の治める地。後世ヴェルサイユやフォンテーヌブローと並び称されるコンピエーヌ宮はこの時代まだない。ヴェルマンドワ伯はコンピエーヌから10kmほど離れたピエルフォン城に立てこもりプロヴァンスの攻囲を受けていた1447年2月10日、パリを農民から奪い返したフランス王アンリ2世はヴェルマンドワの解囲に10000の兵を率いて向かった。ルイスは5000の兵を率い、ヴェルマンドワの援軍に向かった。
どうやらこの戦争の帰趨はヴェルマンドワで決まりそうだった。

ルイスが戦場に到着したのは2月24日、追つけ傭兵のルーク第一騎兵連隊が、次いでプロヴァンス第5連隊、第11連隊が到着する予定だ。なんとか3月1日まで戦線を維持できればプロヴァンスにも勝利の芽があるはずだった。

3月5日、ヴェルマンドワの戦いはプロヴァンス軍の勝利に終わった。

3月下旬のパリ郊外の戦闘で国王軍はさらにノルマンディへと退却していった。
ノルマンディへ追撃をかけたルイスだったが、勝てば勝つほど味方の損害が増えていくこともあって、ノルマンディの戦いが終わった時には、戦えるものは2500人ほどになっていた。逃げるフランス軍はいまだ8000人弱。イル・ド・フランスの攻囲軍と戦って消耗を強いた。国王軍はヴェルマンドワへ。ルイスは騎兵部隊だけを手元に残してノルマンディから長駆ヴェルマンドワを目指した。ヴェルマンドワからヌムールにかけての追撃戦は10月まで続いた。フランス王の兵は最後の一兵まで戦ったが、最終局面での騎兵突撃で蹂躙され壊滅した。敵ながら天晴れである。
しかしまだ、1370年に建設されたバスチーユ要塞を擁するパリと、ノルマンディ南西部サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた堅城モン・サン=ミシェルを陥落させねばならない。歩兵と傭兵を攻囲にもどし、ルイスは騎兵を率いてベリーへ戻り、兵の補充と再編成をおこなった。
その間、ルイスは、バル、ルクセンブルク、ケルン、ブラバントに使者を送り、フランスが1409年から支配するゼーラントへの遠征路を確保した。

1447年11月28日、パリ陥落。241日もの間耐え抜いたパリ市民に敬意を表したい。
1448年元旦、クリークが宣戦


***モンサンミッシェル [#e3225463]
#ref(Mont_Saint-Michel-2.jpg,right,around,出典ウィキペディア);
もともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であったこの島は10世紀に建設された修道院に増築を重ね13世紀には今見るような形になったものだ。モン・サン=ミシェルは百年戦争でも英仏海峡に浮かぶ要塞としてこの地を攻めるものに挫折を与え続けてきた。

既に攻囲は1年を越えていて兵の士気の維持も下がってきている(ゲームなので上がっています)。しかし、司令官に突撃を命じさせたのは、軍の規律を正すためでも、新大陸でクリーク族が攻めてきたという悲報に接したからでもなかった。他の戦線での勝報が届く中、戦後の彼の地位を安泰にせしめるため、一日でも早い勝利を欲していたからに他ならなかった。

サン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。島の入口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時には浜に降りないようにと記されている。最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後といわれており、引き潮により沖合い18kmまで引いた潮が、猛烈な速度で押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン=ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。(ウィキペディア)

それを知らぬ司令官ではなかったが、包囲しても埒が明かないのも事実だった。少なくともそう判断し、現状の停滞の打破を試みた彼の判断はあながち非難できるものではない。しかし、彼の命じた突撃の結果は、これまでにこの城を攻めた者と同じ結果だった。危うく包囲を維持することすらできなくなるような事態に導いた司令官は更迭されたが、結局包囲は続けられた。開城させることができたのは1448年7月20日。モン・サン=ミシェルは460日にも及ぶ籠城戦を戦いぬき、あらためてその堅城ぶりを示したのだった。

1448年11月10日、フランスとの戦争に終止符。ブルボン、リムーザン、ヌムール、シャンパーニュを割譲させ、メーヌ他競合する全ての領有権を放棄させた。
これによりプロヴァンスはフランス国内第二位の勢力となった。一位はもちろんイングランドである。
しかし急速な領土拡張は周辺各国に不快感と危機感を与えることとなり、プロヴァンスの悪評はまたしても上がってしまった。(悪評22.7)
蓄積された厭戦感情と悪評を低下させねばこの先動くことはできそうもなかった。

---ゲーム開始時点からイル・ド・フランスとノルマンディの防御施設レベルは2です。これは1370年に建設されたバスティーユ要塞(牢獄)とモン・サン=ミシェルの存在であるとの解釈から前出のように記述しました。



**改革 [#maaa7ef6]
#ref(kaikaku-1.jpg,left,around,外交官二人態勢);
プロヴァンスがフランスと戦っているうちに、イングランドはポルトガルと戦いヘローナを得ていた。ミラノ-サボイ戦争はミラノの勝利に終わり、サボイはニースを割譲して和を乞うていた。領域を拡大しているのはプロヴァンスだた一国だけではない。

エクスで戦勝記念の祝祭が開催されたころに体調不良を理由に引退したジョルダンに代わり、ジョルダンの弟のユグがルイスのもとへ遣わされていた。小さなルイスの遊び相手をさせられたり、ルイスの書斎の整頓をさせられたりしているユグは周囲の者に、俺は昔ルイスを口げんかで泣かせた事がある。3つ年下の子に言いまかされたことへのルイスの軽い復讐に違いない、とこぼした。ユグが愚痴をこぼしたことが広まり、ルイスの耳に入るように仕組んだのかどうかは諸説あるが、この戦役終盤からルイスに近侍していたのは事実だった。生来ルイスは交渉事が得意ではなかった。ジョルダンの弟だけあってそちらの方面では秀でていたユグを外交担当のアドバイザーにするつもりだった。口の達者さは身をもって知っている。このころの外務大臣はガストー・ド・バニョール卿で、彼の名声は欧州中に響き渡るほどの辣腕外交官だった。戦後はユグをバニョール卿とともに行動させて、外交面から支えてもらうつもりだった。


悔悛者マグダラの聖マリア/St. Mary Magdelene "The Penitent"の祝祭が終わり、無防備のシャンパーニュと中核州に昇格したアゾレスに城砦を建設する資材の搬送が軌道にのったころ、カスティーリャからナバラ侵略に助力を求める使者がエクスにやってきた。
どうしたものか、とルイスは傍らのユグに問うた。
大義名分のない非道の戦いであるし、ナバラはイングランドと同盟関係にある。今ここでカスティリャの機嫌を損ねることと、イングランドと現状で戦うリスクを考えると、ここは参戦拒否の不名誉をうけることになっても静観し、カスティーリャとイングランドが消耗した時に漁夫の利を得るためにも、兵力の増強と国内の整備を行うべきである、と準備してあったかのように淀みなく答えた。

次いでバニョール卿は「カスティーリャとの同盟が喪失するわけではありませんから、参戦を拒否した後に同盟を大義名分にイングランドに宣戦すればプロヴァンスとカスティーリャの間にあるイングランド領を奪えぬまでも友好国を建国して、イングランドの勢力をかの地方から追い出すことはかなうかもしれませんな。もっとも今すぐでは兵力が足りません。ユグ殿の言われる通りまずはこちらの態勢を整えてからイングランドには当たるべきかと考えます。」と彼の主君に言った。

ルイスは彼らの考え通りにカスティーリャの使者に返答することにし、助言に感謝すると伝えた。。フランス国内の問題のみならず、今後このような判断を迫られる機会は多くなっていくであろうし、彼らのような家臣は重きをなしていくだろう。それにしても、外交官というのはこうも辛辣な人種なのか、とルイスは内心舌を巻きながら思ったことだった。

平和とは次なる戦争への準備期間である、とは誰の言った言葉だっただろう。
「国民皆兵制」導入に向けて(陸軍技術を向上させるべく)、オーヴェルニュ近郊ルピュイ出身のベール・ド・ヴァルヴェルを陸軍卿に登用した。ベール・ド・ヴァルヴェルは後に陸軍改革論者としての名声をとどろかせることになる男で、プロヴァンス以外の国の戦争にも研究者として従軍したり見物人として参加したりして見識を深めていた。彼の書いた論文を目にしたルイスはエクスに彼を呼んで話をした。ベール・ド・ヴァルヴェルは「国民皆兵制」は人口の少ないプロヴァンスには必須の制度であるとし、自分なら4年以内に実現して見せましょう、というヴァルヴェルに予算を優先的に回すことを約束した。プロヴァンスはフランス領内初の大型陸軍改革へむけて始動した。


1450年4月1日、プロヴァンスは小さなルイスのお披露目式とその祝祭でにぎわっていた。先年の戦勝祝祭に続けての全領域での祝祭の挙行に、人々は戦争を忘れはじめていた。
国威を示すのは戦争ばかりではない。これも外交官二人の献策で、その効果は大きかった。

***十字軍とメーヌ再征服戦争 [#n458b484]
5月1日、ポルトガルが全てのカソリック国にモロッコに対する十字軍への参加を呼び掛けた。ポルトガルとは同盟関係にあるプロヴァンスには参加の義務があったので参戦することにはしたが、海軍を派遣してモロッコの要港周辺で上陸部隊の搬送を妨害する程度とした。
参加しておけば「十字軍が発行」するのでその効果を3月23日に休戦協定のあけたブルターニュからメーヌを奪い返すために活かすつもりだった。
兵力配置を行いつつ、シャンパーニュとアゾレスの城塞完成を待つ。

1450年11月4日、ブルターニュに対してメーヌ返還を要求して宣戦。
オーヴェルニュがブルターニュに立って宣戦、シャンパーニュとギュイエンヌの愛郷主義者の蜂起もあったが、半年後の1451年5月5日、ブルターニュ降伏。メーヌは再征服されたが、戦争は終わらなかった。スコットランドが同盟を理由に介入してきていたので、決着は海軍がつけねばならないようだった。しかし、艦艇の建造ができるのはマルセイユ港ひとつしかなかった。戦争前から建造を続けていたが、上陸戦に必要な数の輸送船を整備している間に、スコットランドは4度アゾレスに上陸を強行。しかし4回ともアゾレス守備隊によって撃退されていた。
結局輸送船が完成するとスコットランドから和平を呼び掛けてきたのだが、1452年10月までメーヌ再征服から1年5カ月もの間、和平は成立しなかった。

***準備 [#a588d570]
#ref(Angleterre_Guerre_Castille.jpg,left,around,50%,イングランド―カスティーリャ戦争);
1452年9月のマスコギーの乱は3000人のクリーク族がマスコギー砦を襲ったもので、1000人の新大陸の騎兵隊(もっとも弓と槍の騎兵で、銃声とラッパで駆けつけてくる類のものではまだない。)がなんとか守りきったが、プロヴァンス首脳に新大陸の兵力増強を感じさせる事件だった。プロヴァンスからマスコギーまでは船で2カ月余り。騎兵隊の輸送は馬の健康管理が難しい。しかし、新大陸の戦争は機動力重視であり攻城戦は機会が無く、今回の勝利を受けて兵種は今後も騎兵のみいくという判断を下した。

カスティーリャとイングランドの戦争はカスティーリャが優勢だった。イベリアから次々に送り込まれるカスティーリャ軍に、イングランド軍は徐々に圧倒され、ベリゴール-ランドックのラインまで占領されていた。プロヴァンスにとってイングランド勢力がフランス領内から駆逐されるのは喜ばしいが、カスティーリャがそれと入れ替わりに居座られては事態はむしろ悪化してしまう。
1453年10月19日の両国の戦争の終わりは、プロヴァンスにとってはまずまずの結果だったといえよう。カスティーリャ-イングランド戦争はナバラを併合したうえで痛み分けとしたカスティーリャの勝利で終わったが、両国は長い戦争の結果疲弊していたし、フランス南西のイングランド領では今後も反乱が続くであろうことは容易に予想ができた。

この間、プロヴァンスは国力充実のために内政に力を入れてきたのだが、隣接する強敵イングランドが弱体化している今こそフランス国王打倒の好機であるという機運が高まってきた。1455年5月24日、神の思し召しは「ヴェルマンドワを征服!」にこそあるとして、貴族のみならず商人ら平民からも対国王軍戦線が求められた。

#ref(centre_de_commerce.jpg,riguht,around,50%,プロヴァンス交易中心地の商圏);
フランス王への大義名分を獲得したプロヴァンスは1454年7月26日には念願だったプロヴァンス交易中心地を設置した。フランス王との戦が近いため完成を急いだため、一部借入を行っての建設だったが、他国の交易中心地を利用していては戦時中の交易収入が安定しない。
ジェノヴァのシェアをほとんど奪うことになったプロヴァンス交易中心地エクサンプロヴァンスは商港マルセイユから海路を、北フランスへはアンジューまでの道のりを関所なしに結び、年間560もの利益を出す大型交易中心地として出発した。同時にヴェネチアとのワインの交易権を破棄し、中世的交易のくびきから脱することをアピールした。

1454年9月3日、「国民皆兵制」が施行された。これにより16000であった予備役兵は倍の32000となた。従来の人的資源の少なさから発生していた序盤のみの優勢、中盤以降は枯渇した人的資源との戦いという状況が改善されたことは間違いのないところで、プロヴァンスの継戦性は大幅にと言えるかどうかは疑問の入り込む余地があるが、概ね向上したと言えるだろう。
余談だが、6年後、この改革が評価され、陸軍改革論者ペール・ド・ヴァルヴェルの名声は国中で称賛されることとなる。

-
国民すべてがお前達を迎え撃つ兵士なり
たとえ我等の若き戦士が倒れようとも
大地が再び戦士等を生み出すだろう
戦いの準備は整った


**ヴェルマンドワ征服は神の御心である/Conquest est à Dieu [#bbeb8706]

我等を屈服せしめるくびきと鎖
我々の運命を支配せんとす下劣な暴君共よ!

武器を取るのだ、我が市民よ! 
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!

***進軍 [#jfed219d]
フランス王との境界に集結したプロヴァンスの諸軍に進軍が命じられたのは1455年9月16日。フランス王に対して宣戦し、神の御心であるヴェルマンドワの征服を謳い十字架を掲げた戦いであった。
メーヌから6000がノルマンディへ、ヌムールからはパリへ向かう4000とヴェルマンドワに向かう5000が出立した。フランス王について宣戦したロレーヌのルネ2世は自ら兵を率いてフランシュコンテへと進軍した。
#ref(Folke_de_Faruji.jpg,left,around,50%,将軍ランキング);
#ref(Folke_de_Faruji-1.jpg,left,around,50%,将軍ランキング);
ルイスは右翼の指揮をとり、ヴェルマンドワとパリを攻囲した。左翼はこの度の戦いから起用されたフォルケ・ド・ファルジ/Folke de Farges将軍(3-4-6-0)で、名前から想像できるとおり、スウェーデン出身の軍人である。先のブルターニュとの戦争の際に傭兵隊長としてプロヴァンス軍に参加。疾風のごとき用兵を認められ王の知己を得てプロヴァンスの将となった。
フランス国王に新しく仕えることになったジョスカン・デ・エキュール将軍(2-6-3-1)とは傭兵時代からのライバルで、少々不心得ではあるが、この戦争で二人は決着をつけるつもりでいた。

1456年1月、ロレーヌ公はフランシュコンテで手古摺っていた。ブルゴーニュ公の手引きでフランシュコンテに反乱が発生しルネ2世の率いる軍と同数の愛郷主義者と戦わねばならなかった。ノルマンディのフランス王軍を率いたジョスカン・デ・エキュール将軍を破ったフォルケ・ド・ファルジ将軍は攻囲軍を分離し、自らは軍を率いてロレーヌ公の攻囲(苦戦)するフランシュコンテへ向かった。
フランシュコンテでルネ2世を破ったフォルケはそのままロレーヌ領内へ追撃。ナンシーへ逃げ込もうとするルネ2世をナンシー郊外で捕捉。ロレーヌ軍は壊滅した。ロレーヌ領の2州に攻囲軍を配置し、フォルケはシャンパーニュで軍の再編成を行った。6月6日のことである。
フランシュコンテでルネ2世を破ったフォルケはそのままロレーヌ領内へ追撃。ナンシーへ逃げ込もうとするルネ2世をナンシー郊外で迎え撃つ形で戦い、ロレーヌ軍は壊滅した。ロレーヌ領の2州に攻囲軍を配置し、フォルケはシャンパーニュで軍の再編成を行った。6月6日のことである。まさに疾風のごとき用兵であった。

アゾレス諸島にフランス王の軍が上陸したとの報が届いたのは翌日の6月7日だった。小規模な海軍しかもたないプロヴァンスにはどうすることもできない。ノルマンディとゼーラントの陥落まで籠城し持ちこたえてくれるのを祈るばかりだった。
7月7日にシャンパーニュを出立したフォルケ軍は8月19日にはゼーラントにジョスカン・デ・エキュール将軍率いるフランス王の軍勢を発見した。およそ5千のフランス勢が川を盾に布陣している。戦力はこちらが優勢とはいえ、名人通しの対戦である。何が起こるかわからない。
#ref(Folke_de_Faruji.jpg,right,around,50%,ゼーラントの戦い);
両将の対決に決着がついたのは9月2日。損害はプロヴァンス勢がおおかったのだが、フランス王の軍勢が引いていった。
フランス王アンリ2世の懇請で、かなわぬと承知しながらも、何度もゼーラントに攻撃を繰り返したジョスカン・デ・エキュールは4回目の戦いで全滅してしまった。
フランス王にはもうなにも残っていなかった。
1457年3月28日、フランス王はノルマンディとヴェルマンドワの割譲、全ての領有権を放棄するという降伏文書に署名した。(累積悪評24.7)

ゼーラントから帰還途上のプロヴァンス軍の前を悠々と通過するイングランド軍に遭遇した。フランス王ですら諸侯の領地を通過することをためらうというのに、あの島国の者たちの図々しさは!とプロヴァンスの将兵の反感を買った。

***影響 [#n1cc814a]

1457年11月12日、サボイで簒奪騒ぎが発生した。アゴスティノ・ドッタイアーノというものが、王位を継いだと宣言したのだった。サボイはルイスの正妻の実家であった。フランス王との戦いでサボイの動乱に介入することができなかったルイスに妻は会おうともしなかった。扉の向こう側で妻の叫ぶ声が聞こえた。ルイスはくいたがあとの祭りであった。

翌年5月27日「宮廷スキャンダル」とまで言われるほどまでに妻は狂行を繰り返した。いつしかそれは一般民衆にの知るところとなり、プロヴァンス伯家に対する信頼も低下していった。このころルイスは「ブルボンの国境での緊張の高まり」に対処するためエクスをあけがちであった。新領地を治める新しい国の焦点としてブールージュに代官を配置し、軌道に乗るまではエクスに戻ることは難しかった。

9月10日、ブールージュのルイスにエクスから使者がやってきた。ブロワ家の親類に反逆罪の容疑がかけられているという。親族とはだれかと問うルイスに、使者は答えづらそうにしていたが、ルイスに催促されて意を決して言った。
「プロヴァンス伯夫人がブラバントに内通、同国に対する機密漏えいの嫌疑がかけられております。」
スパイは反逆罪で処刑。歴史上現代の日本国以外の人類政体全てでの共通事項ある。
それが事実であるのなら、信賞必罰、国を統べるものであれば「世間知らずな親戚」が妻の狂行だろうが、処罰しなくてはならない。できなければ国を滅ぼすということは古今東西の歴史において真実である。ルイスはブールージュの代官に後を託し、馬上の人となった。エクサンプロヴァンスに到着するまでには決着をつけておかねばならなかった。事件をどう処理するかではなく、気持ちを。

--「宮廷スキャンダル」「世間知らずな親戚」の連発、安定度低下を鑑み、「属司教法の可決」をした。国税-4.0%、安定性費用-8.0%。


***国王追放 [#tdfe0500]
ブラバントの影響権侵害はあきらかであり、プロヴァンス宮廷を巻き込んだ大事件の責任追及はプロヴァンス伯の威信をかけた急務であった。もとをただせばルイスの失策から発生したことなのではあったが、国家というものは自らの失策について責任を負うということは少なく、その責を他所へ求めるというのは常套手段である。プロヴァンスもその例外ではなく、1460年3月、ブラバントに影響圏の侵害を理由に宣戦布告した。属国のオルレアン、同盟国のフランス王がプロヴァンスに宣戦したが、もはやどちらもプロヴァンスの敵ではなく、フランス統一を早めてくれただけだ、とプロヴァンスの諸将はいいあっていた。
それでもブランバント軍は良く戦ったし、相変わらずパリの守りは固かった。1461年2月1日にパリは開城したが、攻囲に11カ月を必要とした。フランス国王とはその場で単独講和とした。フランス王家はパリからゼーラントへと移され、国王の勢力はフランス国内から消滅した。(累積悪評21.4)
3月21日、リエージュでフランセ・ド・ジェヴォーダン将軍がブラバント軍主力を撃破。4月6日には強襲でリエージュを陥とした。ブラナントはオルレアネ割譲と25ダカットの支払いを受諾し休戦協定に署名した。(累積悪評29.2)
結果的に
3月21日、リエージュでフランセ・ド・ジェヴォーダン将軍がブラバント軍主力を撃破。4月6日には強襲でリエージュを陥とした。ブラバントはオルレアネ割譲と25ダカットの支払いを受諾し休戦協定に署名した。(累積悪評29.2)


**ルイスがいっぱい [#y87c1a64]
ブラバントとフランス王に勝利を得た代わりに、プロヴァンスは後継者を失っていた。攻囲戦と後継者の相性がわるいのだろうか。1460年10月30日、パリ包囲のために郊外に陣を張っていたルイスの下に後継者のルイスが病に倒れ治療のかいなく亡くなったと報告が入った。45歳を迎えようと言うルイスがまたしても後継者を失ってしまったのだった。
4月6日のブラバントとの休戦後、ルイスはエクスに戻ったら、有力貴族の中から後継者を選ぶことになるのだが、いまだに決めることができずにいた。
ブラバントからの凱旋の途中、ルイスはロレーヌ公爵領で先に戦死したロレーヌ公に代わりロレーヌを継承した6歳のルイを見舞た。
ルイスがロレーヌを出立しフランシュコンテに入ったころ、バーデン辺境伯から使者が訪れた。ルイスに会うためにナンシーに向かう途上であると。しかし軍旅を止めるわけにはいかない。エクスで戦勝祝賀の催しがあるのでそちらに招待するので辺境伯にはよろしく伝えるように、使者に言うとルイスはエクスへと向かっていった。

祝賀会が開催されたのは、ルイスがエクスについて数週間後のことである。
エクサンプロヴァンスの市街は普段の数倍もの高貴な身分の客があふれ、プロヴァンスの質素な宮殿に入りきらぬフランス各地の貴族や周辺諸国の外交官が宿舎争いを演じねばならぬほどであった。祝祭当日、演説を終えたルイスは各国の使節やフランスの貴族たちと宴席外交いまでいう飲みニケーションをせねばならなかったが、一通り顔合わせと紹介が済むと、ユグ・ド・リベルタに後を押し付けて庭へ逃げ出した。

月のない星のきれいな夜であった。ワインを傾けながら見上げるエクスの空は昼の強烈な青とは違う神秘的な輝きを放っていた。グラスのワインがなくなったのに気付いたルイスは会場にもどるかどうか逡巡していた。そのとき後ろから声をかけられた。
「どうぞ、陛下」
声の主は女性だった。陛下と呼称することはプロヴァンスの臣には禁じていたので外国の使節の共の者か。ルイスは振り返って言葉を失った。
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その娘はバーデン辺境伯の長女でレオポルド・ヴィルヘルムの姉にあたる。辺境伯に紹介もされないうちに一夜を共にしてしまったルイスは気まずかったが、バーデン辺境伯はもともと妻を失い後継者を失ったルイスに娘を貰ってもらうつもりで同行してきていたので、むしろ喜んでいた。バーデンはプファルツ選帝侯とヴュルテンベルク公からブライスガウの領有権を主張され、教皇領との同盟はあるものの神聖ローマ帝国内では孤立無援であった。バーデンは強力な後ろ盾を必要としていた。今にして思えば、ブラバントからの帰路に追ってくるほどのバーデン辺境伯の入れ込みようはこれを企図していたのだと思うルイスだった。


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HttTで痛いのは、後継者の死と毎度毎度の破門。教皇領との友好関係に気を付けていれば破門は防ぐことができる良く忘れてしまうんだが(笑)
一方の後継者の死は防ぎようがない。中世の出生率、成人となる確率は現代に比べてかなり低いことは理解できるが、いくらなんでも死にすぎだとおもう。このAARでも既に4人の犠牲者を出している。シャルル2名ルイス2名である。今回の最後で新たな後継者を得たが、この子もルイス。ルイスルイスルイスがいっぱいである。

#ref(slider.jpg,right,around,ゲーム開始後しばらくして。一回スライダーをいじっている);
さて、安定度回復に要する時間が以前の小国のようには短くなくなってきていた。
さて、安定度回復に要する時間が以前の小国のころのようには短くなくなってきていた。
しばらくは平穏に治め、借金の返済と、重商主義へのシフトを行なって、密偵をゲットできるようにしなくては。
開始時のスライダーの位置から密偵を得られるまでの期間を考えたら国策で密偵を得る手もあると思う。しかし、プロヴァンスのこれまでの状況はそれを許さなかった。密偵を使えないというのはなかなか厳しいプレイとなっている。

次章あたりでは密偵を使ってプレイができそうだ。少しは楽になるだろうか。




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**à suivre [#hfd83ef6]
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